【社会・文化】都市近郊映画 cinéma périurbainとは?
【社会・文化】都市近郊映画 cinéma périurbainとは?
日本語支援スタッフ 超域文化科学専攻 博士課程
茂木 彩(もてぎ あや)(2025年3月)
はじめに
フランスのパリ・シテ大学の博士課程に留学をしております茂木彩と申します。私は2025年の1月に「都市近郊映画cinéma périurbain」に関するシンポジウムに参加をしました。フランスでのシンポジウムですが、都市近郊というテーマは日本に留学している皆さんにとっても身近な話題だと思います。今回のコラムでは、「都市近郊映画」について、発表の準備からその後までの過程で考えたことを記したいと思います。
シンポジウムについて
シンポジウム「映画における都市近郊の暮らしの環境詩学」は、私のフランスでの指導教員である、ギュスターヴ・エッフェル大学のディアーヌ・アルノー教授が企画したものでした。ギュスターヴ・エッフェル大学は、「都市部の生態系」に特化した研究プロジェクト「URBANATURE(直訳すると都市自然という意味の造語)」に、他大学との連携のもと継続して取り組んでおり、当該プロジェクトの一環で、都市近郊映画のシンポジウムが企画されました。シンポジウムの趣旨としては、「都市と田舎の中間地域における人々の暮らしやエコロジカルな論理[1]」を映画がいかに映し出しているのかを探究するというものでした。当日は、日本でも知名度のあるフランスの現代映画監督ベルトラン・ボネロの作品をはじめ、パリ郊外モンフェルメイユのレ・ボスケ団地を舞台にした作品(ラバ・アムール=ザイメッシュ『ウェッシュ、ウェッシュ、何が起こっているの?』、2001年)、郊外の一戸建て住宅地域を舞台にした作品(イザベル・チャズカ『ドメスティック・ライフLa vie domestique』2012年、セリーヌ・ルゼ『夜を待ちながらEn attendant la nuit』、2023年)、郊外の「庭の植物」をテーマにした実験映画についての発表がありました。シンポジウムの締めくくりとして、映画と郊外の歴史的結びつきを強調する初期サイレント映画の上映・発表がありました。同発表によれば、映画発祥国フランスでは、その初期(19世紀末から20世紀初頭)に、多くの撮影スタジオがパリ郊外にあった。さらに、馬車、自転車、地下鉄の共存、郊外への交通網の発達を、初期作品に確認することができる。つまり、映画がいかに近代化と並行して発展してきたのかを、「初期映画と郊外」という視点は明らかにしてくれるのです。
このように充実したラインナップのなかに、私の発表が組み込まれたのでした。以前のコラムでも言及したのですが、私自身は留学先で、2011年の東日本大震災(以降「震災」)に関する映画作品の研究をしています。最近は、「震災の後に日本で暮らすとはどういうことなのか」、「復興とは何なのか」という問いに関心があり、震災から時間を経て作られた作品の美学・説話形式を分析することで、上記の問いについて考察をしています。主に現代日本映画を専門とするアルノー教授は、震災は「都市と自然」という問いと何かしらの関連があるはずだから発表するのはどうか、と提案してくれたのでした[2]。アルノー教授からの提案は2024年の7月の面談時で、9月頭までに発表要旨を用意してほしいとのことでした。フランス留学5年目とはいえ、フランス語で発表するのはやはりハードルが高いのですが、せっかくの機会なので参加することを決意したのでした。
「都市近郊périurbain」の定義、フランスの「郊外映画」
しかし夏休みのあいだ、私は頭を抱えることになります。私にとってフランス語での「都市近郊périurbain」という言葉が何を指すのか、より具体的には都心部からどれくらいの範囲が「都市近郊」と言われるのかがいまいち掴めなかったからです。それはすなわち、どういった作品を論じるべきなのかが分からないという問題と不可分でした。辞書を引くと、「périurbain」の接頭辞のpéri-には「周辺」という意味があります。したがって「都市の、都会の」という意味の形容詞「urbain」と組み合わせられると、périurbainとは「都市周辺部」、「都市近郊」という意味になります。フランス人の友人に聞いてみると、「都市近郊」とは「都市と田舎のあいだのことだよ」というなんとも簡潔すぎる回答を得ました。
私は、辞書で調べても、ネイティヴに聞いてみても、「都市近郊」の意味が曖昧なままで、この言葉が具体的にどういうイメージを伴うのかがつかめずにいました。「都市近郊」よりも、「郊外banlieue」という言葉の方に、より馴染みがありました。実際、「都市近郊の映画cinéma périurbain」よりも「郊外映画cinéma banlieue」という表現に触れることの方が多いです。郊外映画とは、一般的に、郊外に建てられた低所得層向けの団地を舞台に、そこに住む移民を主人公にした作品を指します。パリ郊外を舞台とした映画作品としては、たとえばマチュー・カソヴィッツ『憎しみLa Haine』(1995年)が一番有名だと思います。直近だと、セバスチャン・ヴァニセック『スパイダー/増殖Vermines(直訳すると虫ケラ)』[3]というパリ郊外(ノワジー=ル=グラン)の団地を舞台にしたホラー映画が2024年に公開され、話題になりました。邦題にもある通り、毒蜘蛛が本作品の恐怖要素になります。この毒蜘蛛は、北アフリカから密輸され、団地にやってくるのですが、みるみる巨大化し、繁殖していきます。主人公の若者たちは蜘蛛が蔓延る団地から脱出しようとしますが、毒蜘蛛による被害拡大防止を理由に、機動隊に閉じ込められてしまいます。物語後半では、「蜘蛛VS若者」の構図が、「若者VS機動隊」という構図へと変化します。一緒に鑑賞したフランス人の友人は、機動隊に退治される毒蜘蛛は移民の比喩でもある、この映画は単なるホラーではなくてフランスの社会問題(とくに外国人嫌いや警察による暴力)を描いていると絶賛していました。
社会学者の森千香子によれば、郊外映画はフランスにおいていちジャンルとして定着しており[4]、「郊外映画祭」も毎年開催されています[5]。ポンピドゥー・センターでも、パリ郊外出身で、世界的に評価されるアリス・ディオップ監督の構想による、郊外映画の上映イベントが定期的に開催されていました。フランスでは映画を通じて、郊外問題に対する文化的なアプローチが更新され、模索され続けているのです。
日本の都市近郊映画
パリ郊外のイメージはなんとなくあるとはいえ、それでも「都市近郊」との違いにいまいちピンとは来ない私は、日本で「都市近郊」とはどういうイメージが一番近いのかと疑問に思い、調べ物を続けました。「都市近郊」という用語の定義で一番しっくりきたのは、Routledge Companionシリーズの「風景学Landscape Studies」論集でした。そこに、「Peri-urban Landscape Studies」という題の論文があったのです。当該論文によると、都市近郊とは一般的に、農村部と都市部の接点にある「通勤圏」、あるいは郊外のさらに外にある都市部を帯状に取り囲む地域を指します[6]。日本に関して言えば、「ニュータウン(1950年代から1970年代にかけての高度経済成長期に、都市の人口過剰に対処するために新たに開発された郊外地域)」、「ベッドタウン(大都市に通勤する住民が住む郊外の住宅地域)」、「スプロール現象(無計画、無秩序に、都市部が郊外や周辺の農村地域へと拡張する現象)」といったトピックも、上記の定義に含まれるのではないかと考えました。関東地方を例にするなら、東京23区外の多摩地域、神奈川県、千葉県、埼玉県が一般的にベッドタウンとされていると思います――留学生の皆さんは『翔んで埼玉』(武内英樹、2019年)をご覧になると良いかと思います。東京を最上位とした都市近郊各地の階層意識が、過度なまでにユーモラスに、きわめて痛快に描かれています。そのほか、多摩ニュータウン開発を背景とした『平成狸合戦ぽんぽこ』(高畑勲、1994年)、東京郊外の団地での生活をとらえた『海よりもまだ深く』(是枝裕和、2016年)、また、スプロール現象を拡大解釈するなら、東京湾岸の埋め立て地域で発生する連続殺人事件を描いたホラー映画『叫』(黒沢清、2006年)といった作品が挙げられます。
映画で描かれる都市周辺部の暮らし:濱口竜介『寝ても覚めても』(2018年)を例に
調査を経て、私は、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』(2018年)と『ドライブ・マイ・カー』(2021年)を発表で扱うことに決めました。理由は、両作品の重要な場面が都心からやや離れた場所、かつ水辺という自然との接点で撮影されており、都市周辺部での暮らしをめぐる問いと「震災後を生きること」という問いをリンクさせて論じることが可能になると考えたからです。以下では、『寝ても覚めても』の発表内容に部分的に触れたいと思います。
『寝ても覚めても』は、顔がそっくりな二人の男性と女性の三角関係を描きます。主人公の朝子ははじめに大阪で麦(バク) と出会います。けれど麦には放浪癖があり、ある日、何の説明もなく姿を消してしまいます。時が経ち、東京の喫茶店で働く朝子は、麦と瓜二つのサラリーマン亮平に出会い、恋に落ちます。東日本大震災を東京で経験した二人は、宮城県閖上での復興ボランティアに、月に一度、参加するようになります。その後、亮平が大阪に転勤することが決まり、朝子は亮平についていくことを決意します。問題となるのは、二人が大阪のアパートの内見をする場面です。不動産屋さんとの会話から、そのアパートが淀川支流に実在する天野川沿いに位置していることが分かります[7]。不動産屋さんはまた、近隣に小学校があり、子どもができた際には良い環境となるだろう、と述べます。朝子と亮平がその発言を否定しないことから、二人が結婚を見据えたうえで、長く住む場所を探していることが分かります。亮平が、この川が氾濫したらこのアパートは終わりだ、というのに対し、朝子は水害リスクを気にかけることなく、このアパートが好きだからここにしたい、と述べます。結局、夫婦は引っ越し先をこのアパートに決めます。
日本がその地理的な特性上、断続的に大きな水害に見舞われていることを考慮すれば、朝子がなぜこのような場所に住みたいのかが、少なくともこの時点では、理解できません。とはいえ、物語が展開するにつれ、川沿いのこの家が、朝子と亮平の不確かな関係性を象徴する説話的な役割を果たしていることに気がつきます。この内見のあと、朝子は麦と東京で再会し、大阪への引っ越し前日に駆け落ちしてしまいます。朝子は麦の車に乗って、東京から北海道へと向かうのですが、仙台手前の高速道路を降りたところで朝子は目を覚まし、ボランティアで出会った津波被災者の方からお金を借りて高速バスで大阪に戻ります。映画の結末場面では、まだ和解していない亮平と朝子が、大阪の新居から増水した川を眺めます。氾濫しそうな川の大写しのショットの後、それを真正面から見つめる二人のツーショットになります。亮平が「汚い川やで」と言うと、朝子は「でも、きれい」と答えます。川の濁った水は、二人の関係性、および水害リスクに文字通り直面しつづけながら暮らすという両レベルでの不確かな未来を示唆しています。しかしエンドクレジットで流れる主題歌『River』は、恋愛の紆余曲折を引き受けるような内容のラブソングになっています――作曲を担当したtofubeatsは、川の三作用「侵食・運搬・堆積」と朝子の奔放な恋愛を結びつけるようにして同曲を書いたそうです。
素直に鑑賞すれば『寝ても覚めても』は恋愛映画であると考えられますが、物語世界から少しだけ注意を逸らして、環境批評という観点からこの結末場面を解釈してみると、都市近郊での暮らしをめぐる社会的な問題が浮かび上がります。その問題とはすなわち、利便性や不動産価格の安さといった理由から、水害リスクがある場所で宅地開発が進んでおり、当該地域の人口――とりわけ高齢者や子育て世代――が増えているという現状です[8]。高齢者や子供は、災害時に自発的に避難することが困難であるため、しばしば「災害弱者」と呼ばれます。私は、「災害弱者」の対象者に、自然災害のリスクがある地域に住み、過去の災害を無視したり忘れたりする若者も含まれると思います。
『寝ても覚めても』の結末場面は、朝子と亮平もまた、潜在的な「災害弱者」であることを示唆しています。さらに同場面は、震災のレイヤーを加えることで「災害弱者」を再定義しているようにも思われます。主人公たちは、大阪に引っ越すことで、被災地から物理的に離れてしまいます。引っ越しは、彼らにとって復興ボランティアに参加することが困難になること――ひいては震災を忘れてしまう可能性を意味します。朝子は浮気をしてしまいますが、大阪に戻るために被災者の平川さんからお金を借りることで、再び閖上に戻ってくることを約束します。朝子の浮気と改心を伴う東京―宮城―大阪間の大移動は、住む場所がどこであっても、震災という出来事と地続きにあるということを、改めて気づかせてくれます。このように『寝ても覚めても』の結末場面を分析してみて、私は同作品が現代のエコロジカルな教訓譚――「暮らし[9]」をめぐる教訓譚――の役割を果たしているように思われます。その教訓とは、震災を「東北地方の過去の災害」として独立させるのではなく、その延長線上に私たちの暮らしがあり、日常に存在する災害リスクから目を背けないという考えです。水害の危険性があるならもっと安全な場所に引っ越せばいいという考えもあるとは思いますが、大小さまざまな川が暮らしの中にある日本に生きている限り、必ずしもそれは容易ではないと思います。NHKの記者は、日本の都市部や郊外に住む人々にとって、水害はいまや「宿命」だと報じています[10]。物理学者・文筆家の寺田寅彦がかつて述べたように、災害は人々がそれを忘れたときにやってくるのです。
結びに:自然と共存するとは?
暮らしの利便性と災害リスクはいまや共存していくほかない。『寝ても覚めても』が示唆するもう一つのこの教訓は、震災を経験するずっと前から日本は知っていたのかもしれません。たとえば、日本では、神社やお寺は災害の危険性が低い場所に建てられてきました。その意味で、神社は安全な場所を特定するための目印になるのです。この知恵の大切さを、私はパリに留学する前、2019年の台風19号上陸時に身をもって実感しました。当時、私は東京の調布市に住んでいました。この台風の影響で多摩川が氾濫したことは記憶に新しいと思います。私のアパートは川から少し離れていましたが、同じ調布市内の姉とパートナーが住むマンションに避難しました。マンションは神社に近かったので、姉のパートナーが私に避難するよう勧めたのでした。幸い、私のアパートには被害はありませんでした。
自然とどのような関係を織りなすことができるのか。「都市近郊の暮らし」というテーマは、現代を生きる私たちが引き受けなければならないこの課題に光を当てるものだと、遅ればせながら私は気づいたのでした。本コラムは、日本における都市近郊映画、とくに『寝ても覚めても』を対象に環境批評的な考察をしました。しかし、都市近郊の暮らしをめぐる諸問題は、留学生の皆さんが現在暮らしている地域やご出身地にも同様に当てはまるはずです。皆さんが住んでいる地域には、どのような防災・減災の知恵がありますか? そこには、自然との関係性のどのような歴史がありますか? さらに、自然とのこれからの関わり方をどのように想像することができますか? これから皆さんが出会っていく都市近郊映画は、きっと、そのようなエコロジカルな思考を促してくれるでしょう。本コラムがその入口になれたなら幸いです。
註
[1] シンポジウムの趣旨文より引用しました。https://urbanature.hypotheses.org/5513 (2025年2月27日閲覧)
[2] ちなみに、私が把握する限り、フランスでは教授や博士課程の院生が主体となってシンポジウムを企画することが多く、他大学にも発表者を募ります。人文系だと、「fabula」というWebサイトから募集情報が一覧で見ることができます。自分の専門分野の学会に所属して、その学会の大会で発表し、学会誌に寄稿するのが日本だと一般的かと思いますが、フランスはもっと流動的で、複数の大学の研究室が共催することが多い印象です。
[3] 本作品は日本でも全国上映されているようです。公式ウェブサイトのURLをご覧ください。https://unpfilm.com/spider/ (2025年2月27日閲覧)
[4] 森千香子、「フランス郊外映画と『バティモン5』:移民たちの住宅をめぐる闘い:Ladj Ly, Bâtiment 5: les indésirables (Srab Films et al.)」、『インターセクション』、第2号、2024年、97-98頁。
[5] 郊外映画祭については、次のウェブサイトをご覧ください。 https://www.cinebanlieue.org/edition/programmation/20_edition-2023.html (2025年2月27日閲覧)
[6] Mattias Qvistöm, “Peri-urban Landscape Studies,” Peter Howard, et al. (eds), The Routledge Companion to Landscape Studies, London, Routledge, 2019, p. 523. なお、都市周辺地域の開発は、さまざまな問題を引き起こしています。たとえば、ゴミ焼却場や空港といった、社会にとって必要ではあるが、自分の居住地区にはあってほしくない、いわゆる「迷惑施設」がしばしば都市近郊に建設され、その埋め合わせに、自然豊かな美しい公園やゴルフ場といった、近隣住民の憩いや気晴らしの場所が併設される傾向があります。
[7] 私は大阪にまったくの縁がないため、この場面の撮影地に関して、大阪出身の友人とやりとりをすることがありました。その友人のお母様が大阪の地理に詳しいとのことで、お話を聞いたところ、天野川が流れるこの町は枚方という場所にあるのではないか、と教えてくださいました。枚方市のホームページによると、同市は大阪と京都の中間に位置し、二つの都市を結ぶ京阪電車の特急停車駅があります。自然にも恵まれており、通勤・通学に便利なベッドタウンとして知られているようです。枚方市、「大阪と京都のどまん中!」、2022年3月24日、https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000014124.html (2025年2月27日閲覧)
[8] NHK、「多摩川沿いなぜ“浸水エリア”に新築が…徹底分析しました」、2019年12月3日、
https://www3.nhk.or.jp/news/special/saigai/select-news/20191203_01.html (2025年1月15日閲覧)
[9] 周知の通り、エコロジーの接頭辞「eco」は、語源的にギリシャ語の「oikos」に由来します。「oikos」は「家」や「居住」を意味します。
[10] NHK、「日本の宿命“浸水する街に住む”」、2020年9月25日、
https://www3.nhk.or.jp/news/special/saigai/select-news/20200925_01.html (2025年1月15日閲覧)