Ⅴ岩屋氏
1.出自
由利十二頭の一人、岩屋氏はその中でも非常に小ぶりな大名ですが、よく近世までその血脈を残しました。その出自は他の由利衆(十二頭)と同じく清和源氏小笠原流大井氏の流れを汲みます。
野史等によれば、岩屋氏は大井氏の中でも初代の大井朝光の次男である朝氏という人物に由来するといわれております。この朝氏という人物は『尊卑分脈』にはその存在は記載されておりませんが、信州佐久地方にある大井法華堂に伝わる系図にはこの朝氏以降の系譜が伝えられているそうです。なお『勘仲記』中には弘安3年5月9日の条に流鏑馬を行ったメンツの中に「大井次郎源朝氏」が出ています。同じく通字を「朝」とする一族であり、岩屋氏はこの朝氏の流れを汲むと考えるのが妥当と考えます。
大井朝氏没後、その子の朝信が跡を継ぎました。この朝信は信州大井庄の内、梨子沢城に居住し軽井沢方面を領していたと伝えられます。
岩屋氏が何時由利郡に移住したかは不明です。ただ、岩屋氏の菩提寺である永伝寺は応永5(1412)年に開山したそうで、それから推察すると応永年間迄には本拠地を現在の岩屋に移動させていたものでしょうな。 岩屋氏の歴代の名や代数の系図は伝わっておりますが、軍記物や覚書もなく、戦国時代末期までは不明としか言えません。
岩屋氏の領土は旧大内町の大部分…小関川沿を除いた地区でして、領地は非常に山地が多く、平野が少ない土地でした。
2.岩屋朝盛から朝繁へ
戦国時代…永禄期から天正期にかけて活躍するのが岩屋朝盛という人物です。彼は能登守を称し非常に有能な人物だったであろうと思われます。
当時の由利郡の状況は、北には小介川氏・安東氏が控え、西には戸沢氏・小野寺氏が虎視眈々と狙っており、岩屋氏の持つ僅か800石程度の領地では単独で生き残る事は非常に難しい状況にありました。また、南からは長尾上杉氏の威をかる大宝寺氏が迫っており、岩屋朝盛が家督を継いだであろう永禄年間は、由利郡は激動の時代でありました。
当初、岩屋朝盛は仁賀保氏・土佐林氏側として大宝寺義氏・矢島氏等と敵対していた様ですが、土佐林氏が没落すると大宝寺氏と好を通じ、天正11年に大宝寺義氏が滅びると、その後を継いだ東禅寺氏永に由利郡の中で唯一接近します。更に東禅寺氏永を介して最上義光に接近しますが、天正16年に本庄繁長が庄内に来寇しこれを併呑すると、何事もなかったように本庄繁長と通交するという、非常にアクティブな行動をいたします。本庄繁長のバックには上杉氏が控えており、上杉氏に対する関係もあり、これの与力的な関係になった様です。
岩屋朝盛は天正18年には小田原の役に参戦し秀吉から領地を認められ、独立の領主として秀吉に仕える事になりました。
出羽国油利郡内岩屋村八百四拾五石七斗三升、平釘村四拾五石四斗五升、合八百九拾壱石壱斗八升事、令扶助訖、全可領地候也、
天正十八 年十二月廿四日 朱印
岩屋能登守とのへ
当然、これは聚楽第にて下された物であり、天正18年末から19年初頭には岩屋朝盛は上洛していたものでしょう。
翌年に九戸政実が挙兵すると由利衆はこれに参戦し、九戸城まで行っています。
今までになかった東奔西走の大移動に50歳程度であった岩屋朝盛は疲れたのでしょう、天正20年に隠居した様です。
次の文書は慶長20年頃の最上家親の時代にに出されたものです。
今度就江戸登、態御使札、殊扇子幷銀子壱枚給候、毎度御念入之儀大慶候、猶重而可申候、恐々、かしく、
霜月五日 山駿河守
岩屋能登守(欠)
系図上、この文書の岩屋能登守が朝盛ではなく、右兵衛朝繁の事であるとしているものもありますが、どうですかね?。私は「朝盛が生きていた」っていう方がしっくりくるんですがね。ですので、亡くなったのではなく隠居と解釈しております。
さて、岩屋朝盛ですが、天正16年と推察される次の文書から朝盛の嫡男は「孫次郎」という人物であった事が判ります。
先日は御音信承悦候、仍其後雖申入度所存候、従大浦由利中惣立之儀被仰付候条、先月廿六日子ニ候孫次郎罷立候間、(中略)
九月十九日 岩屋
朝盛(花押写)
吉高殿
御宿所
※「孫次郎」が「総次郎」となっているものもある。
如御来礼、今度御老父爰元へ御越被□□折節取紛事付、不疎想々被失面目候、併年来御芳志之儀候間、隔□□永々旅行之可為御疲居候間、急度御本走可被成候、別候物は御無用ニて候、餅之御馳走可然候、猶追而、恐々謹言、
(天正13年頃?)
壬 八月四日 東筑
氏永(花押)
岩屋孫二郎殿
御報
この「孫次郎」を「能登守」と同一人物であるとする向きもありますが、「子ニ候孫次郎」という一節から別人と考えるべきでしょう。
対して文禄5年から慶長4年迄の間迄、岩屋家の当主は孫太郎という人物であったことが確実です。孫太郎と孫二郎は同一人物かどうかは議論が分かれる所です。もしかしたら別人かもしれません。 また、系図によっては朝繁と孫太郎は同一人物であるというものもありますが…。
年未詳ですが、恐らく天正17年~19年の間のものと推察される大宝寺義勝の文書に下記のものがあります。
態染筆候、仍民部少輔他界之由は、周章無極候、因之為音信、渋谷太郎左衛門尉召遣之候、恐々謹言、
二月廿六日 義勝(花押)
岩屋能登守殿
民部少輔という人物がどういう人物かはわかりませんが、弔問の使者が発せられる程…すなわち身内…である事から、民部少輔は朝盛の子か兄弟などの近親者であろうと推察します。私は子ではないかと推察します。
更に天正20年7月2日付の西野道俊の文書では、岩屋朝盛の子である「孫太郎」が無事に上洛した事などが記されているそうです。ん??。朝盛の嫡男は「孫二郎」だったよな。孫二郎、どこ行った???。もしかしたら上洛ってことは代替時の挨拶か???。
これから推察されることは
①民部少輔と孫二郎が同一人物で、天正19年に亡くなり、孫太郎に代替わりした。
②民部少輔が天正19年に亡くなり、孫太郎(孫二郎と同一人物)に代替わりした。
のどちらかでしょう。民部少輔が能登守朝盛の後の家督を継いだかどうかという問題はありますが…。
私は岩屋朝盛が天正13(1586)年頃には「御老父」と呼ばれる程の年…いくら若くても45歳くらいでしょうな…であった事からして
よって、孫二郎と民部少輔は同一人物であり、父の朝盛に先立って死去したものではないかと私は思います。 更に「孫太郎」名は慶長3年に消え「右兵衛」名が登場したのは慶長5年10月ですが、私は孫太郎と右兵衛朝繁が同一人物であろうと考えます。岩屋氏が豊臣政権下、木材運上をしている折、岩屋家の家臣に佐々木小右衛門という人物が登場いたします。彼は諱を「繁広」としており、この「繁」は「朝繁」より偏諱を拝領している事が推察されます。この時の岩屋家当主は「孫太郎」を名乗っており、孫太郎は「朝繁」という名が諱である事が考えられるわけです。よって、孫太郎と右兵衛は同一人物というわけです。
よって朝盛と朝繁の関係で考えられることとしては
①朝繁は朝盛の次男以降の子であり、本来、朝盛の跡継ぎは「孫二郎」であった。天正18か19年に孫二郎が亡くなり、孫太郎(右兵衛)朝繁が家督を継いだ。
という事です。朝繁は天正20(1592)年には元服しており、正保3(1646)に亡くなったそうですので、おそらく70歳オーバーの高齢で亡くなったのでしょうね。家督的には、朝盛―孫次郎(民部少輔、朝盛の子)―朝繁(孫次郎の弟)と続いたのでは…と考えるわけです。
岩屋氏の家臣で名前がわかっているのは、慶長2、3年に木材運上の奉行として佐々木小右衛門繁広、伊藤久内という人物ですね。
岩屋朝繁は慶長5年より活発な活動を開始いたしますが、滝沢又五郎とトラブルを起こした様です。
卯月廿九日之御状一昨廿二日ニ於勢州桑名拝見申候、然者酒田表へ御働被成候由尤ニ存候、被入御精故早速相語、近頃御手柄共申候、随而滝沢又五郎貴殿之代官所茂上殿頼入御訴訟被申候とて、御迷惑之由蒙仰候、尤無御余儀候、我等も勢州桑名へ用共御座候而罷在事候間様子一切不存候、本佐州出羽殿へも相尋ニ人を進候間、定而何とそ可申来候様子、追而従是可申入候、恐〃謹言
(慶長六年) 本多中務
五月廿四日 忠勝(花押)
岩屋右兵様(朝繁)
御報
この後、関ヶ原の戦いの後、どういう訳か岩屋氏は最上氏の配下となり、引き続き領主として岩屋に住み続ける事になりました。本佐州…本多正信と出羽殿…最上義光の暗躍が見えますな。この頃、岩屋氏の一族に岩屋門丞、岩屋源内左衛門らが居ました。
岩屋朝繁の領地は慶長17年の最上氏の検地により、慶長7年頃は須山村、岩滑村、小羽広村、麓村、川口村、軽井沢村、桝川村、河内村、足淵村、町村、鹿爪村、午荒村、払川村、羽広村、石野坂村で、954石余りでした。
屋敷の数も144間、家数157、非常にミニマムな領土です。…これ、あくまで貢租高です。因みに仁賀保氏だと6,618石、屋敷数1,573間、屋敷数1,799です。如何に小さかったか解りますね。
ですが、岩屋氏は本城豊前らと共に結構、最上配下として重要視されていたきらいがあります。この後、最上氏は改易されますが、岩屋朝繁も最上氏が改易の折、一緒に改易になりました。岩屋氏は秋田実季を頼り常陸に赴きますが、後に子孫は秋田に赴き佐竹氏に仕えたそうです。