20.仁賀保家の戒名について
なんか問い合わせが多いようですので、これについて記していきます。
仁賀保氏の菩提寺の禅林寺の書き出しによるもので、禅林寺に伝わっている戦国時代の仁賀保氏関係の法名一覧です。なんか立派な院号まで付いていますが、当然これは後の世になって付けられたものでしょうな。
例えば江戸期の古い系図によると光誠の戒名は「正山本公」であり、後世になってゴテゴテと装飾されていったのでしょう。因みに光誠が開基になり、その戒名が寺の名前になっている東京三田の正山寺に伝わる光誠の戒名は「正山寺殿前武庫梅岩宗香居士」という立派な戒名になります。
また、本当は「陽山重公」であったと思われる戒名が「龍山重公」として伝えられるなど、1文字くらいは誤伝もあるようです。
因みに初代から6代までは院内禅林寺へ、7代光誠、8代良俊は塩越の蚶満寺へ葬られております。…この時点でこの2名が禅林寺ではなく蚶満寺に葬られた所以は、次の様に推察されます。
① 蚶満寺が衰微し、この頃禅林寺の傘下に有った事
② 光誠が没した時、良俊と誠政・誠次との間に知行の分割騒動が持ち上がり、誠政・誠次の領土となった禅林寺へ葬る事が出来なかったであろう事…良俊が自身が光誠の跡継ぎだという自負から弟の知行地に葬るのを良しとしなかったであろう事
という2点からでしょう。
なお、禅林寺に光誠の墓がありますが、これは恐らく仁賀保良俊が亡くなり7000石家が改易になり、塩越が六郷藩領になったことなどを原因としたものと推測いたしますが、誠政・誠次の2名が光誠13回忌の折に建てたそうです。 …どちらかというと改葬だと思います…
また、大井友挙の五輪塔や幕末期の仁賀保千石家の墓も禅林寺にあります。友挙の物は後で建てたものですね。
仁賀保光誠の2男の誠政、3男の誠次の2名以降は青松寺に葬られ、幕末まで仁賀保家はここを菩提寺にしていました。
代数 名 前 没 年 院 号 戒 名
不 明 文安4(1447)年2月8日 桂昌院殿 秡山洞雲上座
※禅雄院直親 宝徳3(1451)年10月17日 霊松院殿 繁室妙昌大姉
大井 友光 寛正4(1463)年4月8日 禅雄院殿 岩翁英公上座
初代 大井 友挙 文亀3(1503)年6月9日 仙自院 寿栄玄長大居士
2代 仁賀保 挙政 天文10(1541)年7月24日 義應院 忠安全功大居士
3代 仁賀保 挙久 天正4(1576)年2月28日 霊渕院 龍山重公大居士
4代 仁賀保 挙長 天正5(1577)年8月19日 照亮院 鑑翁機公大居士
5代 仁賀保 重挙 天正11(1583)年7月6日 白鳳院 梧隠了桐大居士
6代 仁賀保 挙晴 天正14(1586)年10月15日 光輪院 法岸道輝大居士
7代 仁賀保 光誠 寛永元(1624)年2月24日 浄明院 正山本公大居士
光誠 妻 寛文7(1667)年2月16日 常徳院 心窓貞明大姉
8代 仁賀保 良俊 寛永8(1631)年7月11日 了禅院 本空栄心大居士
よくわからないのが「上座」という位号ですな。ネット情報によれば愛知・静岡に多い位号だとされていますが、仁賀保氏の場合、まっっったくそちら方面に縁はありません。
また、豪奢にならないようにという時の権力者による制限がかかったため…というのも拝見しましたが、そちらの方が理に適っているかなあ。