2015年12月のメッセージ

合併・連携は成功するだろうか

その昔、「大きいことはいいことだ!」というテレビコマーシャルが流行りました。故・山本直純さんがアドバルーンに乗って、指揮をして唄います。森永ミルクチョコレートのコマーシャルです。この大きなチョコレートはよく売れたかどうかは覚えていません。大きいことはいいことだ!大きな大学に入りたい、大きな会社に入りたい、会社をもっと大きくしたい、日本をもっと大きくしたい、そんな時代でした。大きなものが小さなものを負かすと考えられていました。「普通の国」とか「普通の女の子になりたい」とかいった言葉がはやったのはずいぶん後です。しかしそのときすでに、大きすぎる日本、Japan as No.1、は倒れつつあったのです。まるでマンモスが絶滅するかのように。

実は、今でも「日本は世界で一番でなければならない」という信仰が蔓延っています。いつか「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌についてコラムに書いたら、「オンリーワンではだめだ、ナンバーワンを目指すべきだ」と批判されてしまいました。世界最大になった自動車会社は、さらに販売台数を増やして年間1千万台を目標にしているそうです。「大男、総身に知恵が回りかね」にならなければいいのですが。「うどの大木」という言葉もあります。大きなことに加えて、「古いこと」も日本では高い評価を得られます。学生は大きくて古い大学への入学に憧れ、大きくて古い企業への就職を目指します。古いことは歴史があるということなのですが、老齢化しているということでもあります。年寄りは偉そうに口ばかりで、動きが悪くパワーもない。新しい発想力や学習力に欠けます。

日本人が「大きなもの」「古いもの」に憧れるのはなぜでしょう。それは依存心の強さからだと思います。自立心が足りないのです。大きな組織、古いの組織への依存心が強すぎるように思います。

その大きくて古い会社が,いま大合併ブームです。同じ業界の同じく巨大な会社といわゆる対等合併を目指します。残された企業は相対的に会社ランキングが下がるので、これまた必死に合併相手を探します。そのメリットは何なのか、素人ながら少し考えてみました。

合併によって製品ラインナップが増えるでしょうか?同じ業界内の話ですから、それほど増えることはないでしょう。いやむしろ、重複の方が多いかもしれません。合併によって支店網がより広く展開できるでしょうか?いやどちらも大企業なら都市部に支店が集中しており、むしろ重複が多いでしょう。そうすると結局の合併のメリットとは、これらの重複を解消することになります。すなわちリストラが目的のような気がします。確かにリストラして社員数を減らせばコストを削減できるので、会社の体質は強化するかもしれません。しかし、何か変です。合併なんてそんな大変なことをしなくても、リストラはそれぞれの会社でできることのはずです。合併を口実にしないとリストラできないのだとしたら、合併してもその体質は変わらないでしょう。

対等合併によるデメリットも考えてみる必要があります。合併後に2つの会社出身者の権力闘争が起こります。これは必ず起きると思います。「半沢直樹」の世界です。権力闘争を起こさないためには、交互にたすき掛け社長人事をして2社のバランスを最優先することでしょう。しかしそれでは合併の効率は上がらず、他社との競争に勝てません。合併後の会社を完全に一体化するためには、強力な権力とカリスマ性を持つリーダーが必要です。それは大株主とか創業者でしょう。もしそんなリーダーがいたなら,対等合併しなければ生き残れない危機的状況はもともと生まれてこなかったことでしょう。日産は大株主のルノーから来たゴーンさんがカリスマ・リーダーでしたが、ルノーによる日産の救済あるいは買収であり対等合併ではありませんでした。サントリーのビーム買収はオーナー家出身の社長のリーダーシップによって実現したもので、リストラが目的ではありませんでした。対等合併しては、指揮系統が2本になります。「船頭多くして舟山に上る」とのことわざを思い出します。

もし合併したければ対等合併ではなくて、相補的な営業テリトリーを持つ企業あるいは相補的な製品ラインナップを持つ企業の「吸収合併」でしょう。吸収合併は成功するかもしれません。阪大の工学部は1995年以降、複数の学科の対等合併や専攻の対等合併を行いました。いわゆる大学科制、大専攻制です。専攻や学会内に船頭が多くなり会議が複雑になり、説明ばかりで決断に時間が掛かるようになりました。それらをまとめるカリスマリーダーが生まれることは求めず、内部の和を保つための時間とコストばかりが掛かりました。これは失敗です。リセットするのがいいと思います。一方、阪大と大阪外大との歴史的合併は成功だと思います。阪大は外国語学部がなく理系偏重していました。外大は教養部がなく学生の異分野との交流がありませんでした。これらの課題が阪大による外大の吸収合併によって解決しました。歴史ある大阪外国語大学の名前がなくなったのは残念ですが、いい決断だったと思います。

最近、かつての官営の製鉄所が合併してできた巨大企業に、さらに財閥系の大きな製鉄会社が合併するという出来事がありました。いまやスーパーも百貨店も合併だらけです。銀行もやたら合併します。歴史も未来も意味しない名称を新たに付ける企業や、昔の社名をずらりと並べる会社だらけになりました。世界を席巻していた日本の半導体メモリは、各社の半導体メモリ製造部門を大同合併して新会社に統合されましたが、その国策会社は経営破綻してアメリカの会社に買収され、日本からDRAMを製造する企業が消えてしまいました。大手電機会社3社の半導体LSI部門も合併しましたが、厳しい状況に陥っています。中小型ディスプレイも日本の大手各社は大同合併しています。合併した方が本当に良かったのか、合併しなくてもよかったのか。すくなくとも金融庁や経産省など国の圧力に屈しての合併や、合併ブームでの駆け込み合併、リストラ目的の合併は感心しません。言い訳と他力本願が見える合併は、楽しくありません。

アメリカのベンチャー企業の先駆けでシリコンバレイの最初の企業であるHP(Hewlett-Packard)は元々の計測機器部門をアジレント(Agilent Technologies)という会社に分離し(spin off)、 さらに最近は電子計測部門をキーサイト(Keysight Technologies)という会社に分離(spin off)しました。大きいこと・古いことが良くないことを知っているからでしょう。

対等合併に似た印象を持つ言葉は「連携」です。いま「産学」連携ばやりですが、産業と大学が連携して果たしてより良い成果が得られるでしょうか。そんな前例はほとんどありません。大学とは人が学問を修得し科学を創出するところです。それに対して産業とは製品やサービスを社会に提供してお金を儲けます。異なる目的を果たすために創られた組織が連携して、うまくいくのでしょうか。「同床異夢」とはまさにそのことです。日本の大企業の経営が厳しくなってきて、自前の中央研究所を維持して研究者を養うことが難しくなってきたからといって、大学に企業を支援しろと言っても大学は助けてはくれません。大学は大企業の下請けではないし、その能力も無いと思います。教授たちは企業の言うことはなかなか聞きません。逆もしかりです。大学の経営が厳しいからと言って、企業に頼ってもそんなに多額の支援はしてくれないでしょう。企業は教授たちの研究成果を簡単に製品化しないと思います。産学連携とは結局は他力本願なんです。相手への依存心が強すぎます。教授たちが自分の成果を製品化したければ、自ら会社を興して自ら製造販売する覚悟が必要です。企業も中央研究所を維持するぐらいの資金を大学や研究室に提供しなければ、大学から企業向けの成果は出ないと思います。国の資金は大学のシステム改革に使われるべきで、産業救済目的の産学連携に使われるべきでは無いと思います。シリコンバレーに見られるように、ベンチャービジネスは自ら資金を集めて研究開発をします。

「医工連携」や「文理融合」も他力本願です。医学部の目標と工学部の目標は異なります。理系と文系の指向も異なります。連携するのではなく、それぞれがその中に他方を含めてしまうのが良いのではないでしょうか。吸収合併です。私の研究室では化学系出身やバイオ系出身、電気系出身などのポスドクをメンバーとして雇います。他の組織との連携ではなく、自らの中に含んでしまうのです。「連携」は縦割り社会を解消できないから生まれてくる言葉です。2002年に阪大のフロンティア研究機構長をしていた私は、「社会と大学は連携から融合へ」(阪大出版会、2003)と題したシンポジウムを開催し、同じ題名の本を上梓しました。社会と大学が互いに不可侵であった時代の最後の頃でした。その後、国立大学の法人化や教授の兼業兼職などが進んだものの、今も縦割社会と他力本願は変わりません。他人に頼らずに自立する覚悟がほしいと思います。

追記:書き終わってから気づきましたが、2004年1月にも「合併」というタイトルでメッセージを書いていました。内容は違うのですが考え方は同じです。進歩がないのは私の方なのかもしれません。

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