投稿日: Feb 06, 2018 12:17:51 PM
もし、冒頭のようなケースが西欧で起こったら、医療者は、本人の宗教を知ろうとするかもしれません。
日本にいる私たちは、「自己決定」と聞いたとき、この私の自己決定、つまり、単独の個人としての私が、自分で決めるという意味で理解しようとします。これまで本書でも、そのようなニュアンスでQOLを扱ってきましたね。個人が自分自身の価値観に基づいて、自分のことを決める。それは普通のことだと思うでしょう。
しかし、これが西欧のキリスト教圏などであれば、もっと違った捉え方になります。そこでは、自己決定するということは、イコール、自分の宗教に従うということです。
信仰者にとって、自分のQOLを何よりも高めてくれるのは、自分の選択が「神意(神の意志)に適っている」と感じるときでしょう。自分の宗教的信念に従っていると実感できるときです。
たとえば、ローマ・カトリック教会は、医療上の選択を迫られる場面に対して、積極的な提言をしています。安楽死や中絶などについて、教皇が声明を発表しており、カトリック信者はそれに従うことになります(プロテスタントでは、信者個人の意思に任せるということになっています)。
カトリックの宗教的信念は、生命倫理学の場面では、SOL(Sanctity of Life)、「生命の神聖さ」と表現されます。私たちの生命はみな、神から贈られた神聖なものである。よって、その神聖な生命を人為的に損なってはならないということです。
そして、カトリックでは、受精の瞬間から人のいのちが始まるとされるので、それを殺めることになる中絶は認められませんし、体外受精などで、受精卵を人工的に操作することに対しても、否定的です。そこで、カトリックの信者は、体外受精を受けることをあきらめたり、中絶を選択せずに生むことを決断したりするなどというように、教会の見解に従おうとします。
もし、豊間社長が熱心なカトリック教徒であったら、SOLという宗教的信念から、いのちを粗末にできない(神意にそむくことになる)といって、やむなく手術を受けるか、あるいは、カトリックの信仰と社長という立場との板挟みになって、思い悩んだかもしれません。
このようにQOLは、個人の好みや願望のような、その人の個別的な趣向や、「会社」などの世俗的な価値観からだけではなく、「神」の意志にもとづく宗教的な価値観や人生観などの境地から問われるものでもあるのです。
何を大切に思うか、どのように生きたいと考えるのかは、各人各様です。しかし、少なくとも同じ宗教をもつ人たちの間であれば、一定の価値観を共有していることになります。
けれども、キリスト教のような宗教的土壌の希薄な日本では、それぞれの人が個々バラバラの価値観に基づいてQOLを考えるのですから、場合によっては、互いに「理解できない」と思われてしまうこともあります。QOLが単なるワガママに見えてしまいやすいのですね。
(つづく)