浮草のようなQOLーー宗教とQOL(4)

投稿日: Jul 17, 2018 5:49:18 AM

その後、どうなったのでしょうか。

少女は、医師に処置を受けています。

「少し痛いだろうけれど、それは心配ない」。

医師は、人工流産(つまり中絶)させるための処置(ラミナリアの挿入)をしていたのです。少女の心情を見かねた医師は、両親に内緒で、彼女の「生まない」という選択を尊重したのでした。

処置の後、少女は聖書の文句を唱え始めます。

「私はあなたを母の胎内につくる前から、あなたを知っていた…」。

「エレミヤ章第一章第五節」。

医師はそう応えてから、さらに続けます。

「神は塵で人を作り、その鼻にいのちの息を吹き入れ、人はこうして生きる者となった。創世記」。

それを聞いて、少女は驚きます。

「クリスチャンなの?」

医師はうなずきます。

「ママにはなんて?」

「流産だと思うだろ」。


彼らは共に、カトリックの教えに背く行為を選択したことになります。

少女は自分自身の素直な気持ち(レイプされたのにその子どもを生むなんて耐えられない)と、カトリックの教え(人命は授かりもの)との間で板挟みになり、苦しんでいました。そして、医師もまた、少女を助けるためとは言え、自分の信仰と相容れない処置を行うことに葛藤があったでしょう。

彼らのこのような姿をご覧になって、みなさんは、どう感じるでしょうか。宗教の教えに縛られて不自由そうだなとか、もっと自由に(とらわれずに)自分の人生の質を決めていいのにと思いますか。

けれども、こうも言えるのではないでしょうか。

そのような宗教的な信念をもたないことは、たしかに「自由」であるかもしれない。しかし、そうした「信念」のまったくない状態で、「自分で決めてください」と言われることは、ある意味、灯りのない暗い海のなかへいきなり放り出されるのと同じくらい、心もとない状況なのではないかと。

どう生きればよいのか。どのように死を迎えればよいのか。それを、「神」や教会のような、いのちや生き方に関する他人と共通した土台なしに、自分個人で決めなければならない。宗教的バックグランドが希薄な日本では、私たちのQOLは、まるで根を張ることのできない浮草のような、きわめて不安定な状況のなかで問われていると言えるのではないでしょうか。