03.仁賀保挙久~重挙
Ⅰ、矢島満安と仁賀保挙久
矢島氏は大井氏をも称し、元徳3年(1331)には「羽州由利郡津雲出郷 大旦那 源正光」(『北之坊銅板銘』)として矢島郷の領主としてその名が見られる事は先述いたしました。大井朝光の流れを汲む地頭代としては由利郡に最も早く移り住んだ一族であると思われます。この「源正光」が大井氏の系図に見られる大井政光であれば、矢島氏と仁賀保氏は大井光家から分かれた極近い親戚であると考えられます。
矢島氏と仁賀保氏は、永禄年間に戦端を開いて以来、慶長5年にその残党が滅びるまで、実に40年に渡って戦を繰り返していました。天正期の矢島氏の当主は大膳太夫満安(矢島満安・大井五郎)といいます。彼は仙北の小野寺氏旗下の一族西馬音内茂道の娘を娶っており、大宝寺(上杉)寄りの仁賀保氏、安東氏寄りの小介川氏等と対立していました。
「矢島十二頭記」によれば、そもそも仁賀保氏と矢島氏の戦いは、永禄3(1560)年に矢島氏と滝沢氏の争いに仁賀保挙久が介入した事に起因致します。前にちょっと触れましたが、天文年間に由利で一番勢力があったのは仁賀保氏と滝沢氏だったようです。彼らは上洛したりしてますしね。また足利義輝の意を受けた者が回ったのも、この2氏でした。
矢島満安は元亀の頃に仁賀保氏と敵対する大宝寺氏や小野寺氏と手を結び、仁賀保氏を攻撃した事も先述いたしました。 この様に矢島氏と仁賀保氏の関係は修復が難しい位に壊れ、仇敵の間柄となりました。
天正4(1576)年、仁賀保挙久は大軍を率いて矢島に進攻します。仁賀保軍は矢島満安の居城である新庄城(下地図)と川を挟んだ対岸にある根井館に本陣を引きました。