Ⅳ矢島氏・鮎川氏・根井氏
矢島氏・鮎川氏・根井氏は、由利衆の中で地縁・血縁が深い中であったようです。よって、矢島氏を語る時は、やはり、この3氏を纏めて説明した方が解りやすいと考えます。
1.矢島氏 ・鮎川氏・根々井氏
矢島氏ですが、下記史料からして大井氏の流れをくむと考えて間違いないと思います。
矢島氏・鮎川氏・根井氏は、由利衆の中で地縁・血縁が深い中であったようです。よって、矢島氏を語る時は、やはり、この3氏を纏めて説明した方が解りやすいと考えます。
1.矢島氏 ・鮎川氏・根々井氏
矢島氏ですが、下記史料からして大井氏の流れをくむと考えて間違いないと思います。
〇封 敬白
奉鋳於羽州由利郡 大旦那 源 正光
津雲出郷十二神将 併 滋野行家
志趣金輸聖王天長 仏 師 七郎兵衛
地久御願円満兼又 本 願 一阿上阿
本願大旦那二世悉 本 願 仏子心海
地結緑合力除災与楽 大旦那 沙弥長心明心
〇封 元徳三年太蔵辛末 六月 日
これは一々語ることが憚られる様な有名な史料ですが、矢島氏の祖と思われる「源正光」、そして根井氏の祖と思われる「滋野行家」の両名が、鳥海山に十二神将を奉納した折の銅器識文と呼ばれる銅碑文です。
元徳3年は1331年で、「源正光」は恐らく大井氏の系図に出てくる大井政光でしょう。滋野行家は根井氏の祖と推察され、名前からすると根井行親と関係あるのかな…と推察されます。ここに出てくる「津雲出」郷は矢島郷の昔の名であると言われ、「矢島十二頭記」内でも矢島の古名が津雲出である事が諮詢されています。
さて、「矢島十二頭記」の中では、矢島氏の先祖は信濃国の木曽義仲の配下であったといい、木曽義仲が没落した後、信濃国より応仁元年の3月中に矢島ヘ移住したとされています。また、別の言い伝えでは矢島氏の先祖である大井義久は、応安元(1368)年~応仁元年の間に信濃より来たと伝えられます。その由来は「根井氏が信濃の所領を失い、矢島にて再興を期そうとしましたが、矢島が領主もいない状態で騒乱の渦中にあるのを見て、信州より小笠原大膳大夫義久を矢島に連れてきて、地頭とした」といいます。その際、根井氏も矢島の1/3を領して矢島氏に使えました。
よって矢島氏歴代は根井氏を大切に扱っていましたが、満安の代になり、矢島の知行を奪い現在の百宅に所領替えをし、配下として戦場へも出るようになったと伝えられます。
大井氏の流れをくむ矢島氏は何故、木曽義仲の家臣だったとされるのでしょうか?。
これは木曽義仲の配下にいた矢島行忠という人物に由来すると考えます。実は、この矢島行忠という人物は根井氏と同じく滋野氏と同族でありました。これを清和源氏系である矢島氏と同一視した為、こういう伝承になったのでしょう。木曽義仲の郎党として「平家物語」に登場する矢島行忠の方が名の通りが良いですからねぇ。
また矢島行忠の領土である信州矢島は、後に大井氏のものとなり大井系の矢島氏が領したそうです。ここあたりもゴッチャにされる原因ですね。私は確認できていないのですが、嘉歴4(1329)年の「鎌倉府下知状案」によれば、信州矢島の地頭として大井六郎入道という人物が確認されます。また、少し時代が下った史料ですが「諏訪御符札之古書」なるものによれば、文安5(1448)年には「矢嶋沙弥栄春」、享徳3(1454)年「矢嶋大井山城守光政」など信州矢島は大井氏の傘下に入ったたことが分かります。
矢嶋氏はこの信州佐久の矢嶋が本貫の地だと思います。というか、仁賀保氏を含めた由利に移住した大井一族はこの信州矢嶋近辺の出身が多い様に思われます。まず矢島郷の西隣の布施は恐らく仁賀保氏の重臣布施氏の出身地と思われます。しかも小助川地名もあり、小介川氏との縁もありそうです。更に矢嶋の東隣には沓沢の地名があります。沓沢…『矢島十二頭記』に秋田浪人とありますが、おそらく元々の家はここの出身ですかね?。更に矢嶋から直線距離で4㎞ほど離れていますが根々井地名もあります。
すなわち、鎌倉時代に津雲出郷と呼ばれていた地が矢島郷と名が変わったのは、信州大井庄矢島を領していた一族の名に由来すると考えてもいいんではないでしょうか。「矢嶋氏の領する津雲出郷」が矢島郷に変化していったものでしょうね。
上記の史料に出てくる「源正光」と「滋野行家」が矢島氏・根井氏の初代だとは考えられませんが、何れ、彼らは鎌倉時代末期には津雲出郷の地頭として信州より住み着いたものでしょう。恐らく、大井氏の一派の内、信州大井庄の矢島を…もしかしたら滋野系矢嶋氏の家を継ぎ…領して、矢島氏として津雲出郷に乗り込んできたものでしょう。
よって、「矢島十二頭記」は矢島氏を3代ないし4代としておりますが、もっと前から本拠地を矢島に置いていたものでしょう。但し、信州にも領地があり、完全移住は信州大井氏が滅亡したころではないか…と推察します。
矢島氏歴代は「矢島十二頭記」によれば初代を義光、2代目が光久、3代目が光安としておりますが、義久―光久―義満―満安の4代であるというものもあります。まあ、歴代が不明であるというのはよくあることです。
矢嶋氏歴代の内、文書上で確認されるのは、矢島満安の父である義満の事と推察される「矢嶋四郎」という人物からです。
今度矢嶋四郎方家風之者共就相招候、不図越山候条、種々雖相抱候、無信用候間、少人数をハ相添之候、然者矢嶋息西馬音内ニ差置候事も、拙子令意見候条、第一ニ可相立彼進退覚悟ニ候、然者洞ニ侫人一両輩有之間。可加退治所存迄ニ候、全彼家中を引倚見可申儀ニ無之候、兼而之御首尾候間、此■於御助成者、可為大悦候、万々令期後信之砌、不能詳候、恐々謹言、
杖林斎
禅棟
六月五日
これは庄内の土佐林禅棟が出した文章で宛先不明ですが、「矢嶋四郎は信用できない」「矢嶋四郎の子を西馬音内に置くのも反対だ」という内容が読み取れます。土佐林禅棟は元亀2年に戦死…もしくは没落したとみられるので、恐らくそれ以前の文書ですね。永禄12年と推察されている様です。
また、次の文書により、仁賀保と矢嶋は戦っていたことが史料により確かめられました。
今度向仁賀保之地、従矢嶋致調儀、外廻輪悉打破、実城計ニ而被仕返、剰敵数輩被討捕之由候、先以仁和之本望より存候、併居館へ被押詰之条、可被存無念候、定而矢嶋へ可被致動候欤より存候、其刻来次方も為懸詞被罷下候、従爰元竹井父子之者共、同名九郎左衛門尉其外指下候間、於彼地以相談可被及行候之間、其元雖不可有御手透候、少々御加勢可然候、為其令啓候、恐々謹言
杖林斎
禅棟
七月二十九日
岩屋殿
御宿所
これも永禄12年と考えられる文書ですが、矢島氏が謀をめぐらして仁賀保氏を攻めたことが読み取れますね。
態以小野久助申入候、仍今度其郡備之儀、某一事ニ相憑之処、自先代忠信之首尾之相届候事、奇特千万、不及是非次第候、特手崎之儀候条、一入心尽共令識察候、其城加勢之儀、矢嶋・根井両所へ堅申届候、可心安候、随而赤宇曾之儀、某三崎山之外へ下馬候時節ニ可遂奉公之由被申事候、意外之儀共、乍去如何共為可申分、松山大夫差下候、定而一途可有之候哉、今般其元へ左近可指越之由、相存候処、事之外相煩候間、無其儀候、弟之久助遺之候、猶於巨細者口上ニ申付候間、不具候、恐々謹言、
義氏(花押影)
霜月五日
鮎川山城守殿
これも同じく永禄12年かと考えられる文書ですが、恐らく鮎川山城守が攻められて大宝寺義氏に助けを求め、それに対して義氏は矢嶋・根井両氏に鮎川氏救援を命じたという内容ですね。即ち、鮎川・矢島・根井はこの当時、庄内の大宝寺氏の傘下となっていたという事が判ります。
…もっとも大宝寺義氏は越後上杉氏の被官でして、彼等は上杉謙信の姿を見ていた…という方が無難なのかもしれませんね。また、赤宇曾…小介川治部少輔が大宝寺義氏に奉公する言ってきたが意外なことだ…と言っています。 ホントに奉公したかは疑問があります。しなかったから後日の赤尾津攻めにつながるのでしょう。
さて、この中で鮎川山城を攻めたのは誰でしょうか。言わずと知れた事ですが、滝沢氏かそれを支援した仁賀保氏でしょうね。
以上の文書から鑑みると由利衆を含めた諸氏は、
①鮎川氏、矢島氏、根井氏、大宝寺氏(庄内)、小野寺氏(仙北)
②仁賀保氏、滝沢氏、岩屋氏、玉米氏、来次氏(庄内)、土佐林氏(庄内)
という形で対立していた様です。
矢島氏と仁賀保氏の対立は、周りの諸侯を引き入れて大きな騒乱となっていた事が判ります。これに大宝寺氏と土佐林氏の対立があり、由利・出羽庄内とも非常に混乱していた様です。
この中、仙北小野寺氏の支援を受けて、矢島氏は仁賀保氏に攻勢をかけていました。 矢島満安の活躍は「矢島十二頭記」に詳しいのですが、文書等での確認は現在の所、確認できておりません。まあ、「矢島十二頭記」というものの性質上、嘘ではないと考えますが。
さて、鮎川氏は一部の「矢島十二頭記」に矢島満安の縁者であると伝えられると言っております。鮎川氏は山城守の先代より大宝寺氏の…むしろ上杉氏の勢力範囲の…北辺の備えとして傘下に入っていた事が読み取れますね。矢島満安滅亡後は勢力が衰退し、滝沢氏に併呑されたものと考えられます。また、子孫と考えられる一族の系図(「鮎川氏系図」鮎川久米松)によれば、鮎川山城守の子である鮎川親定は小野寺氏に仕え、その末葉は角間川給人として佐竹氏に仕えました。
…これから推察するに鮎川氏は矢島氏の敗北と共に小野寺義道の元に逃れたと考えるべきなのでしょう。
先に述べたように根井氏は本姓は滋野氏でして、矢島氏を信州より連れてきた…もしくは共に領有していた「大旦那」の一人でありましたが、何時しか勢力が衰退し矢島氏の傘下に入りました。
恐らく津雲出郷へ移住した最も早い一族は、先に出た根井(滋野)行家でしょう。一部の「矢島十二頭記」では矢島満安より領地を召し上げられて現在の百宅に押し込められたとされていますが、どうですかね。
何れ、矢島満安の被官として仁賀保氏と戦っているのは事実ですね。
ただ、矢島満安が仁賀保氏との戦で旗色が悪くなると、矢島氏を離れ仁賀保氏の被官となったようです。天正18年、当時の領主である根井五郎右衛門尉は、豊臣秀吉より祢々井村169石余りの領地を得ました。
出羽国油利郡内祢々井村百六拾九石壹斗事令扶助訖全可領地候也
天正十八年
十二月廿四日 朱印
祢々井五郎右エ門尉とのへ
という朱印状を豊臣秀吉より拝領しています。
が、この知行宛行状を仁賀保光誠が持っているという事は、打越宮内少輔と共に仁賀保氏の被官化したものと考えられます。恐らく被官化した時期は、矢島与兵衛の謀反時でしょう。
後、根井五郎衛門尉…正重という人物でしょうかね…はどうなったか不明ですが、根井一族は遠藤氏と名を変え、生駒氏に仕えたとされます。
さて、矢島氏でありますが、最後の当主の矢島満安は西馬音内城へ人質になっていたと推察されます。先に掲げた永禄12年頃と推定される土佐林禅棟の書状には「矢嶋息西馬音内ニ差置候事」と矢嶋四郎の子が西馬音内に居る事が判ります。思うに矢島満安の妻は西馬音内茂道の息女であり、ここで両者の縁が出来たのでしょう。
矢島満安は何度か仁賀保氏を粉砕し退伝の危機に陥らせますが、単純に石高の比較からすると1/3の勢力しかない矢島氏がどうして仁賀保氏と対等以上に戦えたか、ここに理由があるのではないかと思います。
私は「矢島十二頭記」とは矢島氏の遺臣が新たな領主である生駒氏に対して、アピールする為のモノでなかったのか…と考えております。何のアピールかは分かりませんが…仕官か何かですかね…。ですので「矢島氏大勝利!」という大本営発表的な覚書的記述が続くわけです。
しかし現実には仁賀保光誠が仁賀保家の家督を相続した頃には矢島満安の領内統治には暗雲が立ち込めていました。
今度矢嶋事、為致還住候間、五三人之身上可改之旨申断ニ付、此庄之内五貫文之地出之、早々馳上可抽奉公者也、仍如件、
天正十四
正月九日 義興(花押)
小番喜右兵衛との
小番喜右兵衛は「矢島十二頭記」の小番嘉兵衛と同一人物か、その一族であると考えられます。嘉兵衛は矢島満安の重臣の一人で、天正16年に矢島満安の弟与兵衛と共に謀反を起こして満安に討たれています。 この文書によれば、矢島家中よりかなりの数の者達が矢島家を離反し、大宝寺義興の元に逃れていると見られます。
内館御音札畏悦被申事候、依之拙子迄御書拝見之候、如仰由利表相収候事、公私満足此 事候、仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者、弥可為御目出候、為指出申事其恐不少候、猶追而可申述候条、不能審候、恐々謹言、
猶々申候、自旧冬愛季樓遅ニ付而、表書如此候、
(天正十五年) 石郷岡主殿助
三月廿七日 氏景(花押影)
六郷殿
参御報
これは安東愛季の動向より天正15年と考えられている石郷岡氏景の書状です。 安東愛季の家臣である氏景が、由利の事について「公私満足」といっている事からすれば、由利郡の動向は、安東氏が満足する形…敵である小野寺氏・戸沢氏の勢力が排除された形…で纏まったものでしょう。…小野寺氏一族勢力…矢島氏ですね。
で、「仁賀保相支之由、然処ニ西母生内殿始申御人数被引退候、迚之御事ニ重而御与勢 候而彼地落居候者」という箇所から考えるに、天正15年頃の矢島満安は岳父西馬音内茂道に頼らざるを得ないほど劣勢だったのかも知れません。
ちなみにこの戦いですが、「矢島十二頭記」では15年3月中旬に、矢島氏が滝沢氏を攻めたことが知られております。矢島氏は滝沢氏の居城…恐らく根代館でしょうが…を攻め、「三の塀まて攻入」った時、仁賀保光誠が空になった矢島氏の居城を攻めようと進軍して来た為、矢島満安は滝沢氏居城の囲みを解き、仁賀保光誠軍を迎撃に出ます。
矢島軍と仁賀保軍が激しく戦いあっている際、鮎川氏が矢島氏側として出陣し、仁賀保氏を挟み撃ちにした為、仁賀保光誠は大敗しました。この際、矢島満安は負傷したといわれます。
もしかしたらこの時の戦の事かも知れません。この時の事を「矢島十二頭記」は大分簡略に書いていますが、地理から推察しますと、当初は仁賀保光誠が矢島満安を負傷させ、矢島軍を打ち負かして矢島領に押し入りましたが、矢島領に押し入ったところで不自然に矢島軍に負け、更に鮎川氏に挟み撃ちにされ、仁賀保領に逃げたという事になります。
これはもしかすると矢島に攻め込んだところで、西馬音内茂道の援軍が到着したのかも知れませんね。 いずれ、矢島満安のバックには岳父西馬音内茂道が居ました。
仁賀保と矢島はこの直後和睦しますが、天正16年の7月に至り、最上義光が矢島満安にコンタクトを取ってきたことから再び和睦は崩れます。即ち、矢島満安は豊臣秀吉の威を借り由利郡を領せんと欲したからです。
この最上義光とのコンタクトというのが矢島満安にとって致命的でした。最上義光は小野寺氏とは仇敵ですし、それに好を通じる矢島満安は小野寺氏から見ると裏切り行為であったでしょう。岳父の西馬音内茂道とて当主である小野寺義道の手前、矢島満安の為に動けない状態だったでしょう。矢島満安が仁賀保氏らに滅ぼされたのは自明の理であったと思います。
矢島満安が最上義光の元へ向かっている間の天正16年10月、仁賀保光誠の圧力に耐えかねた矢島郷の留守居である満安の弟の与兵衛(一名太郎)は満安に謀反を起こしました。
驚いた矢島満安は取って返して与兵衛を討ち、更に仁賀保光誠に対して宣戦布告しました。
この戦で仁賀保光誠は手痛い敗北を喫しますが、11月下旬に至り、小介川治部少輔、打越宮内少輔、潟保治部大輔、石澤次郎と語らい、矢島満安を攻めました。
矢島満安は手傷を負い、妻の実家の西馬音内へ逃げました。しかし仁賀保光誠等は追撃の手を緩めず、戦備を整えた後、西馬音内城へ押し寄せました。仁賀保光誠等と矢島満安・西馬音内茂道らは戦いましたが12月28日、矢島満安は討ち取られました。…若しくは切腹したのかもしれません。矢島満安を攻め滅ぼした後も仁賀保光誠等は西馬音内茂道と戦いましたが、小野寺義道が和睦の使者をよこした為、仁賀保氏等は兵を引いたそうです。
別の本には新荘館から要害である荒倉館に立て籠もりますが、由利衆の総攻撃の前に西馬音内城へ逃げたと伝えられます。その後、矢島満安は小野寺義道より切腹させられたそうです。なんか、これはこれでありそうな話ですね。
矢島氏が滅んだのは、矢島満安が矢島郷を明け渡した天正16年12月28日であろうと思います。一部の本には文禄元年になっていますが豊臣政権下での私闘は有り得ません。
さて、本編にも書きましたが年不詳ですが2月15日の西馬音内茂道宛の西野道俊の文書に「矢島の事だけど義道は納得してねーぜ。でも奉行衆はオッケー」という一節が有ります。天正17年の文書で、矢島滅亡の時のことだったらスッキリするのですがね。で、そうだとすれば、小野寺氏内部に矢島満安の処遇を巡って対立があった…。小野寺義道は矢島氏が滅んだことを良く思っていないという事になりますか。
その後、慶長5年の関ヶ原の戦いに矢島氏の残党は上杉景勝与同として一揆を起こし、矢島八森城を攻め落としますが、庄内攻めから取って返した仁賀保光誠・小介川孫次郎・打越氏に攻め滅ぼされました。