14.仁賀保光誠…その10
Ⅺ.江戸時代初期の仁賀保家の動向
さて慶長19年、この年の末に起こった大阪の冬陣の折りには仁賀保光誠は「御跡備」として出陣しています。
(史料44)
番手組合之次第
壹番
酒井左衛門尉 松平甲斐守 松平土佐守 小笠原若狭守 禰津小五郎 水谷伊勢守
仙石兵部少輔 同 大和守 相馬大膳大夫 六郷兵庫頭
貳番
本多出雲守 真田河内守 浅野妥女正 松下石見守 植村主膳 一色宮内少輔
蜂須賀摂津守 秋田城介
(中略)
御跡備
(中略)
本多佐渡守 同大隅守 立花左近 同主膳 前田大和守 日根野織部 藤田能登守
菅谷左衛門 那須衆 津金衆 秋元越中守 由利衆 南部信濃守 酒井出羽守
右番手組合之書付所持仕候、御書付之趣、委細実否之儀如何ニ御座候得共、書付差出申上候、以上、
八月十六日 秋元摂津守
翌年の大坂夏の陣では仁賀保光誠は淀城を三宅康盛と共に守備することになりました。更に元和2年3月には伏見御番として伏見城を守る事になりました。
(史料45)
今度伏見之為御番願上申候、若相者て申候ハハ五千石之所者とらの助にゆつり申候、若此者志に申候ハハ竹千代ニゆつり申候、此由年寄衆へ承知可申上者也、
元和二年たつ三月十六日
とらのすけ
たけちよ 花押
右のかたへ
(史料46)
今度伏見之為御番願上候、若我にあい者て申候共五千石之内を以千石之所者右之内七百石をとらのすけニゆつり申候、三百石を別て竹千代ニゆつり申者也、両人ニ一人志に申候共残り一人ニ相渡し申者也、両人あい者て申候とも右之内五百石者女共ニゆつり申候、即此書物を以御年寄衆へ承知可申上者也、
元和二年たつ三月十六日
とらのすけ
たけちよ 花押
右のかたへ
(史料45)(史料46)に見える「とらのすけ」は仁賀保誠政、「竹千代」」は仁賀保誠次の事で、仁賀保光誠の2男と3男です。「とらのすけ」で思い出されますのは加藤清正、「竹千代」は言わずと知れた徳川家康ですね。仁賀保光誠は子供らに彼らの様な名将になって欲しかったのでしょう。
さて、この時仁賀保光誠が命じられた伏見御番とは後の大坂城代、大坂定番に繋がる重要な職でした。これ以前の元和2年2月25日、松平忠実は徳川家康より伏見城を守る様に命じられており、仁賀保光誠は松平忠実と共に伏見城を守る様に命ぜられたものではないかと考えられます。
翌元和3年には後の大坂城代内藤信正や西郷正員も伏見城番を命ぜられ、仁賀保光誠を含む4人は元和5年迄伏見城番を勤めております(伏見城は元和5年に廃城)。同年に福島正則の改易に端を発した西国の大名の大転封があり、仁賀保光誠等は軍役として「根小屋」番をしています。…根小屋???どこの根小屋???。…東海道線上なんでしょうけど。
徳川幕府の創世期のこの頃、仁賀保光誠は5,000石ですが旗本ではなく大名的な扱いをされていたと思われます。彼は伏見御番・大坂御番(大坂定番の事か)として配置されていますが、これらの職はいずれも1~2万石程度の小祿を食む大名の職で、仁賀保光誠がこれらの職に就いていたという事は大名として認知されていたという事でしょう。
この頃の仁賀保光誠の財政を知る史料があります。仁賀保光誠死後、誠政・誠次の2人が仁賀保蔵人の非法を幕府に訴えた、「寛永3年4月2日付の幕府宛仁賀保内膳・同内記嘆願書」です。これによれば、「…兵庫頭(仁賀保光誠)大坂御番ニ罷登申刻又出羽へ罷下刻拙者はゝを口入ニ立借金仕候、兵庫出羽へ罷下時分申やうに者、商物成を以借金返弁可仕由申にて、則亥ノ年ノ物成納候て借金之方ニ指置申候処ニ、兵庫ほとなく相果申跡敷を蔵人ニ被下候間、金主蔵人所へ催促仕候へ共一圓合点不申候間、金主拙者所へ円さいそく仕候、右之借金之外ニ先知行も物成兵庫遣申候分、出羽より金子為上可申者ずに仕候処、先知行所ハ皆川志摩守拝領被申候間、志摩守所より蔵人方へ先納さいそく御座候ニ付、蔵人拙者はゝを頼申候て借金仕右之先納ニ済し候て其金子をも不済申候而拙者所へさいそくを請迷惑仕候…」というふうに仁賀保光誠の常陸武田での財政は長年の上方での軍役で火の車であり、借金取りに追われるような状況であった様です。しかも数年先の収穫まで借財し、もはや仁賀保光誠の常陸武田藩の財政は破綻していました。
元和8年、出羽国では最上家は改易、その内由利郡には釣天井事件で宇都宮15万石を召し上げられた本多正純が5万8千石で入部しましたが、半年程で改易され千石で出羽大沢郷に配流されました。この結果、最上氏家臣として由利郡に住み続けた滝沢・岩屋の両氏も又改易となります。
岩屋朝繁は最上氏が改易になった後、常陸の秋田実季の下に行き、その後出羽に帰郷して佐竹氏の家臣になりました。
滝沢兵庫頭は『由利町史』によると最上氏改易後家を再興すべく色々幕府に働掛けたが果たせず、仁賀保氏の客分となり「鼻紙料」として五十石を貰い、仁賀保氏領平沢の龍雲寺で悶々とした日々を送りそこで死んだそうです。この話は、家臣筋と考えられる斎藤茂介家など、滝沢より移住している面々も確認され、かつ、彼らが龍雲寺を菩提寺としていることから鑑みれば、あながちありえない話ではないと思います。
上記の滝沢氏もしかりですが仁賀保光誠は改易された由利衆を自分の領地に引き取っていた様です。『梅津政景日記』には「玉米之七兵衛與申者妻子塩越へ引取…」としています。但し、これは仁賀保氏が出羽復帰した後の話ですね。
元和9年7月頃、仁賀保光誠は大坂御番を命ぜられ大坂に赴きました。前年に改易された最上家の重臣である鮭延秀綱は土井利勝に御預けの身となっており、この鮭延秀綱は御預けの身の間に、土井利勝と何かと話す機会があった様です。鮭延秀綱は関ヶ原の戦の折りの出羽庄内戦の仁賀保光誠の奮戦の模様、徳川家康に感状を貰った事などを土井利勝に話しました。それを聞いた土井利勝が徳川秀忠に話した所、徳川秀忠は最上家・本多改易後の由利郡に仁賀保光誠を戻そうと考えたらしく、大坂御番となって2ヶ月程の仁賀保光誠を急遽江戸に呼び戻しました。仁賀保光誠は酒井忠世・土井利勝に会い徳川家康に貰った感状を差出すなどした結果、旧領仁賀保に1万石を賜り、仁賀保と出羽庄内の境の三崎山を守る事となりました。なお同時に由利衆の内、仁賀保氏と共に常陸に転封された打越氏が3000石で矢島に入部いたします。
(史料47)
元和九年仁賀保高改
高百三十石一斗四升 小砂川村
高六百三十六石七斗五升 塩越村
高九十九石九斗三升二合 関村
高百六十二石七斗一升 中ノ沢村
高百十七石九斗五升 新井ガマ
高二百二石七斗四升八合 川袋村
高三百十五石六斗八升四合 大竹村
高二百二十三石九斗二合 長岡村
高百十二石二斗二升四合 中野村
高九十一石六斗六升二合 三十野村
高八十一石九斗三升八合 伊勢居地村
高七十五石九斗六升八合 寺田村
高四十一石二斗七升二合 大飯郷村
高二百二十一石六斗九升 畠村
高五百八十五石一斗五升二合 伊勢居地村
高百六十二石九斗六升四合 石田村
高五百八十五石一斗五升二合 小国村
高百三十一石二斗三升六合 浜杉山村
高三百三十石五斗九升八合 赤石村
高七百八十一石八斗九升三合 黒川村
高六十八石三斗五升二合 鈴村
高三百二十五石七斗九升一合 田抓村
高百八十二石一斗二合 平沢村
高四百四十石三升六合 大砂川村
高二百五十三石六斗八升四合 大須郷村
高二百六十六石五斗二升八合 横岡村
高三百九十二石七斗三升二合 小滝村
高百十二石七斗五升四合 立石村
高百三十二石七斗八升二合 樋ノ口村
高百石四斗五升 中村
高二百二十八石三斗二升六合 三日市村
高百十三石五斗 百目木村
高四十九石七斗四升 下小国村
高五十二石二斗五升八合 馬場村
高四百五十六石一斗四升六合 院内村
高百十八石八斗九升八合 新屋敷村
高三百十四石八斗九升 前川村
高百二十四石一斗九升四合 金浦村
高八百十四石九斗五升 芹田村
高四百三石七斗四升九合 三森村
高七十三石六斗八升五合 長磯村
高二百十八石六斗六升八合 本郷村
高合計 壱万七百石 この内七百石は主馬分
右之高 辻村々の百姓指出を以相究書渡申候
為後覚之如斯御座候 以上
曾根 源蔵
坪井 金太夫
元和九年霜月廿一日
仁賀保兵庫殿
同 主馬殿
余談ですがこの時、幕府は仁賀保光誠に1万石を与える外、仁賀保主馬宗俊…この名も野史によるもので確実な資料による確認はできないっス…を別家として独立させ、仁賀保郷の内で700石の知行を宛行いました。仁賀保主馬領は横山新田村、大砂川村等数ヶ村だったとされます。この主馬の700石の知行は当座の事で、後に改めて御取り上げがあるとの事でしたが、宗俊は寛永5年(1628)に死亡して700石は上がり高となり、仁賀保宗俊御取立ての話は無くなってしまいました。
仁賀保光誠が仁賀保1万石を拝領し、仁賀保郷の内の塩越に下向したのは12月頃だったと思われます。しかし光誠は翌寛永元年(1624)2月24日に64歳で塩越城にて亡くなりました。『梅津政景日記』によれば梅津政景は3月5日にこの報を聞いています。光誠は仁賀保郷に復帰する為に奮闘し、そして力尽きたといった感があります。
室町時代から明治まで、同じ領地で命脈を保った大名は幾程あるでしょうか。それを思うと仁賀保氏は一時的に仁賀保郷から転封しましたが、良く命脈を保ったものと感心いたします。