07.仁賀保光誠…その3
矢島満安の滅亡
Ⅳ、矢島満安の滅亡
永禄3(1560)年仁賀保挙久の代より4代、足掛け30年近く戦ってきた仁賀保氏と矢島氏の戦にも天正16(1588)年にけりがつきました。
天正13(1585)年末頃に家督を継いだ仁賀保光誠は、矢島満安に使者を出しました。「仁賀保家の当主に無事に成りましたので御安心してください。仁賀保挙久の時代より仁賀保家と矢島家は小笠原一族で、疎遠になってはいけないですね。」と。
矢島満安はこれを聞いて喜び、挨拶と祝儀の使者を仁賀保に出しました。その後、度々懇意にしていたと伝えられます。
しかし翌年2月中旬に至り、仁賀保家臣馬場四郎兵衛と矢島家臣熊谷次郎兵衛の喧嘩に端を発した両家の争いは、再び両家の戦に発展しました。
5月、仁賀保光誠は小介川氏の加勢を受け矢島勢を破りましたが、8月には矢島満安は逆に仁賀保へ攻め込みました。山根館の水の手郭を占領しようとしましたが仁賀保光誠に大敗しています。この大敗後に最上義光から矢島満安に与同の使者が来たわけです。
この頃、既に矢島氏は旗色が悪くなっており、妻の実家の西馬音内茂道に頼っていたことが推察されます。天正15(1587)年3月27日付の六郷政乗宛石郷岡氏景文書によれば、「由利郡も一件落着して満足だよ。仁賀保も落ち着いたし。西馬音内茂道も兵隊引いたし」という文書があります。石郷岡氏景は安東愛季の家臣であり、その氏景が「公私満足」と言っている事からすると、由利郡は安東氏主導で纏まったものでしょう。
また、西馬音内茂道が兵を引いたという内容から推察すれば、西馬音内氏が敵対するのは西の仁賀保氏だけなので、仁賀保と西馬音内の間に位置する矢島満安は西馬音内茂道の支援で辛うじて領土を保っているという感じだったのかも知れません。
(史料9)
今度矢嶋事、為致還住候間、五三人之身上可改之旨申断ニ付、此庄之内五貫文之地出之、早々馳上可抽奉公者也、仍如件、
天正十四
正月九日 義興(花押)
小番喜右兵衛との
小番喜右兵衛は「矢島十二頭記」に出てくる小番嘉兵衛と同一人物か、その一族でしょう。嘉兵衛は矢島満安の重臣の一人であり、天正16年に矢島満安の弟与兵衛と共に謀反を起こし満安に討たれています。この文書によれば矢島家中よりかなりの数の者達が矢島から庄内の大宝寺義興の元に逃れている事が伺えますね。矢島家の弱体化が見て取れます。
同15年3月中旬、矢島満安は滝沢氏を攻め、その居城の「三の塀」迄攻め入りました。滝沢氏の危機に仁賀保光誠は救援の為に矢島領に攻め込みました。
これは所謂「囲魏救趙の計」ですね。囲魏救趙の計は「敵の本拠地を直接攻撃し、動揺した敵が本拠地を救うために戻った所を、包囲されていた味方と共に挟み撃ちにする」というのが目的です。
しかし、さすがは歴戦の猛者です。仁賀保氏の出陣を聞き及ぶと矢島満安は矢島に向かわず滝沢城から直接行軍している仁賀保軍に向かい「ブナの木もふち(現在のにかほ市冬師近辺か)」で仁賀保光誠の部隊を迎撃いたしました。
この時、矢島満安は一族の鮎川氏を加勢に頼んだ為、逆に仁賀保軍は背複両面に敵を受け仁賀保勢は総崩れとなりました。この戦いで矢島満安は怪我を負いましたが奮戦し、仁賀保勢は150人が討ち取られる大敗北を喫しました。…この満安の知略は非常に見事ですね。
思うに仁賀保光誠も矢島満安も知略に優れた武将だったのでしょうね。
ともあれ、由利郡の騒乱はこの様に矢島氏と仁賀保氏との闘争が原因でした。これに巻き込まれる他の一族はたまったものではありません。6月中旬頃、潟保氏と鮎川氏が和睦の仲立ちをして和睦することになりました。仁賀保光誠より和睦の使者として赤石與兵衛が矢島に、矢島満安は小介川摂津を仁賀保に夫々差し下しました。両者も厭戦気分が高まっていたらしく、再び懇意にする事にしたそうです。
12月20日、仁賀保光誠より矢島満安に使者として芹田伊予守が使いを出されました。曰く、「矢島満安の娘の於藤を兵庫頭の嫡男である蔵人へ縁組をしたいのだが。」と。
満安はその場でこれを受けました。しかし矢島満安の家臣達は「仁賀保挙久を矢島で討ち取った事を考えれば、心の底から和睦を考えているわけではないだろう。」と話し合いました。ここあたり満安の意志と矢島家臣の間に齟齬があるのを見て取れます。
「矢島十二頭記」の中に出てくる赤石與兵衛、芹田伊予守などですが、下記の文書が伝わっております。
(史料10)
今度馬場村四郎兵衛としえ引越万事之支配仕仰付候、御扶持方に馬場村の地方沢田三百刈御切米代拝拾〆仕下置東者矢嶋界、北者鮎川界青木森共々彌助同前に相守可申者也、為後日之依而如件
永禄九年三月十三日 芹田 伊豫 判
赤石与兵衛 判
手島四郎兵衛 殿
三浦 彌助 殿
恐らくこれは現在の冬師集落の支配の件だと考えられます。 この内の1名の手島四郎兵衛は矢島家臣の熊谷次郎兵衛といざこざを起こした馬場四郎兵衛と同一人物でしょう。
さて翌天正16(1588)年1月20日、仁賀保より年頭のお祝いの使者として小松某が矢島に行きましたが、大雪の為に足止めされました。話し合う機会のとれた満安は小松某に「仁賀保と矢島との境が近頃はわからなくなっているよな。これが騒動の一因だよ。雪が消えたら村人達に聞き取りして、昔の通りに境を決めようぜ。」と言いました。
4月1日になって、仁賀保・矢島両方から役人や村人達が多数参加して境を決める事になりました。矢島側からは金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛、村人らが多数出、仁賀保側からは芹田伊予・赤石與兵衛殿・宮陛平三郎・手島四郎兵衛、その他大勢が参加しました。
これにより蛇口・不動沢・段ヶ森・鬼之倉・石すのふ・桑谷地頭・桑坂・はなれ森・前森・笹長根・ふなの木もふち・大谷地頭・大森迄、昔の通り線を引き、厥大場にあった大きな石を双方から人夫を出して南側へ動かし、石に溝を刻んで「割石」と名付けました。この境界は、ほぼほぼ現在の仁賀保・矢島境と同じようです。この「割石」は現在も存在しております。中々行きづらい場所にあるようですが…。
また、4月下旬には鮎川氏と矢島氏との境界争いもあり、両者の境も決めました。
7月になり最上義光から矢島満安へまた誘いの手紙が来ました。内容としては「太閤様に御目見えして、由利郡の領主になるお手伝いしますよ。」というモノでした。矢島満安はこれに対して「ありがたい」と返事をしました。
最上義光が矢島満安と数度連絡を取り合っているのを仁賀保光誠が聞き及び、矢島満安に異論を唱えました。「最上義光の元に行く必要は無い。もし、行くのであれば二度と帰る事は出来ないぞ。」と。脅しですね。
ですが、矢島満安は8月1日に「来年、上洛して太閤様へお目通りする事、承知いたしました。」と返答しました。更に使者を立てて最上義光を介して秀吉に使いをいたします。秀吉は使者の到来を喜び「兼ねてから最上義光より聞き及んでいた。来年、最上と一緒に上洛すれば、逢ってやろう。」と返答いたしました。
ここポイントですね。由利郡の領主にしてやると言っているのは最上義光であり、秀吉ではないんですね。恐らく最上義光は秀吉には矢島満安を「自分の配下です」と伝えていたのかも知れません。一流の詭弁ですね。…いい意味ですよ。
矢島満安は喜び勇び10月15日、手勢の武将の多くを召し連れ山形城へ赴きました。矢島新庄館の留守居は満安の弟である与兵衛(一名太郎)です。手薄になった矢島を見た仁賀保光誠は、矢島与兵衛に使者を出してこう伝えました。「満安殿が我々の忠告を無視して山形城に赴いたのは非常に不快である。由利郡の領主総出で矢島を攻めて貴殿を攻め滅ぼし、満安を2度と矢島帰れなくしてやろう。もし、そうされたくなければ満安が帰って来れなくなる様な工夫をしてみなさい。」と。これ、兵法三十六計で言う処の「借刀殺人」の計ですね。
矢島与兵衛は多勢に無勢で敵わぬと見、10月25日に謀反を起こして満安の子の四郎を討ち取りました。満安の重臣である小介川摂津守は満安の妻と娘の於藤を引き連れ、妻の実家の西馬音内に落ち延びます。西馬音内より矢島与兵衛の謀反が満安の元に届き、彼は直ぐに矢島に引き返します。
11月3日、神代山より直に新庄城を攻めようとしましたが、取り敢えず配下の猿倉平七の館へ入り、兵を集めてから11月8日に新庄城に攻め込みました。城内の謀反の衆は驚き逃げまどい、矢島満安自身が城内で謀反衆を討ち取って回ります。謀反軍の大将である矢島与兵衛は討死、満安は与兵衛の子を血祭りに上げた後、仁賀保光誠に詰問状を送りました。
対して仁賀保光誠は返事を出さずに矢島に出陣、矢島領の前杉まで押し寄せました。矢島満安も八森迄出陣して夜戦をいたしました。地の利の無い仁賀保光誠軍は軍奉行の他、仁賀保民部も討死し大敗し軍を引きますが、11月下旬に再び小介川治部少輔や打越氏、潟保氏、滝沢氏、石沢氏らを引き連れ、矢島に攻め込みました。
流石の矢島満安も多勢に無勢では守りきれず西馬音内へ落ち延びて行きました。 その時、満安は「津雲いて 矢島の澤を詠むれハ 木在 杉澤 佐世の中やま」と詠んだそうです。
矢島満安が西馬音内に落ち延びた後も仁賀保光誠らは攻撃の手を緩めず、そのまま西馬音内城へ押し寄せ、西馬音内茂道や矢島満安らと戦い12月28日遂に矢島満安を討ち取りました。
仁賀保光誠らは余勢を駆り西馬音内茂道と戦いますが、西馬音内茂道の主である小野寺義道より和睦の使者が来た為、西馬音内より兵を引きました。この時、満安の娘於藤を捕虜にしたと伝えられます。
年不詳ですが2月15日の西馬音内茂道宛の西野道俊の文書に「矢島の事だけど義道は納得してねーぜ。でも奉行衆はオッケー」という一節が有ります。もしかしたら天正17年の文書で矢島滅亡の時のことかな。と私は思います。で、そうだとすれば小野寺義道は矢島満安の死を不満に感じていたという事になります。対して西馬音内茂道の窮地を救うべく小野寺氏奉行衆が和睦した…という事になりますか。天正17年の文書でなくとも西馬音内茂道と小野寺義道の間で、矢島氏の件で意見の齟齬があったという事になりますね。
さて、一部の「矢島十二頭記」や『奥羽永慶軍記』は、矢島氏滅亡を文禄元年としていますが、これはどうでしょうかね?。(史料11)にみるとおり、天正18年には仁賀保氏領として「あら町村」「ひた祢村」 「杉沢村」など矢島氏伝来の村々も含まれていることが確認できますので、矢島満安は天正16年には矢島郷を失っていたと考えられます。
矢島氏研究の…由利郡の中世史研究の…先達である姉崎岩蔵先生が紹介された資料である「福原家由来書」には、天正16年12月「福原行須(行栄の子)、伯父光安公に従って新荘の戦に出陣戦死、年29、時に12月21日、永伝19、行栄57、」とされております。天正16年末に矢島氏が滅亡したのは間違いないですね。
仁賀保光誠は矢島満安を討った後、そのまま矢島の八森城へ入り、城番として菊池長右衛門、酒井(境)縫殿之助、藤原勘之助を指名しました。光誠はそのまま矢島にて年を越し、矢島に於ける分国法を定め、天正17(1589)年正月20日に帰国しました。この時の矢島領の分国法はどうやら満安時代の物をそのまま使った様です。
仁賀保光誠は矢島満安の娘である於藤を仁賀保へ連れて帰りました。天正16年12月28日より矢島は仁賀保光誠の領土になったと伝えられます。