2005年11月のメッセージ

逆ギレ

先月もまた、いろんなことがありすぎて、何を書いたらいいのかテーマを絞りきれずに困っています。まあ、適当に書き始めましょう。

先月半ばのアリゾナの会議の後、阪大サンフランシスコ事務所の企画でPalo Altoのホテルでの講演をし、その後大勢の人たちとお話をしてたくさんのことを教えて頂きました。講演をし、泊まったホテルはCabana Hotelといって、昔にビートルズも滞在したホテルです。私が初めてこの町を訪れたのは、1972年。一夏を過ごしました。未だ1ドルが360円に固定されていた時代です。それ以来この町には何十年も来たことがなくって、とても懐かしく感じました。72年に一夏を一緒に暮らしたTom Politzerは、忙しい中ホテルまで会いに来てくれました。72年のときに、クラリネットを練習していたことを覚えています。いまではTower of Powerのメンバーで、サックス奏者として人気者です。今も世界中にコンサートツアーに回っていて、翌日にロンドンに発ちました。日本にも毎年来て、南青山と梅田のブルーノートで数日ステージをやっています。20歳でPalo Altoに初めて暮らした1ヶ月は、私にとってまさに衝撃でした。その経験がなければ、大学院に進んでもう一度ポスドクとしてアメリカに行くのだ、という人生計画は立てなかったろうと思います。

20年来の友人であるKeith Bennettもホテルに会いに来てくれました。旧交を暖めるだけのつもりだったのが、私たちがやっている会社ナノフォトンのアメリカ進出について色々コメントしてくれて、弁理士さんなども紹介してくれました。彼は、スタンフォードで学位取得後日本でポスドクをし、帰国後再び来日をして大阪にニューポート・コーポレーションという光学部品と光学定盤の日本現地法人を設立し、社長として活躍しました。本社の方針で日本から撤退した後いくつかの事業をして、今ではベイエリアでコンサルタントビジネスをしています。私とはレーザー光学の研究者仲間として20年来の親友ですが、これからはベンチャービジネス経験者仲間にもなります。

スタンフォード大学の教授、Bert Hesselinkとも会いました。彼は以前から特許や研究の産業化に長けており、彼からも学ぶことが多くありました。日本の企業が、今なお巨額の金を彼の研究室やスタンフォード大学に寄付・支援していることには、今更ながら大変驚きました。スタンフォードでは、教授の始めたベンチャー会社に対して大学がお金を出します(資本投資)。したがってベンチャー会社が儲かれば大学が儲かる、会社が潰れれば大学も損をするという、共存共栄の関係にあります。一方、日本の大学は大学発ベンチャーの設立には熱心ですが、設立後はベンチャーの製品は買わないし支援もしません。それは大学発ベンチャーが倒産しても、大学は何の得も損をしないからだと分かりました。

Hesselink教授は目下サバティカルの最中ですが、大学の教授室でお会いしました。サバティカル中も研究室は活動中です。サバティカル中は、教授の給料は減りますが(たとえば半減)、研究プロジェクトの維持のために、理系の活躍する教授達は簡単には研究室を離れません。 阪大でサバティカル制度を導入しようとしている人たちはこのあたりのアメリカの理工系の最先端の教授達の状況を全く知らずに、サバティカル・イコール・海外遊学休暇の如くに捉えているのは、情けないことです。

33年前には、車でしか行けなかったサンフランシスコのダウンタウンには、CalTrainという通勤電車で行きました。僅か5ドルです。駅まで30分の距離を歩くと言ったらホテルの人たちが皆反対をしたので、「アメリカ人はフィットネスクラブに通うのに熱心なのに、何故30分の距離が歩けないのか。ガソリンを無駄使いしてはいけない、エネルギーを大切にしなさい。」と教育しました。でも結局、Cab(タクシー)が迎えに来ました。阪大オフィスはユニオンスクエアとマーケットストリートの近くにあり、とても便利です。その近くにBrooks Brothersがあり、そこへちょっと買い物に行ったのです。店は1ブロックほど移転しましたが、72年以来の私のひいきのトラッドの店です。

33年前に初めてPalo Altoに来たとき、私は心底、圧倒されました。101と280の高速道路(無料)の立派さ(そのころから片側4車線)、スーパーマーケットの天井の高さとカートの巨大さ(そのころ日本ではカゴしかなかったので、車輪付きのカートなど見たことがなかった)。普通の家には風呂やトイレが2つも3つもあり、洗濯機や乾燥機が巨大で、庭にはプールがあること、などなど驚異の連続でした。明治に欧米に行った人たちのショックは、私どころではなかったはずです。

ところが、今でもまだ日本がアメリカに追いついていないことが、たくさんあります。帰国すると、いつもいきなりそのことが気になりだします。成田空港の中には、何故か無数の注意書きの立て看板が乱立していて帰ってわかりにくいし、伊丹空港に降りたら駐車違反の車が数珠のように繋がっています。タクシーに乗って、国道に出ると至る所で駐車違反で、とても運転する気にはならない。このあたりは発展途上国の典型です。

その中でも一番ショックなのは、電車のプラットホームで見る「女性専用車両」です。CalTrainのみならず海外の電車では、「自転車」も「犬」も「車椅子の人」も、そして「男性」も女性と同じ車両に乗れます。日本では男性を乗せない車両があると知ったら、普通の国の人は間違いなくこの国を大嫌いになることでしょう。実際、私の知り合いの外国人研究者は間違って女性車両に乗って、車掌や女性乗客と大口論をしたようです。女性専用車両は、著しい差別(性差別)であり、明らかなる憲法違反でしょう。男性の中に痴漢行為をする人がいるから、男性全員を車両から排除するという発想は一体どの様な教育から生まれるのでしょうか。国旗掲揚や国歌斉唱よりも、もっともっと大切なことが、この国の教育から欠落してしまっているような気がします。東京の都知事さんは、最近しきりに外国人による犯罪率の高さを指摘しています。それは事実でしょう。そして、そのうちこの国には「日本人専用車両」が生まれるのでしょうか。今では南アフリカですら黒人も白人と同じバスに乗ることができるようになったのに、日本ではなぜ平成の今になって、このような規則を作りそれを遵守する人種になってしまったのでしょうか。

痴漢行為は男女を分離して解決するのではなく、鉄道会社が車両当たりの乗車定員を守ることによって解決するべきです。定員オーバーは事故においても大変危険です。定員ルールを守るべきです。満員電車には車椅子の人は全く乗車できません。定員を守った上で、非常ボタンを車両のあちこちに付けるということもできます。それでもなお痴漢行為が起きるならば、警察官(鉄道警察官)が乗車するべきです。犯罪があると分かっているところには、警察官は行くべきです。また、人里離れた夜道での痴漢ではなく、満員車両では、周囲に大勢の人が乗っているはずで、現場において皆が犯罪と戦うべきでしょう。

先日、伊丹空港から梅田への空港バス(大阪空港バス(株))の中で、携帯電話で大声で仕事の打ち合わせし続ける男性がいました。私は、バスの中での携帯電話は賛成です。しかし、携帯電話であろうと隣の客との会話であろうと、大声は周りの人たちに迷惑です。私は「声を小さくして下さいませんか」と言いました。そうしたら、この営業マン風オヤジの逆ギレが始まりました。「憶えてろ。降りたら待ってろ。片を付けてやる」と、わめき続けるのです。私は、梅田に着くのを楽しみにしながらいろんな策を練っていたのですが、結局、この人は捨てぜりふを吐きながらそのまま降りていきました。ここで最大の問題は、バスの運転手が最後まで知らない振りをし、他の人も寝たふりに徹したことです。運転手はバスを止めて迷惑で危険な乗客に下車を求めるか、警察に連絡するべきだったと思います。一般乗客にも協力を求めるべきだったでしょう。

今回のアメリカの学会でも、会場内で講演中に小声で話す人に、前の人が注意する光景を二、三度見ました。話していた人たちは「済みませんでした」と謝って、それで終わりです。ところが日本では、逆ギレした人の勝ちなんです。正確には勝つのではなく、逆ギレを許してしまうのです。女性専用車両の登場は、まさに逆ギレです。先に述べたような冷静で正しい手順で問題を解決せず、ヒステリックな結論に出るのです。逆ギレを許す風潮は、この国を再び差別主義で全体主義国家に戻すことのシグナルです。先々月のメッセージで、私は郵便局民営化論(あるいは廃止論)を述べましたが、今回の小泉さんのやり方は私は支持してません。今回の解散が、彼の逆ギレ(計算尽くでしょうが)だからであり、それは国民から冷静さを奪うやり方だからです。さらに逆ギレ劇をワイドショー的に報道し続けたマスコミには、戦争前夜の彼らの対応と同じぐらいに、危険さを覚えています。SK

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