2014年6月のメッセージ

「タブー」と「KY」

以前からもやもやとしてきたことに、最近ようやく整理がついてきました。

私は講演でよく、「異端妄説」とか「Think Different」とか「それでも地球は回っている」をキーワードに話をします。世の中で当たり前と信じられていること、事実だと信じられていることを否定し、新しい理論や実験結果を示せる人が科学者です、と説明します。「異端妄説」を語れなければ科学者ではありません。先生は教科書を教えますが、科学者は教科書を書き換えます。教科書に新たなページを書き加えます。科学者は起業家に似ています。起業家は「Think DIfferent」します。人と違う発想が新しい商品を生み出し新しいサービスを生み出します。他人でも思いつく商品やサービスでは、会社は成功しません。資本力のある既存企業や大企業との競争に負けてしまいます。起業家は「異端妄説」を説き、科学者は「Think DIfferent」します。

社会の常識に反する異端妄説を述べると、たとえそれが正しくても社会で理解が得られず、失敗します。私たちの住むこの地球が丸くて、地球の裏側の人たちも落ちていくことなく地上に立ち、そして毎日一回転、自転をして太陽の周りを回り続けています。こんなことを主張した人たちは、危険思想者だとみなされれて異端尋問所に幽閉されました。「それでも地球は回っている」とつぶやくのが関の山です。

16世紀には地動説は異端妄説、そして異端妄説は危険思想だったのです。

そして21世紀のいま。

21世紀のいまもなお、異端妄説は日本社会では危険思想です。日本から起業家が生まれないのは、異端妄説を唱える異端児を社会が許容しないからだと思います。ホリエモン事件を思い出してください。異端児は危険人物として社会からバッシングを受けました。アメリカでは製造業においてもアップルやiRobot、テスラなどなど今もなお次々と新しい起業があり、電源ケーブルも通信ケーブルもない小さな情報機器のiPhoneやiPad、掃除機ロボットのルンバ、パソコン用のバッテリーを並べた自動車テスラなど非常識な機械が生まれます。日本からは、久しくこのような斬新な製品が生まれていません。起業・創業があったのは、日本では徳川幕府の崩壊や敗戦といったそれまでの常識をすべて否定された特殊な時期においてのみだったかもしれません。

科学の世界も似ています。いまの日本は流行を追う人ばかりです。異端妄説を述べて新しい科学を創ろうとする人は激減しています。国が配分する研究・教育プロジェクト予算(競争的資金と呼びます)は、当初に最終年度までの研究計画がしっかりと明示することが求められます。毎年その計画通りに進捗させて、期間内に計画通りの成果が出ることが求められます。これに従わなければ、研究提案は採択されません。お金がなければ研究ができないというのも情けない話ですが、この仕組みの中では異端妄説は生まれ得ないのです。計画通りに成果が出るような研究予算から奇想天外で予期せぬ科学は生まれません。国研になった理研の時限付き研究センターの任期付き研究者には、もともととんでもない発想の科学を創ることなど許されてなかったのかもしれません。

さて、ここからが本題です。

「異端妄説」を語らず「Think Different」しないのは、それが法律的に許されないからではありません。自粛、自己規制です。時に見せしめとして行われるバッシングに対する恐怖もあるでしょうが、それよりは自らの思考停止が理由だと思います。この自粛・自己規制は科学やビジネスに限られる訳ではなく、日本の一般社会にも広く蔓延しています。そして深刻化しています。高度成長時代の成功もバブル崩壊後の衰退もまた、思考停止の結果として生まれたといっていいでしょう。「永遠の0」です。人と違う意見を持つことを自粛し、人と違う考えを「タブー」とする文化がこの国の社会を支配しています。「タブー」とは法的な禁止ではなく、社会がもつ文化や思想、宗教における規制です。「タブー」に触れると、法的にではなく社会的に制裁を受ける恐れがあるのです。

最近、この「タブー」にチャレンジする機会がありました。科学技術コミュニティーにおけるクローズドの会議で、科学技術に関連する「タブ-」を語ってみました。以下はそのサマリーです。

日本では、国費を使う技術革新は基礎科学研究や産業応用研究から生まれると思われがちですが、実はディフェンス(防衛)を目的とした研究から生まれるのではないでしょうか。国を守り国民を守るという大義名分によって、軍事関連研究は利益を度外視して行われます。その成果の一部が民需目的に使われて一般社会に貢献します。私企業が毎年の売り上げから開発費を捻出していてはまるで研究経費が足りないであろう成果が防衛研究から技術移転されるのです。宇宙開発や新エネルギー、コンピューターネットワークなどは、米国では防衛関係の予算です。防衛予算の研究成果が結果として航空産業や原子力発電、そして私たちが日常に使うインターネットや携帯電話、CCDなどの実用化につながります。

日本では、防衛に関わる研究開発を基礎科学研究に置き換えて考えようとしてきました。しかし、基礎科学研究から民間企業の製品につながったものはほとんどありません。基礎科学研究といえど国民の税金(あるいは国民からの借金たる国債)を使う限りは、納税者への説明責任が求められます。説明責任は科学者にあるのではなく予算配分した役所にあるはずですが、役所は責任を科学者に転嫁します。科学者に競争をさせて、計画通りの成果を求めます。

防衛のための科学研究は国民の命を守るための研究です。あるいは万が一のケースに備えの研究です。人の命に値段はつけられないので、コスト計算は必要ありません。予算をたっぷり使っていいのです。世界の国が自らの国を守るための科学技術開発を行っています。日本でも実際は行っていますが、軍事防衛に関係するということは「タブー」です。それが故に、科学技術研究の現実が著しくぼけています。欧米・中国では人工衛星の開発は軍事目的です。日本では、それを蛙の細胞を無重力下で培養するとどうなるかといったこどもの興味を高めるために国民の税金を巨額に使っていることになってしまうのです。防衛研究予算の騙しどりです。しかしそれはタブーです。

科学から離れますが、集団的自衛権の議論もこれまでタブーだったと思います。いまも些細な事例が議論されるばかりで、新聞を読む限り本質的な厳しい議論はタブーのようです。日本以外にはスイスが集団的自衛権を認めていないと思います。ロシアにクリミア半島を侵略されたウクライナでは自分たちの国を守るために徴兵制を復活しました。一夫多妻制はイスラム諸国で認められていますし、死刑は日本・中国・アメリカ以外では認められていないことだし、離婚もフィリピンなどカソリックの国では認められていません。これらの議論は日本ではまともに取り合うことはないのです。中国や北朝鮮などの共産主義国家では、民主主義は大衆迎合の無責任政治です。これらの是非の議論は日本ではタブーなんです。話をすることはもちろん違法ではないのですが、実際は社会の中ではタブーになっています。もしこれらの話を真剣にすると、皆が退(ひ)いてしまいます。それを若者は「KY」といいます。

科学技術を語るときディフェンスの話から逃げるなという私のチャレンジは、この会議でも見事失敗しました。知識人の集まりでも、議論は1ミリも進みませんでした。場の空気を変えることはできず、KY感が支配しました。

「次月に続く」

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