【日本語学習】或る校正者の覚書:

時制・母語干渉・論文形式をめぐって

日本語支援スタッフ 総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程 若杉美奈子2022124日) 

 

はじめに

これまで、留学生の日本語論文の校正に携わってきて感じたことが二つある。

一つは、非母語話者は、母語の干渉を受けるということ。もう一つは、分野により異なる論文の形式が、母語の干渉を一層複雑なものにしているということである。

具体的な例を挙げると、韓国語母語話者の文章は受動態が多い、指示詞が日本語と逆である、中国語母語話者の文章は現在形が多い、などである。今回は、母語の干渉を受けやすい例として、時制を取り上げたい。

 なお、筆者は言語学の専門家ではないことをここで断っておく。  「外国人が間違えやすい日本語」(日本人が間違えやすい○○語)というような、世にありふれたようなチクチク本のような指摘するつもりはない。ある一人の校正者によって書かれた、日本語で文章を書くことに挑戦しようとしている日本語学習者および、校正者(将来の校正者)に向けての覚書程度のものであるので、気軽に読んでいただきたい。

 

1.時制を気にしない言語

 筆者は、趣味と研究上の実益を兼ねて、いろんな言語を学んだ言語オタクである。これまで学んだ言語には時制がない言語があった。もっとも、ここで「時制がない」というのはやや乱暴であり、正確には印欧語にみられるような人称や時間による動詞の変化がないという意味である。例えば、中国語、ベトナム語、インドネシア語、マレー語、タイ語、ラオス語、カンボジア語、ビルマ(ミャンマー)語などが挙げられる。中国語を除けば、これらの言語はオーストロネシア語族に属する東南アジア言語である。

では、これらの言語は、どのように時制の区別をするのかというと、①「昨日」「明日」「今」「既に」など時間を表す言葉を使う。②過去・未来を表す時制詞を使う。③時間に関する言葉や時制詞を使わず、前後の文脈から判断する、ということになる。

 ここで、筆者がこれまで比較的真面目に取り組んだ言語のうち、インドネシア語とベトナム語を例に挙げよう。まず、両言語とも上記のように時制がない。動詞は変化せず、文脈で過去や未来を判断すると言う暗黙のルールが存在する。したがって、「学校に行く」「ご飯を食べる」という文も、文脈によっては過去や未来のことを意味する。過去や未来の文を作るには、「既に」「今」と言う副詞や「昨日」と言う時を示す名詞を加えることで、時間を示すことができる。そして、特に強調したいときは、時制詞と過去や未来を示す言葉を併用する。言い換えれば、そうでない場合は、このような言葉を付ける必要はなく、文脈で判断するのである。

国が異なれば時間の概念も日本語とは異なるのだろう。これらの言語は、動作の前後で厳格に現在・過去・未来を区別しない。そう考えると、言語には民族の気質が表れているようにも思える。動作を人称や時制で区切らない言語空間が、そこには存在するのである。

 

2.事件は「いつ」起こった?!

 そうした理由から、これらの言語を母語に持つ書き手の文章もまた、時制が存在しないという特徴が見られる。もちろん書き手本人の中では時間の流れはある(はずである)。しかし読み手としては大いに混乱する。

例えば、歴史や文学の論文。過去に起こった出来事について述べているはずなのに、現在形と過去形が混在していたり、全部現在形という文に遭遇したことがある。その出来事は果たして既に起こったのか、これから起こるのか(これがミステリー小説であれば、主人公は死んだのか、これから死ぬのか)ハラハラするところである。明らかに過去であることは分かっているので、ある程度推測はできるが、どこからが現在で、どこからが過去なのか、そしてそれより前に起こっていた出来事の境界線が曖昧になり、初めて読む読者(おそらく筆者)は頭がこんがらがってしまう。

「外国語学習で、どんな言語でも必ず時制を学ぶように、日本語学習者もまた、過去・未来を学んだはずである、と思うのであるが、それなのに、どうして現在形なのか、日本語を学ぶときに過去形を習うはずなのに」と悩んでしまう。しかし、校正の数をこなしていくうちに筆者は悟った。母語の干渉を受けるというのは、ほとんど無意識下で起きているのだと。

 

3.母語の干渉 か?それとも、 論文の形式か?

 また、時間軸の揺れを発見した校正者においては、それを直ちに母語干渉と判断してはならない。たとえば、文系論文、特に時系列に沿って議論するタイプの論文では、時間軸の揺れが気になった場合には修正指示を入れるべきである。しかし分野により、現在形で議論を進める形式の論文もあるために、注意せねばならない事例もあるのだ。

ここでは、言語学を専攻するベトナム人留学生の論文を校正した際の私の経験を一例としてご紹介しよう。その論文は、調査目的、内容、結論が現在形で書かれ、皮肉なことに、「日本人学習者が間違いやすいベトナム語の時制」がテーマであった。普段、歴史や文学の論文を読み慣れていた筆者は、大いに混乱した。これはもしかしたら、これから先に取り組む研究計画書なのではないかとさえ思った。研究計画を論文のように校正してしまったら一大事であると思い、筆者は、論文の著者にすぐさま確認を取った。その時の「ベトナム語には時制がないから」という著者の言葉は衝撃的だったが、無事校正を終えることができた。その後、同じような形式の論文を何度かこなしていくなかで、これは母語の干渉だけでなく、論文の形式の問題でもあると気づき、校正する側も様々な論文の形式を知っておく必要があると実感するようになった。

そこで、これから校正者となる誰かに向けて、校正者として前もって把握しておくべき、理系と文系、実験系と記述系の論文の形式の違いについて簡単にまとめておきたい。まず、理系と文系では、論文の形式が異なり、実験系や証明系の論文は、ほとんど現在形で文章が完結する。過去形を用いるのは、せいぜい結果ぐらいである。文系の場合は、データ解析、調査などがこの形式に近く、調査目的、調査方法は現在形で書かれているものもあった。こうした形式を知っていれば、混乱することなく校正が進められることだろう。

 

おわりに−校正者としてのジレンマ

 ここまで時制と母語干渉あるいは論文の形式の問題を取り扱って一端は整理したわけだが、それ以外にも気を付けていることや考えることが多くあることを最後に述べておこう。既に述べたように、論文を校正する際、論文の書き手の母語を知っておくことは、母語の干渉から来る日本語の癖を知るうえでも重要である。しかしながら、中には、母語以外の外国語で教育を受け、その外国語の干渉も受ける場合もある。そうであるとすれば、母語干渉のレベルばかりでなく、言語学習経験も把握しておく必要があるのではないか、と最近思うことがあった。今後は、このように様々なレベルを想定しながら、依頼論文に真摯に向き合い、校正作業に臨みたいと思う。