カトリックとSOLーー宗教とQOL(3)

投稿日: Jul 08, 2018 6:22:8 AM

宗教のなかでも、とくにカトリックは、生命倫理の主要テーマである、生命に対する人為的な介入が問題となる場面に関して、明確なスタンスを打ち出しています。

たとえば、高度に発達した延命医療を受けることや、それを拒否することが認められるのか。あるいは、中絶は許されるのか、体外受精などの人為的な生殖補助医療をどう捉えるかなどについて、ローマ・カトリック教会が、教皇の名で声明を出しており、カトリック信者はそれに従うことになります(プロテスタントでは、信者個人の意思に任せるということになっています)。


カトリックの宗教的信念は、生命倫理学の場面では、SOL(Sanctity of Life)、「生命の神聖さ」と表現されます。私たちの生命はみな、神から贈られた神聖なものである。よって、その神聖な生命を人為的に損なってはならないということです。

さらに、カトリックでは、生命の始まりだけではなく、その後の人生における医療の選択においても、信者に「道しるべ」を与えています。


信仰をもつ人なら、手術を受けないという自分の選択が「愚かな行為」なのか、神に問いかけたり、教会に相談したりすることでしょう。

本章の少女のケースでも同様です。生むか、生まないかという自分自身の身体や人生の根幹にかかわる選択に臨むにあたって、彼女は、自分の選択が、神の目からみて正しいのかどうかを考えていました。そして、自分自身のうちに自然に湧き上がってくる素直な感情(こうしたい)と宗教の教え(こうするべき)との間で、苦悩に陥っていたのです。


本章のケースに戻りましょう。

少女自身はどう思っているのでしょうか。


病院を出ようとする少女に、医師は、胎児のモニターの映像写真を手渡します。彼女は、それを見るなり、表情をゆがめて、ベッドの上へ投げ捨ててしまいます。

「ああ、忘れてしまいたい!思い出すのも汚らわしいわ!」

医師は、その様子を見かねて少女に言います。

「ご両親には(レイプされたことを)きちんと話さなきゃだめ。そしたら分かって下さるわよ」。

いくら厳格なカトリックの信者であっても、自分の娘が妊娠したいきさつを知れば、生まないという選択肢に同意してくれるのではないかと思ったのです。

「話したわ」。

それを聞いて、医師たちは絶句してしまいます。「なんて厳格な…」と思ったのでしょう。少女自身が「生みたくない」ことは、誰の目にも明らかでした。その後、医師は何度も両親を説得するのですが、彼らは聞く耳を持ちませんでした(本章前半の医師と親とのやりとりを思い返してみてください)。

少女自身も、カトリックの教えに背くことはできない、でも…と、葛藤にさいなまれていました。いきさつはどうであれ、授かったいのちを拒むことはできない(神意にそむくことになる)という信念と、加害者の子どもを生み育てるという、直視できない現実とのはざまで、ジレンマを感じていたのです。