02.大井友挙~仁賀保挙久

Ⅰ、鎌倉時代の由利郡の動向

 前項で信州の大井氏の興亡を見てきましたが、その時代の由利郡はどの様な状況にあったのでしょうか?。

 由利郡の領主は、鎌倉時代の初頭まで由利氏でした。ただ、『吾妻鏡』に「由利の八郎」と出ているので姓が「由利」だとされていますが、由利「」八郎なので本当に由利を姓としていたのか…わかりませんな。←ココ重要だと思います。

 なんか、今までの史書は「八郎」を由利氏であると決めつけてからの議論でありますが、これは危険だと考えます。とはいえ、便宜上、由利氏として記述していきますが。

 由利氏は恐らく在地官人の流れを汲むと思われる武士団で、奥州藤原氏の有力武将であった様です。源頼朝の時代には「由利の八郎」という人物が当主でありました。由利の八郎は、奥州にその名を知らぬ者が居ない豪傑でありました。後に彼は頼朝の捕虜になりますが、彼の非常に気高い言動は、敵方の書物である『吾妻鏡』ですら賞賛されております。

 「由利の八郎」は奥州藤原氏の滅亡後解放されましたが、武器を持つことを許されませんでした。その後、由利中八郎維平(これひら)という人物が由利の地頭として登場いたします。

 彼と由利の八郎を同一人物見るか否かは議論の分かれる所です。私は別人であろうと考えます

理由は、

①頼朝挙兵以来付き従ってきた「中八惟平」という人物が奥州藤原氏滅亡後見えない事。

②由利氏には大中臣氏の子孫だという伝説があり、「中八惟平」はこの流れを汲むと考えられる事。

③奥州藤原氏に使えた由利氏は「八郎」、頼朝旗下の由利氏は「中八郎」「中八」であり、明らかに書き方に差がある事。

④和田合戦の際に活躍した「中八太郎維久」はどう見ても御家人であり、単に北条に与同した者と見える事。であるからこそ、和田合戦にかこつけて中八郎維久を改易にしたのではないかと考えられる事。

です。

 何れにしろ由利中八郎維平は大河兼任の乱にて戦死し、子と思われる由利中八太郎維久が跡を継ぎます。由利の八郎と由利中八郎維平が別人であり中八郎維平が頼朝の家人であるとすれば、この時の頼朝の対応も納得できるのです。また、北条義時は排除したかったでしょうしね。

 由利維久は和田合戦にて没落、この後、由利郡の地頭職は大弐局に伝えられた事は前述いたしました。そして大弐局の領土を相伝した大井朝光の子孫が由利郡を保持して行く事になった訳です。この由利郡は出羽にあり、本貫の地である大井庄とは非常に遠く、まして御家人である大井氏は鎌倉在住であった様で、由利郡に当主が直接赴いて経営するわけにはいかないでしょう。

 よって分家を地頭代として由利郡に下したと考えられます。また、分割相続であったらしく、由利郡はこの後、細かく分割されていきます。但し、滝沢氏は由利氏の子孫であると伝わっておりますが。

 その中で最初に出てくるのが「源正光」です。津雲出郷(つぐもいでごう。後の矢島郷)の地頭として、鎌倉時代末期に矢島郷を領していた様です。この時、後の根井氏の祖先である滋野氏の名も出てきます。

 続いて由利郡にて存在感満点なのが、赤尾津郷(現在の由利本荘市松ヶ崎・亀田近辺)を支配していた小介川氏です。赤尾津郷は室町時代には京都の醍醐寺三宝院門跡の領土となっており、小介川氏が地頭…確証はありませんが…として管理しておりました。

 ですが時代を経るに従い小介川氏は三宝院に対して年貢を進上することを怠るようになりました。…想像ですが小介川氏は醍醐寺三宝院より「地頭請」していたのでは???と考えます。困った醍醐寺三宝院門跡は宝徳2年(1450)、細川勝元に訴え、小介川立貞(原資料見ていないので想像でしかありませんが立貞?。光貞だったりして。)に三宝院門跡に年貢を納める様に命じ、小野寺家道に仲介をさせました。

 これに対して小介川立貞は、「5代も10代も前から三宝院門跡の領土ですが、年貢を送った事はありません。」とつっぱねます。小野寺家道ですが小野寺氏の系図には出て来ませんが出羽仙北の小野寺氏の当主でしょう。

 仲介の労を無にされた小野寺家道は、小介川立貞は「不肖人」であるから仲介は出来ないと幕府に伝えております。細川勝元や京都御扶持衆である小野寺氏の意向を無視するなんて…小介川立貞、怖い物知らずすぎ。

 業を煮やした醍醐寺三宝院門跡は、奥州探題である大崎氏や出羽守大宝寺氏を動かして、小介川氏に年貢を納めさせようとします。結果は判りませんが、当時の醍醐寺三宝院って言ったら、恐るべき権力を持っていたんですね。納めたんじゃないかな。

 ここでちょっと奇妙なのは、「羽州探題」である最上氏の名が挙がらず、大崎氏や大宝寺氏が小介川氏に影響を与える人物として登場します。もし本当に羽州探題が機能していたとすれば、最上氏の名前が上がるはずです。羽州探題というのは機能していなかったのではないでしょうか大宝寺氏が「出羽守」になっていますしね。

 この小介川氏が大井氏の系譜のどこに繋がるかは判別しません。ただ、「5代も10代も」前から出羽に住んでいたことは間違いないわけです。また、小介川氏は明応年間頃まで大井氏も称していたらしき微証もあり、大井氏の流れである事には疑問の余地はありません。長野県佐久市布施の中に過去、小助川という地名がありました。もしかするとここが本貫の地でしょうか。

 この様に由利郡に分居した大井一族は地道に勢力を広げて、15世紀中頃にはかなりの勢力を持つ様になりました。同様に仁賀保氏も、姿を見せていたと思われることは前ページに記載いたしました。恐らくでありますが、大井友挙の祖父である行光(ゆきみつ)の代に仁賀保郷に本拠地を動かしたものでしょう。但し行光友光(ともみつ…ちかみつ…か?)の代には信州の本拠地も捨てられなかったのではないでしょうか。

 この時代の仁賀保氏の祖の本拠地でありますが、「矢嶋」「根々井」「布施」など、仁賀保・矢島氏関連の地名が纏まっている地域があります。佐久市の西側…東御市寄りの地域になります。この隣接地域には今も小松・菊地姓は多いようです。土門姓のみわからん。


Ⅱ、奥羽仕置以前の仁賀保氏

0)プレ仁賀保氏

 仁賀保氏の菩提寺である禅林寺には、仁賀保氏関連の古い戒名が伝わっています。

文安4(1447)年2月8日に亡くなった桂昌院殿秡山洞雲上座 と禅雄院の直親と伝わる宝徳3(1451)年10月17日に没した霊松院殿繁室妙昌大姉、さらに、寛正4(1463)年4月8日に没した大井友光こと禅雄院殿岩翁英公上座の3名です。この3代も気になるところですが…

 禅雄院殿こと仁賀保友光の母が霊松院殿繁室妙昌大姉 で、桂昌院殿秡山洞雲上座 は恐らく友光の父の行光でしょうか。ついでに言うと霊松院殿繁室妙昌大姉ですが、戒名からすれば天台宗か?。大井氏本家の元々の菩提寺は佐久市の安養寺です。安養寺は天台宗妙心寺派だそうで…あれ。辻褄が合ったゃった。


1) 大井友挙の動向

 大井友挙(ちかきよ。寛政譜では「ともたか」だが仁賀保家では「挙」を「きよ」と呼んでいる。)は永亨6(1434)年の生まれと伝えられます。友挙は信州の混乱に見切りをつけて、仁賀保郷に本拠地を移したのではないでしょうか。この時期、大井氏は村上氏との戦いに負けているようですし。この頃の信州は守護家の小笠原氏は3家に分かれて相剋しあい、混とんとしていました。

 友挙が仁賀保へ到着したのは応仁元(1467)年9月12日といわれます。言い伝えによれば友挙は芹田村に上陸、白雪川を遡って待居舘に入り、「古館」を修復して翌年に山根館に入城したそうです。先述の通り、彼は父祖の代より仁賀保郷に関わっていたと考えられるので、領内への影響はそれ程無かったでしょう。

 一部の『矢島十二頭記』などによれば、大井友挙は鎌倉の関東管領上杉氏の命を受けて下向して来たと伝えております。越後・出羽庄内はいずれも上杉氏の領土ですし、出羽庄内に隣接する仁賀保の領主が上杉氏の権威を嵩にきても何も不思議はありません。大井友挙は関東管領上杉氏の威を領内統治に利用していたのでしょうね。 

 さて、仁賀保氏の居城の山根館は、旧仁賀保町教育委員会が発掘を行っております。平成6年度の発掘調査では、中国明朝の年号である「宣徳」(1426~1435)の年号を持つ陶磁器の器底が2器出土しています。

 これは中国との勘合貿易によってもたらされた物であると推測されますが、コピーの可能性も無論あります。ただ、日本国内には同時期の城より類似の青磁が数多く出土しているようです。仁賀保氏が居城した直後より、それなりの勢力を持っていたことがわかると思います。

…もしかしたら大分友挙以前に仁賀保には領主が居たのかもしれません。友挙はその跡を継いで…継ぎ方は色々あるかと思いますが…仁賀保郷に入ったものでしょう。すんなり領主になっているのが疑問です。

 大井友挙の時代のことは言い伝え程度にしか伝わっておりませんが、唯一、「薄衣申状」の中に「山北・由利・秋田之勢催降、江越・寺窪辺一陣取候ハん」と、仙北・由利・秋田衆が明応8(1499)年の奥州探題大崎氏の内乱の中で、大崎氏方に与同し江越(?)・寺窪(金ケ崎)あたりに布陣することが述べられております。この「由利」は不明でありますが、大井友挙らであろう事は推察される所であります。大崎氏は反鎌倉府・反古河公方でありますので、上杉らと仲の良かったと推察される大井友挙の動向としては辻褄の合う所です。

 大井友挙は禅林寺の過去帳によれば、文亀3年(1503)6月9日に没したと伝えられます。70歳と伝えられます。

 尚、友挙という名でありますが、「友」が「朝」という字の当て字で、「挙」が「光」を当てたものだとすれば(理由は後に説明いたします)、大井友挙は実は大井朝光(ともみつ)という人物だったのかも知れません。彼の父の名が「友光(ともみつ)」と伝えられているのも気になります。

 また、も一つ言うと、彼の官職名は系図等では「伯耆守」とされていますが、「由利十二頭記」などは、「信州から来てから、挙久(若しくは挙長)の代までは大和守だぜい!」と記載されています。確かに小介川立貞が伯耆守を称するなど、もしかしたら友挙の官職名は後の人が小介川立貞とゴッチャにして「伯耆守」としたのかもしれません。また、小介川立貞にあやかった可能性もあります。

 しかし天正17年の文書に仁賀保家の一族で「伯州」を名乗る者も出てきますので、やはり「伯耆守」を称した可能性もあるか…と私は思っています。 

 友挙や次の挙政の時代は史料に乏しく、全くの空白の時代でありましたが、昨今、他の大名衆の資料にその影を見ることができるということがわかってきました。益々の資料の発見を期待しております。

2) 仁賀保挙政の動向

 大井友挙の跡を継いだのは挙政(きよまさ、たかまさ)でした。彼は仁賀保大和守と号し、彼の代に姓を仁賀保に変えた様です。挙政は文明16(1484)年の生まれと伝えられます。父友挙の50歳の時の子で、仁賀保郷に移住してから生まれたことから考えるに、大井友挙の移住は何かしらの理由がある様に思えます。

 無論、初めから仁賀保を領していた2代目でありますので、挙政は姓を「仁賀保」としたことは理に適っているところです。ここいら…後継ぎが出羽にて生まれたことなどが、先代友挙の出羽移住のヒントなのかもしれません。

 全くの仮説でありますが、例えば初代の大井友挙は信州に妻子を置いて(自分の本願の地を子どもに譲り)、出羽に移住してきた…とか、戦に敗れて本領を失い、出羽に落ち延びた…などが考えられますか。

 ま、想像はさておき、仁賀保という地名(姓?)の初見は、次に挙げる大永4年10月9日付長尾為景宛斯波政綿書状です。

(史料3)

      「「大永四 十 卅到」 

              斯波新三郎

                   政綿 

   長尾信濃守殿

         進之候

(端裏)

「(墨引)」

今度者高梨方為合力、則被達本意候、大慶察申候、軈而使者可差下候之処、越中雑説に付て、于今延引、非本意候、仍已前者使者上着之砌、無其煩御懇之儀、祝着無他候、随依鷹所望、時枝源次郎差下候、上給候者、可為喜悦候、就中、鷹・馬望候て、仁加保へ助大夫下候、定而来春可上候、然者、於貴国路次之儀被仰付候者、別可令祝着候、次うつほ五つ、進之候、尚源次郎可令申候、恐々謹言、

        十月九日 政綿(花押)

    長尾信濃守殿

          進之候

 差出人である斯波政綿は寛正6(1465)年~大永4(1524)年頃に越前国鞍谷(現在の福井県武生市池泉町)に居た人物で、「鞍谷殿」と言われる斯波氏の一派です。足利将軍家とも密接な繋がりを持つ非常に家格の高い家柄です。

 この書状により、大永4(1524)年には仁賀保郷に斯波氏と繋がりを持つ程の勢力がいた事が諮詢されます。馬と鷹が欲しいからさ、仁賀保氏に助大夫を使者に出したのさ。来年の春には来ると思うんだよね。その時は通してちょ。」的な感じですね。『上杉家文書』から勘案すると、この年(かな?前の年かな。)、将軍足利義晴就任の贈り物攻勢の為、奥羽の諸侯が多数上洛した際、馬や鷹などを沢山持っていったようです。別に仁賀保氏にも要求しているのは、先に上洛した際に持参した鷹・馬が素晴らしかったから、再要求しているのかなあ。そういえば、鳥海山にはイヌワシいるしなあ。

 仁賀保挙政の時代の事はあまり言い伝えも残っておらず文書も皆無で、小野寺氏や大宝寺氏の如く公家の日記にも登場しないので、その実態は不明です。

 ただ、その後の時代から推察しますと、周辺諸侯と姻戚関係を積極的に行っていたと思います。

 挙政は天文15(1547)年7月24日に没しました。59歳と伝えられます。


3)仁賀保挙久の動向

 仁賀保氏が再び歴史上に姿を見せるのは、3代目である挙久(きよひさ、たかひさ)の後半からです。彼もまた大和守を称しました。俗に「大和州」と呼ばれていたようです。

 私は確認していませんが、天文24(1555)年に室町幕府の蜷川親俊(にながわちかとし)は、太平小野寺仁賀保瀧澤鮭延細川小国野辺沢土佐林氏等中奥衆18氏宛の書状と共に鷹師竹鼻氏を派遣したそうです。


(史料4)

依遠路、細々以書状不申承候、背本意存候、仍就鷹所望之儀、竹鼻差下■入候、尚得其心、可申■、別而御馳走所仰候、事々期後音存候、恐々謹言、

            九月廿二日 親俊(花押)

             滝沢殿

               御宿所

 これは『鶴舞』95号紙上で吉川徹氏が指摘された「蜷川家文書」の一つです。氏は、差出人である蜷川親俊がこれを持っているのは、「中奥を使者として廻った坂東屋冨松が滝沢氏に渡せなかったからだ」と推察されています。…慧眼ですな。

 更に翌年に将軍足利義輝の意を受け坂東屋富松も再び歴訪したそうです。

 また仁賀保氏は同じく天文24年、上洛いたしました。仁賀保氏と同じ由利衆の中では滝沢氏も上洛しております。どうやらこの時も蜷川親俊を頼っていたようです。

 いずれ仁賀保氏は2代目挙政、3代目の挙久の代迄に、有力国人領主としてその地位を確立したものと考えられます。

 この時代の仁賀保氏は、越後の長尾上杉氏の動向を注視していたようです。出羽庄内はそもそも上杉家の領土で、大宝寺氏が地頭…上杉氏の配下…として君臨していました。当然、隣接する仁賀保氏だって注視するわけですね。

 上杉謙信はご存知のとおり、軍神といってもいいような、無類の戦争の強さを誇った人物です。また、そのエキセントリックな行動は周りの諸侯に取っては天災みたいなものだったでしょう。当時の庄内の大宝寺氏は上杉謙信の「いいの?いいの?俺に従わないと、上杉さんが討伐しに来ちゃうよ。オーラをバックにして、大泉庄の地頭として君臨していました。

 永禄年間の大宝寺氏の当主は義増といいます。この大宝寺義増はどうも身の程をわきまえずに上杉氏から独立を試みようとしたようです。永禄11(1568)年にアホな事に武田信玄の誘いに乗り、本庄繁長と共に、上杉謙信に謀反を起こしました。…オメーはどう見ても本荘繁長と同格じゃネーだろうが…。

 この頃の仁賀保氏と大宝寺氏はどっちかって言うと敵対関係にありました。仁賀保挙久は何度か庄内に出陣しているようです。永禄2年に飛島を占領したと伝えられ、永禄10年には庄内の野沢舘を攻め落としているようです。特に飛島には八幡神社などもあり、仁賀保氏とかなり関係が深い様です。

 大宝寺義増の謀反時の仁賀保挙久のスタンスは「上杉さんとは喧嘩したくないなー。だって謙信さんのとーちゃんの為ちゃんの時代から知ってるしー」派だったと思われ…ま、想像ですが…。当然大宝寺氏とは敵対関係だったと考えられます。…むしろ戦術から考えると上杉氏が敵の背後を突く立場の仁賀保氏と手を結ばない方がおかしいです。「遠交近攻の外交」は兵法の常套手段ですね。ただ両者共上杉氏との関係は深かったと見るべきでしょう。

 上杉謙信に謀反を起こした大宝寺義増ですが、あっという間に降伏しました。当然上杉謙信は大宝寺義増にイラッ(怒)になっている状態です。義増は責任を取って隠居して大宝寺氏の存続を図りました。代わりに庄内で上杉派として出てきたのが、大宝寺氏の配下である土佐林禅棟という人物でした。彼の尽力によって大宝寺氏は存続が出来た様なものです。

 大宝寺氏の当主は義増の子の大宝寺義氏に変わりましたが、土佐林氏は上杉氏の目付として大宝寺氏に並ぶほど庄内で大きな力を持つようになりました。当然ですが大宝寺義氏は面白くありませんね。自分のとーちゃんを隠居に追い込んだ人物が自分の領土でデカい顔をしているわけですから。

 元亀2(1571)年に両者は対立して戦い、大宝寺義氏は遂には土佐林禅棟を滅ぼしてしまいました。…ま、ちょっと滅亡時期は疑問点がないわけでもないんですが…。この土佐林氏を支援していたのが仁賀保挙久でした。

 大宝寺義氏は仁賀保挙久の行動を制御する為、仁賀保挙久と仲が悪い矢島満安一派と手を結んで仁賀保氏を攻めさせます。この戦は仁賀保挙久にかなり不利だったらしく、山根館は「外廻輪悉打破」られ、仁賀保氏は「實城計ニ而被仕返、剰敵数輩被討捕」りはしたが「居館へ被押詰」られました。ですが結局、矢島氏は仁賀保氏の居城を落とせずに軍を引きます。

 この頃のものと思われる文書が何通か残っています。

(史料5)

今度大嶋逆意ニ付而、須田新左衛門ハ指越候処、□儀御入眼為其首尾、

田代□御出張□逮対陳候、依之即石沢自落、偏御威光□□出末代御芳情之至忝奉存候、

然者仁賀保陳中不思儀之以仕合、其口之相図を見損□乗調儀引除□〃故、

同名家風数多雖戦死之、仁賀保方并弟之九郎左衛門無相違被退候条、大慶此事候、

物主何れも無恙候事、□□聞召□而可為御満足候、

将亦其許之御陳冬中以番手可被成之由、是又乍御太儀可然令存候、此上之儀者、畢竟御前可有之候、

桑様重而可申合候、猶巨細初登故、申入之旨得貴意候、恐惶謹言、

 神無月         禅棟(花押)

  小野寺殿 江

     参人〃御中 

 冒頭の「大嶋」ですが、「矢嶋」の誤読かな。「大」に見えるんだが…。何やら由利郡のざわつきが見えますな。いずれ、仁賀保で戦いがあったことが見えます。


 更に仁賀保氏にとって不利となったのは、由利郡の北の小介川氏が大宝寺義氏に「奉公」すると言ってきたことです。これは大宝寺義氏が「意外之儀」という位、意外だったようです。恐らく同時期に第2次湊騒動が起きて、安東愛季豊島重村を滅ぼして小介川領に近接する様になったのが大きいのではないでしょうか。安東愛季対策ですかね。

 ここでちょいと第2次湊騒動の説明です。

 現在の秋田市の南端、雄物川に面する所に豊島郷があり、その領主として豊島重村という人物が居ました。豊島重村は湊安東家旗下の豪族でして、仁賀保挙久の娘かな…が彼に嫁に行っています

 元亀元(1570)年、豊島重村は安東愛季の経済統制に反発して周りの国人領主らと語らって挙兵いたしました。この戦は周辺諸侯である戸沢氏、小野寺氏や庄内の大宝寺氏を巻き込み、豊島重村は2年間戦い続けますが、遂には敗れて仁賀保氏の元に落ち延びます。

 この豊島氏の領土は秋田地方から仙北に至る道筋で、また雄物川の河口を牛耳る場所でもあり、物流・交通の要衝と言ってもいいでしょう。この豊島氏を味方につけた仁賀保氏、小介川氏等は仙北の他氏の領土をも虎視眈々と狙っていたと思われます。

 いずれにしろ、小介川氏の大宝寺義氏へ接近により、仁賀保氏は由利郡内で孤立化しました。こう成ると仁賀保挙久も手も足も出せません。仁賀保挙久は土佐林禅棟の重臣で大宝寺義氏の捕虜になった竹井時友らを救うためにを大宝寺義氏に嘆願しました。これに対して大宝寺義氏方になっていた岩屋朝盛が小介川氏と相談の上仁賀保へ向かいます。

 更に庄内観音寺城主の来次氏秀は、仁賀保挙久に降伏を勧告しました。来次氏秀は仁賀保挙久方として働き大宝寺義氏に和睦の斡旋をしましたが、仁賀保氏の大宝寺氏降伏は遅々として進まなかったようです。鮎川氏宛の書状の中で大宝寺義氏は仁賀保氏の降伏が遅い事を愚痴っています。

 その後の動向からして仁賀保氏と大宝寺氏は和睦したと考えられます。大宝寺義氏と由利衆の関係は主従関係ではなく大宝寺氏を優位とした同盟だったのでしょう。この同盟は仁賀保氏にとって庄内方面の戦局の安定化をもたらし、予てから仲の悪かった矢島氏に対して全力で当たる事が出来るようになりました。仁賀保氏は天正3年より矢島満安との全面戦争に突入します。