2004年7月のメッセージ

量子力学

量子力学なんてウソっぱちです。信じちゃいけません。」私は年中、授業でそう言います。アインシュタインが光の量子論を確立したのは、1905年。その後、シュレーディンガーが波動方程式を作ったのが1926年、ハイゼンベルグの不確定性原理が1927年です。この100年の間に、アインシュタインは天才から神様になってしまい、神様の言葉を否定することは現代科学への冒涜になってしまいました。ナノスケールの「光量子」の振る舞いを研究する私が、美しい量子論に安易にケチを付けるなんてなんたる破廉恥と言う表情をして、学生は私を見つめます。

有名な研究は正義であると信じて、教科書を聖書のように扱い、公式や方程式をお経のように覚えさせる。繰り返し繰り返しやっていたらそのうち分かってくる、と教える。これじゃあ、科学はまるで宗教ですよね。分かりやすい教科書を書く物理学者の小出昭一郎氏ですら、量子力学は「一度では納得できずとも、次第に分かったような気になることを期待して、勉強することをお勧めする」と、言っておられます[1]。

シュレーディンガーの波動方程式は偏微分方程式であり、量子論は行列の固有値問題に帰着します。すなわち量子力学とは線形な世界の科学であり、カオスやフラクタル、散逸構造や自己組織化、人工生命などの科学を記述する現代の複雑系の数理学と比べて、古い考え方だといえます。現象としては非線形の世界を簡単に説明するために、線形で記述したのが量子力学であり、そのために確率の波である波動関数という道具が作られたのだとも言えます。

電子がどこにいるかの場所を決めようとするとその運動量が広がってしまう、いついるのか時刻を決めようとするとエネルギーが広がってしまうという不確定性原理は、量子の振る舞いを説明する技術、説明する能力が不完全であることを、まさに示しているのかもしれません。21世紀にはそろそろ新しい解釈・理解・説明が生まれて欲しいと、私は期待します。

残念ながら21世紀に入った現在の大学の講義でも、アインシュタインは神様であり、シュレーディンガーの方程式やハイゼンベルグの不確定性原理は教典になっています。教科書に疑問を持ったり教科書に従わない学生は、試験の点数がとれずに卒業ができません。

私は、研究とは教科書を否定し、常識を否定し、権威を否定し、伝統を否定することだと信じています[2]。ガリレオ・ガリレイは天動説を否定して「それでも地球は動いてる」と言って教皇庁に幽閉され[3]、アイザック・ニュートンは、太陽が1億5千万km離れた地球の動きを支配するという、万有引力を説きました。月が潮の満引きを制御するなんて、その時代どころか今だって信じられる人の方がおかしいのはないでしょうか[4]。常識を否定する勇気がなければ、研究とは辛くて苦しい職業でしょう。

でも、学問・研究とは楽しいものです。学問の世界では、常識を否定して、権威を否定して、伝統を否定してもいいのです。いやむしろ、それができなければ、教師にはなれても研究者として生きていくことはできません。常識を否定することを仕事とする研究者は、世の中では変人であり、失敗を恐れぬ冒険者であり、恥を知らないわがままものです。そこには芸術家と通じるところがあり、あるいはベンチャー精神の持ち主でもあります。そう、研究者は、ベンチャー起業家ならぬベンチャー・サイエンティストなのです。海外で大学発ベンチャーがたくさん成功しているのは、大学人の常識や伝統を恐れないベンチャー・スピリッツにあると思います。サラリーマン根性が染みついて大企業病に冒されたサラリーマン(失礼!?)が始めるビジネスよりは、大学発ベンチャーの方が当たれば大きいでしょう。

私は阪大FRCで、常識や伝統を否定して新しい学問を産み出すことのできる人材を育てたいと思いました。ナノやデザイン、ロボット、教育工学などの、従来の伝統的学問からはみ出した新しい研究分野を、重点プロジェクトとして取り上げました。残念ながら後任の機構長にはベンチャー・スピリッツがなく、FRC運営を安全を第一に軌道修正されてしまいましたが、本来の大学や学問とは、危険と冒険の世界なのです。リスクを恐れる人は、学問を楽しむことも研究に成功することもできません。ましてや、大学発ベンチャーや産学連携などの活動には、関わってほしくありません。

つい先日、私は、文科省がスーパー・サイエンス・スクールに指定した高校を、訪問しました。理科の先生が、理科教育にさまざまな工夫や試みを導入しようと情熱を持って、取り組んでおられました。私は、理科の先生はSF小説や伝記をたくさんお読みになり、子供達に理科の実験だけではなくて未来の科学の夢を楽しませながら、国語(SF文学)を教えられたらいかがでしょう、と発言しました。国際的な若者を育てたいと言われましたから、それなら理科を英語で教えたらいかがでしょうか、と言いました[5]。英語が専門の先生に英語を学ぶと、生徒は間違った英語を言うことを恐れて、なかなか楽しめません。先生は生徒にとって、権威なのです。専門家から学ぶことが本当によい学習方法なのかどうか、少し疑問を持ってみましょう。時には、英語や理科の役割分担を変えて、教えられたらいかがでしょうか。

渋谷に本拠を持つヒッポ・ファミリーという語学学習のNPO活動があります[6]。彼らはこれまでの常識的なる語学学習法を、真っ向から否定しています。先生がいなくて生徒だけでCDを使って学習しながら、何カ国もの言葉をぺらぺらと話すこの集団は、とても不思議な集団です。彼らは言語を音楽のようにとらえて、個別の単語や発音ではなく、リズムとして言葉を覚えます。創始者の榊原陽氏は、幼児は「さむい」を「チャムイ」と、「冷たい」を「チュメタイ」と発音する。それでもちゃんと言葉が通じてるではないですか、と説かれます。thやlやrなど発音できなくても英語は通じると主張してきた私にとって、我が意を得たりの思いです。権威ある学者ではなくて、子供たちが正しい語学教育の在り方を教えるのです。

最先端のナノテクノロジーもまた、学生が教授に教えてくれるものだと、私は信じています。もし教授が学生に教えるようになれば、その学問はもはや死に体、寿命に来ています。伝統や権威は学問の敵です。江戸末期に大阪の街に生まれた適塾では、塾生が塾生を教えていました[7]。大学や学問の未来は、文科省や教授ではなく学生や社会が切り開いてくれるのです。文科省や教授たちばかりに気を遣っていては、新しい学問も新しい大学も生まれないのです。分かりましたか?池田先生。SK

[1] 小出昭一郎「量子論」裳華房、1968。18頁など。

[2] 朝日新聞(大阪版)6月10日朝刊、IIS「イノベーションフォーラム」での発言です。

[3] 河田 聡「巻頭言:日はまた昇る」光学、2003年9月号。

[4] 山本義隆「磁力と重力の発見」1~3巻。みすず書房、2004。先月にも紹介しました。

[5] 2004年3月のメッセージ「小学生に英語」でも少し触れました。

[6] 理研・フロンティアシステム長の丸山瑛一先生に連れて行っていただきました。榊原陽「ことばを歌え!こどもたちー多言語の世界を開く」筑摩書房、1985。

[7] 司馬遼太郎「花神」新潮社、1972。朝日新聞の井上久男記者の受け売りです。

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