2005年10月のメッセージ

万博・反博。

ずっと黙っていましたが、実は愛知万博が嫌いでした。あまりに盛り上がっているので、白けさせてはいけないと思って辛抱して黙っていましたが、もう終わったのでそろそろ発言してもいいでしょう。あの万博が、いったい誰のために何のためにやったのか、私にはまるで分かりませんでした。自然の森の木を伐採し、土地をブルドーザーで整地し、生態系を破壊して大鷹など動物たちを殺して、そこにリニアモーターカーを走らせて、たくさんのパビリオンを作って、シベリアの永久凍土に眠るマンモスを掘り出して人前に引きずり出し、大量の電気やガスを消費して運営して、それで名称が「愛・地球博」、総合テーマが「自然の叡智」だなんて、気恥ずかしい限りです。

博覧会が終わればまた元の自然に戻すんだとか。それじゃあ、何故わざわざ自然を破壊したのでしょう。ブルドーザーで踏みつぶされた動物たちがもう一度生を得て、ここに帰ってくるのでしょうか?自然が破壊された跡に膨大な物資を運び込み、2200万人もの人間の足で踏み荒らして、膨大なエネルギーを消費して大騒ぎをする目的が、私には本当に理解できないのです。トヨタが、名古屋企業のメンツにかけて成功させたのだと言います。もしそうなら、トヨタはここでいったい何を成功させたかったのでしょうか。国とマスコミの宣伝に踊らされて、高い旅費を払って長い時間を掛けて訪れて、高い入場券を買って入場した人たちが得たものは、いったい何だったのでしょうか。待ち時間480分の日立グループ館に並び、コンビニに入るのにも40分並び、帰るのにもシャトルバス乗り場に並んでいる人たちの姿は、私には気の狂った宗教集団にしか見えませんでした。

「2200万人」が来たと大騒ぎするマスコミが、私たちに何を訴えたかったのかのも、さっぱり分かりませんでした。昔、大宅壮一さんが、高度成長時代の日本人を指して「一億総白痴化」と言ったことがありました。バブルが崩壊してようやく、紅白歌合戦の視聴率が下がり、巨人の野球の放送の視聴率が下がり、社会が多様化して「一億総白痴化」から日本人は脱却してきたように思っていましたが、名古屋はいまが高度成長、「総白痴化」の真っ直中のようです。

万博見物に行った人たちに時間と金が余っていたのなら、その人達はもっと別のことにその時間とお金を使えなかったものでしょうか。どうせ長い列に並ぶなら、ディズニーランドやユニバーサルスタジオの方が楽しいように思います。ディスニー・ランドでミッキー・マウスやドナルド・ダッグのパレードに興じ、ユニバーシティー・スタジオでジョーズやジュラシックパークの世界を体験をしたい気持ちは、私にも良く理解できます。しかし、何故いま名古屋で冷凍マンモスを見てロボットをみるのか、私にはよく分かりません。世界中には、病気や貧困に苦しむ人たちがたくさんいます。お金と時間が余っているなら、その人達を少しでも助けるために使うという発想もあって良かったように思います。

昔の博覧会と言えば、パリのエッフェル塔や大阪の通天閣、上野の博物館がその名残として知られていますが、日本人には何と言っても、1970年の大阪万博でしょう。大阪万博やオリンピックがあったときは、まだ1ドルが360円の時代であり、日本人は海外に観光旅行することができない時代でした。外国人にとっても、日本に初めて観光するチャンスでした。大阪万博では、アメリカ館の「月の石」が思い出されます。その半年前にアポロ11号が持ち帰ったばかりの月の石をいきなり一般公開したのです。世界の人たちは、人類が月に行くという科学の進歩と、10年経っても終わらないベトナム戦争に、「人類の進歩と調和」を実感しました。マンモスをシベリアの永久凍土から掘り出して持ってきて見せて、「自然の叡智」とか「愛・地球」とか言う無神経さよりは、大阪万博の方がまだまともだったのかなあ、という気が今しています。大阪万博では、開催に反対する人たち(特にベ平連の人たちだったと思いますが)が、その半年前から大々的に大阪城公園で「反博」を開催していました。今も残る「太陽の塔」を作った岡本太郎氏も、万博に対しては非常に批判的で、丹下健三作の大屋根に穴を開けて突き抜ける「太陽の塔」は、そのアピールであったそうです[1]。

大阪万博の後、たくさんの地方博が開催されましたが、ほとんどは環境破壊と税金の無駄使い、開催者のメンツだけの企画でした。そのなかで、はっきりターニングポイントになったのは、1996年に東京お台場で開催予定であった世界都市博覧会でしょう。これは都知事選の最大の争点となり、青島幸男氏の当選という都民の選択によって、中止に至りました。今更辞められないという役所の圧力にもかかわらず、よく辞めることができたものだと思います。このような社会の変化の中で、今回の博覧会は、自らのキーワードである「自然の叡智」「愛・地球」「環境」を破壊する愚挙であったと思います。

8月のメッセージ[2]においても長々書きましたが、日本人は古来、森の自然を崇拝する民族でした。神道では森の高い木に神が降りてくるとされて、神社には必ず森があります。仏教ですら日本においては「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」といって、すべての生物は死ぬと仏になるいう自然中心主義に変容しました[3]。森の木は、種一粒から生まれて何百年も何千年も生きて、家や神社の柱となります。日本人は、生きていくがために森を切り開いて田を耕したときは、稲荷神社を建てて森を守る生き物(お狐様)を祀ります。縄文時代より、日本人はこよなく森を愛し森を畏れ、よほどの理由がない限り、決して森を破壊はしない民族なんです。

「海上の森」を破壊する愛知万博に対して、地元では真剣な反対運動が続いていたのに、マスコミにはこの環境破壊には批判がないどころか、最終参加者数が目標数に達するか、それを超えるかばかりの記事を書きまくり、環境破壊と税金の無駄使い、エネルギーの無駄使いを応援しました。最大のスポンサーのトヨタに逆らっては怖いというという思いがあったのだという人もいます。博覧会の終わった地元は、バブル化した人々の高揚の中で、日常には立派すぎる鉄道・道路や大きすぎるゴミ処理場などの維持に、今後苦労されることだろうと思います。

「愛・地球博」が何を目的として開催され、何を地元と日本人にもたらしたのかの総括は、歴史の判定を待つしかありません。でも、私はこの博覧会は嫌いでした。SK

[1] 岡本太郎、「歓喜」二玄社、1997。岡本太郎「疾走する自画像」みすず書房、など。

[2] 河田 聡ホームページ、2005年8月のメッセージ「お稲荷さん」

[3] 梅原猛、「森の思想が人類を救う:21世紀における日本文明の役割」、小学館、1991。

Copyright © 2002-2009 河田 聡 All rights reserved.