Ⅴ仁賀保200俵家・仁賀保7,000石家


 200俵家でありますが、当該家は2,000石、1,000石家と違い、後になって成立した家であり、仁賀保両家とはあまり接点がなかった様です。

 その理由は成立過程にあるかと思います。その成立の過程は伝承も伝わらず不明だったのですが、『諸家系譜』により、7,000石家の蔵人晴誠(良俊)の跡を継ぐ形で成立したことがわかります。仁賀保両家と蔵人は仲が悪かったため、その祭祀を続けるのは積極的ではなかったでしょう。

 『諸家系譜』で諮詢される7,000石家の跡を継ぐ形も『寛政重修諸家譜』では消されるなど、何か妙な点もあります。ここいらキナ臭い点が見えます。

 まずは普遍的に見るために7,000石家から見ていきたいと思います。


7,000石家初代 晴誠(良俊)

 仁賀保7,000石の主、仁賀保蔵人でありますが、実は諱が確定されておりません。官職名は文書などから蔵人兵庫などと称したのは確認できますが。 仁賀保両家の系図などに見える良俊という名も、仁賀保家の通字である「」を使っていないなど、妙であります。

 そもそも「良俊」という名は先述した通り「勝俊」の子であるところからきた『奥羽永慶軍記』の創作でありますが、何故それを採用したのか…であります。特に『寛永諸家系図伝』が編纂された当時、弟である誠政らは存命中であったわけでありますし。

 私の推測にすぎませんが、仁賀保両家は仁賀保蔵人の諱は本来別の名であると知っていてワザと「良俊」名を採用したのかなと考えます。つまり通字の入っていない名を採用することに、仁賀保蔵人の系統の正統性を無くそうとしたのでは?と考えます。

 対して仁賀保200俵家に伝えられた「晴誠」と言う名は通字の「誠」が入っており、こちらの方がすっきりするのかなと考えたりします。

 が、確証もないので、ここでは仁賀保蔵人で進めていきます。

 仁賀保蔵人は、寛永8年閏10月8日に39歳で亡くなりました。その事績は光誠没後の仁賀保誠政・仁賀保誠次に対する分地の事案、佐竹家との交流などが知られていますが、前述のとおりです。

 当然、領地は没収されております。


200俵家初代 誠

 仁賀保誠親は1,000石家初代の仁賀保誠次3男で、通称を半弥といいました。寛永20(1643)年生で、寛文2(1662)年に館林藩主の徳川綱吉に仕えました。江戸神田屋敷に出仕していた様です。この時の身分は正確には判りませんが、200俵を与えられて、恐らく舘林藩士であったのでしょう。この時、仁賀保家のうち絶家となっていた仁賀保蔵人家の祭祀を受け継ぐ形で分家したようです。

 綱吉は何故かはわかりませんが、仁賀保家を気に入ったようで、誠親の外にも松平治郎兵衛に 仁賀保姓を名乗る様にさせてみたりしています。

 誠親の事績は館林藩の中の事であり不明ですが、寛文7(1667)年4月21日に25歳で没しました。


200俵家2代 誠昌

 通称 半三郎求馬といいます。万治3(1660)年生まれです。実は井上利長の3男であり、先代の誠親の母方の従弟になります。…母同士が兄弟ですね…。誠昌が25歳で亡くなり後継ぎがいないため、養子となりました。末期養子なのでしょうか?。

 彼は綱吉の子の徳松付きであり、延宝8(1680)年に御家人に列します。この時100俵取りとして幕臣になったと考えられます。

 天和3(1683)年、徳松が亡くなると小普請組に入り、恐らく元禄2(1689)年に旗本となり、その直後、大番組に移り、更に100俵加えられ、合計200俵となりました。

 宝永7(1710)年に職を辞し、宝永8(1711)年11月16日に60歳で亡くなりました。法名宗元で、青山玉窓寺に葬られました。


200俵家3代 誠道

 誠道でありますが、旗本長谷川重賢の子で、初代誠親の甥…兄の子…にあたります。長谷川重賢は仁賀保誠次の子で、長谷川家の養子に行ったので、血筋としては誠道は1000石家初代の誠次の孫、家系図上は曾孫にあたります。

 彼は享保8(1723)年12月26日に跡を継ぎ、翌享保9(1724)年10月9日、大番に入りました。寛延3(1750)年12月3日致仕し、宝暦2(1752)年12月23日に72歳で亡くなりました法名で、青山玉窓寺に葬られました。


200俵家4代 誠章

 誠章でありますが、彼も養子惣領になります。先代誠道の兄、旗本長谷川重好の娘が服部保正に嫁した事が縁で、服部保正の弟を養子に貰ったものです。

 寛延3(1750)年12月3日に家督を相続し、宝暦2(1752)年6月9日、大番に入りました。安永元(1772)年5月23日、老いたことを理由に致仕し、翌2(1773)年10月11日に73歳で亡くなりました。法名義英で、青山玉窓寺に葬られました。彼は職を辞した時、黄金2枚拝領したそうです。


200俵家5代 誠房

 誠房でありますが、彼は先代の実子になります。幼名を半弥、官職名を蔵人名乗りました

 宝暦8(1758)年7月1日に徳川家重に初めて謁見し、安永2(1773)年12月27日に家督を相続、翌3(1774)年2月28日大番に入りました。天明(1781)年11月8日、再び大番になります。

 寛政3(1791)年10月24日、致仕し、寛政10(1798)年9月7日に63歳で亡くなりました。法名大道で、青山玉窓寺に葬られました。妻は石川観阿弥直春の娘だそうです。


200俵家6代 誠一

 誠一も先代の実子になります。幼名を半三郎、官職名を主税と名乗りました。

 天明8(1788)年9月15日に徳川家斉に初めて謁見し、寛政10(1798)年12月4日に38歳で家督を継ぎました。弟の誠正は祖父江家に養子に行っております。

 『寛政重修諸家譜』の記載はここまでですが、他の資料でその動向がちらちらと見えます。

 享和元(1801)年12月1日 、屋敷を拝領したようです。

 文化8(1811)亡くなりました。


200俵家7代 

 諱は判りません。名を三郎兵衛と名乗りました。

 文化8(1811)11月7日、父の跡を継いで小普請に入り、天保元(1830)年3月19日、願って隠居いたしました。

 文政3年11月4日、平三郎と名乗っていたらしい彼は相当数の旗本たちと共に屋敷替えに逢っています。

 文政11年10月6日、『東京市史稿』市街篇 36巻748ページによると、30人位の旗本達と共に再び屋敷替えがあった様です。


200俵家8代 某

 諱は判りません。名を潤三郎と名乗りました。

 天保元(1830)年3月19日、父の隠居により家督を相続し、父の跡を継いで小普請に入りました。同年12月25日、大番組に入りました。

 弘化2(1845)年に亡くなりました。


200俵家9代 某

 諱は判りません。名を権平と名乗りました。彼は養子惣領でした。

 弘化2(1845)年12月27日、父の死により家督を相続し、小普請に入りました。弘化4(1847)年2月5日、大番組に入りました。

 安政5(1858)年11月11日、『東京市史稿』市街篇 45巻598ページによると、30人位の旗本達と共に屋敷替えがあった様です。

 安政6(1859)年に亡くなりました。


200俵家9代 某

 諱は判りません。名を太郎と名乗りました。

 弘化2(1845)年12月27日、父の死により家督を相続し、小普請に入りました。弘化4(1847)年2月5日、大番組に入りました。

 文久2(1862)年閏8月12日軍艦奉行の配下となり、元治元(1864)年4月29日、講武所に配属となりました。

 

以上までは追えます。

 家は連綿と続いたようです。ま、仁賀保とは関係なくなっていますが。







 


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