『QOLって何だろう』ができるまで

投稿日: Feb 20, 2018 12:52:23 PM

本書の上梓は、 私にとっては色々な意味で感慨深いものがありました。

(今回のブログは「自分語り」になりますので、お時間のある時にご笑覧ください)

この本は、私がこれまでに書いた本とは、作り方が違いました。

本の企画を進める際には、はじめに編集者と相談しながら、企画会議を通すための「企画書」を作成します。

以前は「こんな本が書きたいな」と思った時点で、おのずと全体の構成が立ち上がっていました。本全体の章立てから、 各章のタイトルに至るまで「何となくこんな感じの本になるかな」というイメージが頭の中に浮かんでいたのです。

そして、本が出来上がった後、企画書の段階での構成案と、実際に出来上がった本の構成を見比べてみると、もちろん多少の揺らぎはありますが、軸がぶれるほどの大きな変更は、ほとんどありませんでした(これまでは)。

けれども、今回の本はそうはいきませんでした。

漠然と「生活の質」「在宅ケア」「よく生きること」をテーマにした本が書きたいという思いはあったのですが、これをどう伝えるか、「読者へのメインメッセージ」は何か、については、クリアに思い描けていませんでした。

私の目の前には、訪問看護ステーションや介護事業所でのインタビュー取材の過程で蓄積してきた数々のエピソード、専門書や一般書、国内外の学術雑誌などから得た、ケーススタディや調査論文など、膨大な量の情報がありました。

私自身の関心は、これらに生命倫理の観点からアプローチした本を書くことだったのですが、 この混沌とした断片的な情報群を前に、一体これらがどのような形でひとまとまりのストーリーになっていくのか、そもそも果たしてまとめることができるのだろうか、全く見当がつかない状態でした。

やがて、ふと、これはいよいよ「 KJ法」でやってみるしかないかなと思い至りました。

すでにご存知かもしれませんが、「KJ法」とは、川喜田二郎氏が考案した、新たな発想を生み出すための手法です。

私は学生時代から、川喜田氏の本を好んで読んでいました。KJ 法の手順そのものに関心があったというよりは、そのユーモアあふれる独特の文章センスと、知的作業と身体感覚とが連動しているという氏の主張に、とても親和性を感じていたからです。

たとえば『発想法--創造性開発のために』(川喜田二郎著、中公新書、1967年)には、「(KJ法の手順の一つである)グループ編成が進行するとともに、爽やかな快感を覚えていく」とか、あることが「 わかった」ときの気分や体の感覚などが、とても丁寧に書かれています。

学問に向き合っている際に、自分自身の中に立ち上がってくる身体感覚を思い出し、確認しながら、氏の本を読み進めていくこと自体が、楽しかったのです。

ただそれまでは、 KJ法そのものを実践して、論文や本などを書くことはしていませんでした。先ほどもお話ししたように、そもそも「書こう」と思った時点で、全体の構想が立ち上がっていたからです。けれども、今回は「これは本当にまとまるのだろうか」と、 まったく先の見えない状態でした。

そこで、「これは KJ法を試してみる好機なのではないか」と思いたちました。

「KJ法」の根本理念は「混沌をして語らしめる」です。

目の前の混沌(断片的な情報群)に、素直に耳を傾けてみたら、本当にこれらがひとまとまりのストーリーになっていくのだろうか。だまされたと思って、できるだけ愚直にKJ法を実践しようと「腹をくくり」ました。

とくに『発想法』「III発想を促すKJj法」「IV創造体験と自己変革」 の部分を、(氏の言葉を借りれば)文字通り「ばかになったつもり」で、繰り返し繰り返し、身体に刷り込ませるようにして読み込んでから、いざ、実践へ。(次回へ続きます)