【調査・研究】誤訳か?名訳か?タイトルの訳しづらさ
【調査・研究】誤訳か?名訳か?タイトルの訳しづらさ
日本語支援スタッフ 言語情報科学専攻 博士課程
岡本 佳奈(おかもと かな)(2023年3月31日)
翻訳における難物、タイトル
「タイトル(“title”)」という英単語には色々な意味があります。特に今回検討したいのは、作品などの「題名」、そして人の「称号」という二つの意味についてです。この文章では、これら二つの「タイトル」がいかに翻訳において難物かということをお話しし、最後にその厄介さが日本語論文を書く人にどのように関係するかをまとめたいと思います。
題名としてのタイトル
まず「題名」としてのタイトルについてです。私は言語情報科学専攻の博士課程に在籍しており、普段は19世紀イギリス文学を研究しています。英語圏の文学作品が翻訳されるとき、その題名が英語をそのままカタカナ表記に変換した形で発表されることもあります。しかし、いわゆる正典とされる近代文学作品の多くには、様々な工夫を凝らした日本語の題名が冠されています。『荒涼館』(Bleak House)、『嵐が丘』(Wuthering Heights)、『二都物語』(A Tale of Two Cities)などは、英語の意味が正しく反映され、日本語としての語呂も良い名訳タイトルと言えるでしょう。
一方で、誰もがよく知る邦訳タイトルでありながら、その訳の正確さに疑問符が付く場合もあります。例えば、シャーロック・ホームズシリーズ初の長編作品、『緋色の研究』(A Study in Scarlet)と言えば、ミステリー好きでなくとも一度は耳にしたことのある題名でしょう。しかし、原題の“study”を「研究」とするのは不正確なのではないかということがしばしば指摘されています。このタイトルは、作中で主人公ホームズが「緋色の研究、ふふ?美術用語を借用するのも悪くないだろう。(“[a] study in scarlet, eh? Why shouldn’t we use a little art jargon.”)」と述べる事に由来します。ホームズは、探偵という自分の生業を、殺人という緋色の糸を探し当てるようなものだと説明し、この作業を“a study in scarlet”と名づけるのです。“study”という単語には、「研究」という意味に加えて「習作」という意味があります。そしてホームズが挙げる美術用語としての“study”は通常「習作」を指すため、おそらくこの題名のより正確な訳は、『緋色の習作』なのです。しかし、『緋色の研究』という題名が既に定着していることや、探偵小説としてその響きが作品に似合っていることなどを理由に、多くの出版社では今でも「研究」を採用しているという実情があります。
称号としてのタイトル
続いて、「称号」としてのタイトルについてです。私が専門とするイギリス文学には、子爵や侯爵などの貴族にまつわる様々な称号が登場しますが、これらをどのように日本語へ訳すか、判断が難しい場合もあります。「レイディ(“Lady”)」という称号は、爵位を持つ男性の娘あるいは妻に与えられるものです。例えば、伯爵の子供である女性はレイディ・〇〇と呼ばれます。そしてそのような女性が爵位を持たない男性と結婚した場合も、出自が貴族の娘である限り、儀礼上、レイディ・〇〇(ファーストネーム)という呼称を持つことができます。ジェイン・オースティンの作品『高慢と偏見』(Pride and Prejudice)に登場するレイディ・アンはこのパターンに該当します。巷にはレイディ・〇〇という呼び名を「〇〇夫人」と訳す翻訳も散見されますが、上記のレイディ・アンを「アン夫人」と訳すのは不正確です。彼女のレイディという称号は、その夫に帰属するわけではないからです。
また、間違えやすい称号としては、ナイトや準男爵に用いられる「サー(“Sir”)」があります。ナイトは一代限りの称号であり、準男爵は世襲制ではありますが、貴族ではありません。男爵や子爵などの貴族に用いられる「ロード(“Lord”)」には「〇〇卿」という訳語がありますが、「サー」にはありません。時折、「ロード」や「サー」を区別せず全て「〇〇卿」と訳している作品を見かけますが、これは誤りです。例えばウィリアム・メイクピース・サッカレーの『虚栄の市』(Vanity Fair)に登場する「サー・ピット」を「ピット卿」と訳してはいけません。「レイディ」や「サー」は、イギリス文学を読んだことのある人なら必ず目にしたことのある称号だと思います。しかし意外にもこれらの翻訳は一筋縄ではいかず、そのままカタカナで表記する他にない場合もあるのです。
以上、二つのタイトル、「題名」と「称号」が翻訳においてなかなかの難物であるという事例をご紹介しました。これらがなぜ訳しづらいかと言うと、その原因は、いずれの場合もその言葉が指すものの実態を掴むこと自体が容易ではないからだとまとめることができるかもしれません。例えば作品の題名の場合、その題が結局何を意味しているのか、コナン・ドイルは『緋色の研究』というタイトルで何を伝えたかったのか、読者である我々は確固たる答えを持たず、類推するしかありません。また称号の場合、特に異なる文化圏に住む人間にとっては、レイディやサーといった呼称が指す内容やその感覚を正確に把握することは至難の技です。題名や称号といった概念を英語から日本語へ置き換えることは、それらの意味内容が曖昧であるが故に、これほど難題となってしまうのかもしれません。
最後に、なぜ、日本語支援事業のコラムとして以上のような内容をご紹介したのか、その背景を簡単にお話ししたいと思います。日本語論文の校正をしていると、執筆者本人の単純な翻訳ミスというよりも、その単語が特定の言語・文化に固有の概念や呼称であるが故に、そもそも日本語へ訳すことが異様に難しい、というケースを時折見かけます。そのような場合、訳語としての正しい解答は一つに限りません。起点テクストの正しい解釈、目標テクストにおける読者への伝わり方、論文投稿先の学術マナーといった複数の要素を照らし合わせた上で、その都度、より適切な訳を導く必要があります。この点において、OCJの日本語支援事業では、日本語の知識だけでなくそれぞれの学術領域の語彙に卓越したスタッフが校正を行なっていることは、本サービスの大きな強みであると言えると思います。またさらに、言葉を学術的に正しく翻訳することには、上記のような困難がつきものであるということを校正者自身が理解していることが何よりも貴重であると感じます。日本語論文執筆者の皆様にとって、本サービスが言葉の難しさに共に取り組む仲間として、今後も役立っていくことを願っています。