【イベント】「関西弁」とアイデンティティ
【イベント】「関西弁」とアイデンティティ
日本語支援スタッフ 言語情報科学専攻 博士課程
森谷 祥子(もりや しょうこ)(2023年3月18日)
3月2日に、今年度最後の「日本語で話そう!」イベントを無事終えました。参加してくださった留学生の皆様、ありがとうございました!私自身も楽しい時間を過ごせましたし、参加者の皆様にとっても、良いコミュニケーションの時間を提供できていたら嬉しいなと思います。
私が関西出身だということは、前回のコラムでお話しました。今回のイベントで、関西にしばらく住んでいたという留学生の方が参加しており、その話の流れから、私の「関西弁」を披露することとなりました。そこで今回のコラムでは、引き続き日本語の方言について書いてみたいと思います。今回は、「方言とアイデンティティ」というテーマです。
現在の日本語は「標準語」…?
現在、私は普段関西弁を話しません。と言うと語弊がありますが、少なくとも、普段の生活の中で私が関西出身であるということにすぐに気づく人は、以前に比べると少なくなったと思います。もちろん、私の今の日本語の端々に「関西弁」のイントネーションや言葉遣いが散りばめられているので、気づく人は気づきます。ただ、関東に越してきたばかりの約10年前の私の日本語と比較すると、ずいぶん関西弁の要素が薄くなっています。そこで、方言とアイデンティティというテーマについて話す前に、私の日本語の変遷を簡単に振り返りたいと思います。
第一方言としての「河内弁」から、修正された「関西弁」へ
まず幼少期。最初に習得した日本語は「河内(かわち)弁」です。大阪の東部で話される方言らしいです。『じゃりン子チエ』というアニメが40年ほど前に放映されていたのですが、主人公の小学生であるチエたちが話している日本語が、当時の私の周囲で話されていた日本語でした。具体的には、「アホけ(=ばかか)」「何しとんじゃ(=何をしてるんだ)」「シバいたろか(=やっつけてやろうか)」のような言葉が日常的に聞かれる環境でした。一般的には、大人の男の人がそんな話し方で話しかけてきたら、怖いと思う人が多いのではないでしょうか。でも、当時の私にとって、そんな話し方をする男の人は、「おもろいおっちゃんやなあ(=おもしろいおじさんだなあ)。」くらいの感覚でしかありませんでした。(「コテコテ」の関西弁に興味がある方は、是非一度『じゃりン子チエ』をご覧ください。)
その後、大阪の中心に位置する私立の女子中学校に通い始めました。そして、クラスメートと私が話す日本語に違いがあることに気づきました。みんなが「きれいな」関西弁を話しているのに、私は「きたない」関西弁を話している!と思ったのです。「おまえシバクぞ」なんて言ったら、友達がいなくなってしまいそうです。思春期真っ只中の私は、直感的にそう感じました。そして、自然と「河内弁」の要素を薄めた「関西弁」を話すようになりました(ここでは、「関西弁」を「河内弁」の上位語として使っています)。ある意味、周囲と同化するために、自分の日本語を変化させたのです。
その後、奈良や京都にも住み、関西の様々な方言に触れる中で、私の日本語は小さく変化し、修正されながら、確立されていきました。私は30歳を手前にして、初めて関東(栃木県)に住み始めましたが、その時には、立派な「関西弁」ネイティブスピーカーでした。もう、周囲がどんな日本語の方言を話そうが、私の「関西弁」はほとんど揺らぐことはありません。逆に、関東方言を話そうとしたところで、自分じゃない誰かの真似事をしているような、強烈な違和感が襲ってきて、話し続けることはできませんでした。当時の職場の仲間には、文尾に「〜じゃん」なんて格好つけてるみたいで絶対使えない!!と話していたのを覚えています。(今じゃ、何の違和感もなく使っていますが。)また、後に通い始めた東京大学では、日本語の音声サンプルを集めていらっしゃる教授に、「あなたは理想的な関西弁を話す」と言われることもありました。
私は特に強い意志を持って「関西弁で通すんだ!」と思っていたわけではありません。ですが、長年培ってきた方言は、すでに自分を表現する言語ツールとして私の中で定着していたのだと思います。しかし、そんな私が自分の日本語を変えるきっかけが訪れます。それは日本語教育でした。
日本語教師をすることで生まれた葛藤
私は10代の頃から、教えることが好きでした。かと言って、学校で特に勉強ができる方でもなかった私が、誰かに質問されることなんてほとんどなかったのですが。唯一、質問されることがあるとしたら、それは英語に関するものでした。別に英語がすごく話せるわけではありません。ただ、幼少期から英会話学校に通っていたこともあって、他の教科に比べたら得意教科ではありました。多くの方に経験があるかとは思いますが、誰かに教えると、自分の勉強にもなりますよね。他の人に説明することを通して、自分の頭の中が整理できたり、実は理解できていなかったポイントを改めて調べることで、自分が学ぶきっかけになったりしませんか。私はそれが楽しいなと感じていました。結果的にそれが教員を目指すきっかけになりました。教えるなら、教科は英語だなと言うことで、英語教師になりました。
長年英語教育に携わり、多くの貴重な経験をしました。しかし、大学院での研究を通して、日本にいる外国につながる人々の存在に改めて気づくことになり、日本語教師になろう!と思いたったのです。大きなキャリア変更ではありますが、なんとかそこから日本語教育の勉強を始めました。日本語教師をするにあたって、なにより懸念していたのは、私の「関西弁」でした。なぜなら、日本語教育の世界では、「関西弁」は「標準語」ではなく、時には「間違った日本語」として捉えられるからです。
そこで私の葛藤が始まりました。そもそも、英語教師をしている時には、「アメリカ英語やイギリス英語にこだわる必要はない!」と声高々に論じていました。だから、日本語教育においても、東京方言やNHKで使われる日本語だけが「標準日本語」として認められていることに批判的な考えを持っています。つまり、私の関西人アイデンティティの内なる声が、日本語教育の「標準語イデオロギー」に抵抗するのです。
一方で、教師としての私のアイデンティティは、関西人の私を批判します。教師としての私の内なる声が、「学習者にとって必要な日本語とはなにかを問いなさい」と言います。これは究極的には答えの出ない問いです。ですが、葛藤の末、ひとまず私の中で答えを出しました。それは、「日本語のテストに受かるための日本語」が教師として求められるものだろう、だから、私の「関西弁」は日本語の授業では現時点では最適ではない、というものでした。
「標準語」の学習と言語レパートリーの変化
そして、日本語教師として働き始めたと同時に、日本語アクセント辞典などを使いながら自分の日本語も意識して「標準語」に変えていきました。ここでの「標準語」は、日本語のテキストやNHKで使われる日本語という方が正しいかもしれませんが、便宜上、「標準語」と記します。とにかく、授業をするために、日本語の「標準語」アクセントや表現を学んでいったのです。
すると、自然と日常生活の中でも、「関西弁」で話すことが減っていきました。不思議なものです。これまでは、「関西弁」以外の日本語は私の言語レパートリーに存在していませんでした。しかし、教師というアイデンティティが強く働くことで、自分の言語レパートリーに変化が起こったのです。
イベントの中で「関西弁」や「河内弁」を話すこと
このような過程を経て、今の「普段関西弁は話しません」という状態に至ります。人間って、つくづく、社会的な生き物だなあと感じます。つまり、現在、私が普段の生活の中で関西弁を話さないのは、「日本語教師」というアイデンティティがあるからなんです。
とはいえ、私の中にある、関西人アイデンティティv.s.日本人教師アイデンティティの葛藤が消えたわけではありません。やはり、日本語教師としては、「標準語」とされる日本語にも対応できることが大切だと思っています。しかし、関西人アイデンティティも重要な私の一部です。つまり、私の中のアイデンティティにまつわる葛藤は、常に消えないものなのです。
だからこそ、今回のイベントのように、日本語学習の場で関西弁を披露するという経験はとても新鮮なものでした。本来、日本語学習の場において「関西弁」は受け入れられないものであるという認識を、私も(多くの人がそうであるように)無意識の内に持っています。そのような力学が働く場で、「関西弁」を話し、それが受け入れられるという経験は、単に珍しいだけではなく、常に私の中にあるアイデンティティにまつわる葛藤を一時的にであれ停止させるのです。そのような葛藤の停止によって、私の中でなんとなく緊張がゆるみ、ホッとする感覚を得るのだと思います。
じつは、今回のイベントでは、修正された「関西弁」だけではなく、上記の「河内弁」も披露していました。「河内弁」は、思春期の私が「友達には受け入れてもらえない」というレッテルを貼ってしまった方言です。その「河内弁」を日本語学習の場で話すことへの心の葛藤は、「関西弁」を話すよりもさらに強くなります。イベントで「河内弁」を聞いた参加者の方がどのように受け止めたかはわかりませんが、普段の葛藤が強い分、自分の第一方言の存在を少しでもお話できたことによる安堵感のようなものは大きかったのだろうと感じています。
さいごに
今回のコラムでは、アイデンティティの変化にともなって、私の日本語が変化していったプロセスと、アイデンティティの変化によって生じた葛藤についてお話ししてきました。今回の私の話を読んで、皆さんはどう思われたでしょうか。これを読む方のほとんどが多方言・多言語話者であると思います。皆さんは、私のように、自分の方言や言語に関して葛藤を感じることがありますか。是非、様々な方の経験や考えを伺ってみたいです。
さて、今回で、私がOCJ日本語支援スタッフとしてコラムを書かせていただくのは最後となります。拙い文章を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。このようなコラムを書くのは初めての経験でしたが、日本語を話すことや言語を学ぶことについて、改めて振り返ることができました。自分の奥に潜む思いを、言語化して外に発信できたことは、大学院生生活の中でも大変貴重な経験でした。
また、イベント運営を通して、貴重な出会いを多くさせていただきました。参加者の皆様、スタッフの皆様、実りある時間を過ごさせていただきありがとうございました。私の日本語教師としての道はこれからも続く予定なので、皆様とまたつながる機会をあることを願っています。今後ともよろしくお願いいたします。