25.齋藤茂助家
25.齋藤茂助家
江戸時代から昭和にかけ、仁賀保家及び仁賀保郷に多大な影響を与えたのが、齋藤茂助家です。代々、「茂助」を名乗る(ことの多い)一族であります。特に江戸時代の仁賀保家では一族から武士階級で代官となる者や廻船問屋などを輩出し、仁賀保領を支えました。
この齋藤茂助家で仁賀保平沢に移り住んだ初代は齋藤久太郎といいます。慶安~承応頃に滝沢郷奉行免村より仁賀保に移住してきたと数代後の子孫は役所に提出した「届」で語られています。
齋藤家は元々は滝沢氏の家来だっったと考えられます。先の「届」の中で「世々滝沢館」に居て、「後、奉行免村に移り代官となり大庄屋」を兼ねたとしています。ま、元々先祖は武士で元和8年に最上家改易の余波を食らい滝沢氏も改易になった時に奉行免に移り庄屋となり、その子の代に平沢に移住したのでは…と推察いたします。
恐らく久太郎の父ないし祖父の代に滝沢氏改易にあったものでしょう。もしかすると、父(祖父)は滝沢の当主と共に平沢に赴いていたのかもしれません。初代の久太郎は武士階級だった様で、2代目の茂右衛門は「農を以業とす」としています。改易にあった滝沢氏…おそらく兵庫頭か?…は、仁賀保家を頼り平沢に赴き、平沢龍雲寺にて没したとの話もあります。
さて、初代久太郎は貞享2(1685)年7月18日に71歳で亡くなりました。
2代目の茂右衛門は延宝8(1680)年には3升4合6勺8朱という非常に僅かな農地しか持っていなかったのですが、元禄4(1691)年には23石9斗8升に農地が爆増しております。初代の久太郎は相当の財産を持って平沢に来たのではないでしょうか。
2代目の茂右衛門は元禄13(1700)年8月19日に48歳で没しております。
3代目の長作から屋号の茂助が登場します。長作は茂助と改名、堅実に家業を営んだと見え、享保11(1726)年に47歳で亡くなります。
4代目茂助は先代の長男で、豊秋という諱をもっております。この時代、茂助豊秋は弟の久太郎を分家します。後、この久太郎家は文化2(1805)年に至り、廻船問屋「大丸屋」を作りました。
また、寛保3(1743)年、上納米400俵を献上しております。…有力者と認められたのでしょうなあ。
茂助豊秋は延享元(1744)年亡くなり、その子茂助豊定に代替わりいたします。
5代目の茂助豊定は別名安太郎とも言い、益々、茂助家は栄えました。宝暦12(1762)年、明和8(1771)年に其々300両上納。小姓格3人扶持となっています。
更に天明5(1785)年400両、寛政3(1791)年500両上納。彼はATMのごとく上納し、享和2(1802)年に亡くなりました。
6代目は茂助豊定の佑助で、豊定を名乗りました。彼はちょっと変わった経歴を持ちます。彼の代、少々上納には難渋したらしいのですが、それでも仁賀保家の財政立て直しに積極的(かは解りませんが)に関わっています。
文化7(1810)年1月には仁賀保誠肫の命により名を茂右衛門と改めました。かつ、彼は家督を倅の7代目茂助に譲り、自らは別家を立て、斎藤茂右衛門豊長と改名後、暫くして役人として陣屋に出仕しました。金5両2人扶持という微禄でありますが、齋藤家としては別家を立て役所勤務をさせることで本家を守ることもできるメリットがあった様にも思われます。
話がそれますが、この後の茂右衛門家でありますが豊長は山形県庄内松山の須田家より丹治を養子にもらい受け、丹治が茂右衛門家を継ぐことになります。茂右衛門豊長の改革は相当厳しく行われたようでしたが、数年後には黒字となり成功しました。
が文政6年に至り、領内は米が不作で領民が強訴するに至り、代官が責任を取り切腹して果てる事件が起き、改革は頓挫します。
茂右衛門豊長は天保に隠居、丹治が2代目茂右衛門となりますが、後、闕所となりました。
さて、7代目茂助の子が8代目茂助でありますが、若くして没し、その弟周次が9代目茂助となります。
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