2005年3月のメッセージ

公共の電波

携帯電話は1GHzあたりの帯域の「公共の電波」を使っています。いまや1人が1台の携帯を持つ時代です。ディジタル化された結果、電話やメールだけでなくテレビや動画も送受信できるようになりました。孫正義さんのソフトバンクのように、新たに携帯ビジネスに参入することを目指す会社も出てきました。しかし、国は新たに広げる帯域枠を既存の会社にしか与えません。「公共の電波」なのに一部の会社しか使わせないなんて、と疑問に思いますが、電波を使っているのはそれぞれの個人であり、実態は「私用」電波かもしれません。

「公共の電波」といえば、NHKはBBCに倣って「公共放送」を謳っています。しかし、BBCと違ってNHKは、朝の連続ドラマから夜の大河ドラマや韓国ドラマなどかなり娯楽番組中心で、「民間放送」と大した違いはないように思います。見ることを強制されない限り、NHKが公共の電波を使って好きな放送をしても、私は一向に構いません。ことさらに「公共放送」と言われれば、少し驚くぐらいです。

ところが最近、NHKが番組内容を事前に政治家に相談し内容を変えたことについて、世の中が騒がしくなっています。しかもそれを批判した新聞を、政治家やNHKが逆に攻撃するという混乱状態になっています。「公共」放送と「民放」(民間放送)との違いは私にはよく分かりませんし、NHKが政治家から独立することなど全く無理だと思いますので、「どうぞご自由に」という感想です。

ところが、その騒ぎも冷めやらぬ間に、今度はフジテレビが自らを「公共」の電波だと主張し始めました。公共の電波を堀江さんという人が金で買収するのはけしからんというのです。広告主がお金を出して成り立っている放送局が、突然「公共」を謳うのは、すこし滑稽な気がします。金以外の方法で会社を買収するのなら大問題ですが(それは暴力団や独裁国家のやり方です)、金で買収するのは資本主義の原則です。外資が金を出すのもけしからんそうですが、江戸時代じゃあるまいし、このグローバル化時代に攘夷論とは笑ってしまいます。

フジテレビや新聞などの古いメディアは、やたら自らの「公共」性を主張しますが、ライブドアのようなメールやサイトのサービスを提供するネットメディアも、まったく同様に「公共」のメディアです。だから、ライブドアがニッポン放送を買収したら公共性が損なわれるという論理には無理があります。インターネットも、ワイヤレスLANやPHSなどの電波を使いますし、テレビ放送もケーブルを使います。インターネットには幸いなことに、NHKのように強制的に料金を取る局はありませんが、広告主からお金を取って利用者には無料でサービスするライブドアや楽天のようなサイトから、WOWOWと同じようにお金を払って入るサイトなどがあり、テレビや新聞と形態が変わるわけではありません。あえて違いを言うならば、情報を一方向に流すテレビや新聞に対してインターネットは双方向であることぐらいでしょう。インターネットの「インター」は相互を意味します。家庭にまで光ファイバーが入ってインターネットの末端までのブロードバンド化が進み、インターネットでもテレビと同じことができるようになります。テレビがディジタル放送になったら、インターネットと同じメディア形式になりますが、ディジタル・テクノロジーとしてはインターネットよりは遙かに遅れたシステムであろうと想像します。

そんなわけで、日本のテレビ局に将来的にどの程度の価値があるのか私は疑問ですが(コンテンツには大いに価値があります。ただしこれはNHKも含めて外注)、この騒ぎは、それぞれの人たちの発言から、その人の国際性や経済性、先進性、公共性(誰でも放送局のオーナーになれるという株式公開も公共性です)を知る上でとても面白い事件です。

たとえば、あるテレビ局の社長さんは堀江さんの「ノーネクタイを非常識」であると叱っておられます。社長さん、ネクタイも江戸時代には非常識だったんですよ。時代遅れの正装ファッションがお好きなら、ぜひ羽織袴でテレビに出てきて下さい。新しいファッションが許せないなら、チョンマゲでも結ってみられてはいかがでしょう。マイクロソフトの会長のビル・ゲイツやアップルのCEOのスティーブ・ジョブズも、ノーネクタイでテレビに出てきます。彼らも、非常識なんでしょうか。

産経新聞の社説も面白かったです。「正論路線」を「エンタメ路線」に変えてしまっていいのですか、と問いかけていました。「面白くなければテレビじゃあない」というキャッチフレーズで「ひょうきん族」以来、エンタメ路線を突っ走ってきたフジテレビに対する身内からの皮肉のつもりなのでしょう。

日経新聞は「企業買収を問う:ニッポン放送株攻防戦」というインタビュー記事を連載中です。この連載は、せっかく著名人達に毎日取材をしているのに面白くありません。今回の騒動を喧嘩両成敗にしようという意図があるのでしょうか、記者(デスク)にはっきりとした意見を書く覚悟がないようです。日本の「公共」の新聞は、アメリカの新聞と違って自分達の意見をはっきり持たない(あるいは表明しない)傾向があります。マスコミが意見をはっきり言うと読者から嫌われるので、防衛本能が働くのでしょう。堀江さんがマスコミに嫌われるのは、このマスコミのモラルを彼が逸脱して発言するからかもしれません。

経営者たちが堀江さんを非難するのは、至極当然です。明日はわが身、自分の会社を乗っ取られてはたまりませんから、そんなことが起きないように、出る杭はしっかり打っておかねばならないのです。それは彼らの職責として理解できます。経営者で堀江さんを支持できる人は、よほど経営に自身のある人か、他社の買収を考えている人でしょう。

会社経営には関係のないはずの政治家が、今回の事件に過剰反応するのは、なぜでしょう。日本に新しい産業を創出し、新しい雇用を産み出し、多額の税金を納め、不況が続く日本経済の復興に貢献する堀江さんを、どうして政治家が嫌うのでしょう。既得権益を持つ古い産業から支援を受けている政治家にとっては、堀江さんを認めることは自己否定に繋がるのかもしれません。堀江さんも、古い業界と同じようにもっと政党に寄付をすればいいのかもしれません。このような状況の中で、民主党の岡田克也党首となぜか宮沢喜一元首相だけが、堀江さんを明確に支持する発言をしておられたことは印象的でした。

私は、これまでHPのメッセージで、リクルートの江副さんやダイエーの中内さんを何度か応援してきました。この人たちは、新しい産業を日本に創ろうと苦労して、古い産業を守りたい人たちと闘ってきたのですが、結局は本質と違うところでいじめられて、撤退を余儀なくされました。目立つことや新しいことを言ったりしたりすると、この国では厳しいしっぺ返しがあります。

私も、阪大FRCで社会に開かれた大学のしくみを作って頑張っていたのですが、ある日突然何に引き継ぎもなく、別の人がその流れを変えてしまいました。シュンペーターの「創造的破壊」(イノベーション)は経済の世界だけではなく、大学や教育のしくみにも通じます。新しいしくみを作るために一度これまでのしくみを破壊するのですが、破壊が目的ではなくて創造のための破壊です。しかし、今のしくみで得をしている人たちには、礼儀知らずのノーネクタイの若造の破壊作業は目障りだから、叩きつぶせということになるのでしょう。

今日は、大阪市役所の職員厚遇見直しの改革案を提唱してきた諮問会議を、大阪市長が解散し外部から人材を入れることを主張した座長を解任すると表明されました。市役所内でさんざん甘い汁を知ってきた助役が市長になられて抜本改革されることを期待するのは、本質的に無理があります。

堀江さんが勝てるかどうか、分かりません。しかし、彼が株を買い占めなければ、日本のメディアの思い上がりと保守性と鎖国主義を私たちは知ることはありませんでした。堀江さんの行動は、ことさらに「公共」を主張する自己中心の既得権益者を炙り出してくれました。その意味において、堀江さんはプロ野球球団の買収ごっこよりも遙かに社会に対して重要な仕事を、今回されたと思います。仙台の人達には申し訳ないけれど、新野球チームのブームはせいぜい3年ぐらいのように思います。巨人中心の日本独特の既得権益型のリーグ制を改革しない限りは、選手やファンがメジャー・リーグやサッカーに移る流れは止まらないだろうからです。

公共(public)と国営(national)は、意味が全く違います。「公共」の場所とは、誰でもが参加できる場所です。公道や公園だけではなく、レストランも百貨店もバーも「公共」の場所です。放送局や新聞社だけが「公共」ではないのです。「株式を公開する」ことを英語ではgoes public(公共化する)といいます。「公共化する」ということは、ノーネクタイを排除したり外国企業を排除したり金儲けをいう人を排除しない、ということなのです。

昨日、私が大阪で主宰した「平成洪庵の会」で、参加者に無記名のアンケートをしました。結果は、堀江支持が16,日枝支持が1(引き分け5)でした。3月5日。SK

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