Ⅶ潟保氏・羽根川氏

1.潟保氏

 潟保氏の来歴は詳しいことはわかりませんが、元々は斎藤氏であるとも言われております。潟保氏の居館である潟保館は建保5(1217)年にできたと伝えられます。その時代は由利氏が由利郡を失い、新たに大井氏が新領主として登場した時代ですが、果たして真相は如何という所でしょうか。

 潟保氏は「十二頭記」などでは仁賀保と矢島の争いの中で中立な立場で登場しますが、元々仁賀保氏と由利氏、子吉氏ら反矢島・小野寺連合に領土を囲まれており、非常に小さな領主です。村地頭的な存在から成り上がったのではないでしょうか?。

 天正期の主は潟保治部大輔で、(史料6)に最上義光の重臣である中山光直からの書状が記載されています。秀吉からの使者が最上義光の元に来た事が知らされています。

 いずれにしろ、最上義光に「従え」と言われていることからして、仁賀保氏らと行動を共にしていたものと考えられます。

 豊臣政権下で潟保氏は単独での領主格を失ったと思われ、他氏(仁賀保氏か滝沢氏)の与力化したと考えられます。

 また、関ヶ原の戦いでは、潟保氏の臣の稲葉氏の言によれば、潟保氏の主は西軍である庄内攻めに積極的ではなく、稲葉氏が単独で仁賀保光誠軍に加わって戦ったようです。

 そのせいか戦いの後、潟保氏が領主として復活する事はなく、在地有力者として最上義光の騎下に組み入れられたと考えられます。「潟保出雲」など、潟保氏であろうと考えられるものが分限帳に名が見えます。

2.羽根川氏

 羽根川氏は由利衆の中で最も記録の少ない領主の一人です。

 その領土は由利郡の北端であり、雄物川沿いに西に進出してきた小野寺氏や、隣接する安東氏の被官となり、時には自立してその命運を保っていたと考えられます。

 湊合戦の折りに秋田の豊島氏が没落した後、羽根川氏が豊島氏領に移ったという記載があります。

 血縁的には赤尾津氏の弟と伝えられます。