2015年2月のメッセージ

受験と就活には競争はない。入札も然り、、、。

意外なタイトルかもしれませんが、この通りだと思います。

日本の国立大学には、実は格差はありません。どの大学に行っても授業料は同じです。そこで働く教授達の給料も、どこの大学で勤めても国立なら基本的に同じ給料です。年齢によってだけ異なります。講義の数も教室の大きさもクラスの学生数も同じです。全てが厳密に国の規則で決まっていますから、格差はありません。もちろん、東京の大学で学ぶのと地方の大学で学ぶのとでは生活費は異なりますし、文化水準や自然の多さなども違います。でもそれは地域格差であって、大学間の教育格差ではありません。日本ではどこの大学に行っても、同じ教育が受けられるようになっているのです。国立大学間に競争などないのです。

しかし、競争がなくては人は退屈します。それが人の性です。仲のいい子供たちもゲームやスポーツや勉強で互いに競い合います。遊び道具が今ほどなかった昔でも、鬼ごっこやドッジボールや缶蹴りで競い合いました。小学校の教室にはトランプやゲームがなかったので、社会の授業で使う地図帳を持ち出して知らない世界の国や町の名前を当てっこしました。

先に述べたように大学間の授業内容に教育格差がなくても、競争好きの高校生たちはどの大学に合格するかの受験競争をします。無理にでも大学間にランキングをつけて、どこの大学に合格するかを競います。中身に違いがないなら、都会か地方、古いか新しいか、大きい大学か小さい大学かなど、学習内容と関係のないことを基準にランクをつけます。地方で勉強したい、新しい大学に行きたい、小さな大学で学びたいと思っても、成績がいいとその逆の大学に行くことを勧められます。個人の選択の自由が奪われた気分です。本来の自由主義国家だと自分の人生をもっと自由に考えて選べるはずですが、全てが画一化された社会主義国家では意味のないことに序列がつきます。

意味のない序列には、本当の意味の競争など存在しません。

国はCOEプログラムをいろいろ作って、大学間に競争をさせようとします。しかしCOE競争が終わると、大学の先生達はCOEによって実力は付かなかったことに気付きます。受験に勝ち抜くために中学高校で必死に英語を勉強しても、ほとんど英語力が身につかないのと同じです。もともと違いのない大学間での受験戦争とCOE競争は、英語を話せない卒業生と優れた教育をできない先生を増やします。

それぞれの大学に個性を認める自由な教育システムになって欲しいと願います。本来の競争とは自由社会にしか存在しないのです。格差を認めない日本社会では、これはなかなか難しそうです。イギリスのオクスフォードやアメリカのイサカ(コーネル大学)のように、個性ある人気大学は田舎の地方都市に育てばいいのにと思います。意味のない受験序列とCOE政策では、それは夢の夢でしょうか。

マスコミも政治家も地方の時代とか地方分権を訴えているように見えますが、おそらく役所はそう考えていないでしょう。新幹線計画を見ても分かります。地方分権というなら、なぜ北陸新幹線もリニア新幹線も北海道新幹線も東京から建設が始まるのでしょうか。東京に住む人たちのために便利だからでしょうか。リニア新幹線は大阪から名古屋までを先に開通させるといいと思います。かつて高速道路建設は、東名の前に名神から始まりました。新幹線は東海道の次は山陽新幹線でした。北陸新幹線は東京へ行かずに大阪から新潟、秋田へ、北海道新幹線は札幌から函館・青森を先に始めれば、一極集中することなく日本は昔の多極化に戻れるはずです。今の地方衰退化は、役所の中央集権化政策の結果ではないでしょうか。昔は帝国大学や旧制高校を東京に集中させることなく、全国に展開しました。しかし今はCOEによる地方大学いじめが行われています。そこには公正な競争はありません。

話が大きくそれました。

受験に加えてもう一つの日本の若者の競争イベントは、就職活動です。就活にも私は競争があるとは思いません。どの会社に入っても同じ業界では初任給はほぼ同じです。どこの大学を出ても初任給は全く変わりません。競争などないのです。大学入試と同じです。それでも人は競争する生き物ですから、意味のない競争が生まれます。

就職活動解禁や内定解禁日は、全国一斉です。大学入試と同じです。もし各社の給料が大きく違えば(すなわちそれが企業間の本当の競争ですが)、一早く内定を出すことが優秀な人材を得ることにはなりません。外資系は協定に参加していないのでルールを守らず学生を青田買いしてけしからん、という批判を良く聞きます。それならもっと給料を高くして、外資系から内定をもらった学生を後で奪い取ればいいのです。

日本の入試と就活には、本当の意味の競争などないのです。意味のないランキングに皆が振り回されているだけです。

話はさらにそれますが、大学を含めて官公庁が行う事業は一般に、「競争入札」の制度がとられます。官公庁からの発注は事前に広く一般に公開しておいて、それに対して複数の企業が応募をします。そして、応札する企業のなかで一番安い金額を提示した企業が入札に勝利します。一見、競争をしているように見えます。しかしここには、応札する企業は互いに全く違いのない全く同じ商品やサービスを提供する、という前提があります。互いの違いがない?それでは競争とは言わないでしょう。そこで、ひたすら一番安い金額を提示した会社が入札できるというわけです。これでは商品やサービスの内容の競争になっていません。価格だけの競争となると、互いに価格を下げて潰し合いとなり応札企業には儲けがなくます。そこで、談合が生まれます。談合とは間違った競争に対する防衛策であり、必要悪といえるかもしれません。性能が悪くても安い商品、性能は高いが価格の高い製品、それらを互いに提示して争うことによって本来の競争が生まれるはずです。その結果は随意契約となることでしょう。官公庁の公共事業の入札制度はそんな自由競争が認められない仕組みになっています。

どんどん話が外れていきます。昨今の大学の人事は、完全公募制が取られます。これにも、本当の意味での競争はありません。大学間の本当の人事競争とは、人の取り合いです。しかし、どこの大学でも給料は年齢だけで決まるので大学受験と同じような大学ランキングで人事が進んでしまうのです。

格差・競争のない社会では、見せかけだけの意味のない競争が生まれます。独立行政法人化は、国の機関に民間の会計制度を導入するのだと謳っていました。私は独法化によって社会は多様化し本当の競争が生まれると期待しましたが、残念ながら期待外れでした[河田聡、「独法化の失敗」科学 (岩波書店) 2010年1月号]

いまモロッコのラバトのホテルにいます。この戯言はそこで書いています。私の研究室の元の助教授がいまラバト大学の教授をしており、彼と一緒に日本・モロッコのナノフォトニクスのシンポジウムを開催中です。モロッコには日本人より豊かで日本人より有能で日本人より国際的な人たちが大勢います。もちろん、日本よりもずっとずっと貧しい人たちもいます。自分勝手やわがままな人、ずるい人も大勢います。格差社会です。私は世界中で日本ほど均質で競争のない社会はないと思います。そのことは日本に安全と安定をもたらしています。そこから、先月のメッセージ「昔は雪が降っても雨が降っても電車は走っていた」に繋がります。しかし一方、私は日本の人たちが意味のないことに競争していることに虚しさを感じています。世界中の実態のある競争から孤立して、日本独特の意味のない国内競争に明け暮れる日本が、世界に貢献できる若者を育てていけるのかどうか、役所の人たちにも是非考えて欲しいと思います。

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