16.仁賀保氏のその後

Ⅰ、仁賀保家のその後

 仁賀保光誠の死後、その遺領は遺言により兄弟3人で分割する事になりました。家督は年長の蔵人…俗に良俊と言われる人物…が継ぎましたが、彼は余り評判芳しからぬ人物だったようです。仁賀保光誠は良俊の器量に疑問を抱いていたものと推察されます。彼は元和2年と9年の2回に渡って遺言状を造り、兄弟3人で分割する事を遺言しています。

 果たせるかな仁賀保光誠の死後、良俊は父の遺言を無視し仁賀保領全部を横領せんとしました。次男誠政と3男誠次の兄弟を屋敷より追い出し、更に父の光誠が後見役として3男の誠次につけた家臣の成田茂助を刺客にて殺しました。対して誠政・誠次は兄の良俊の不法を柳生但馬に訴え出ます。通常であれば家を取り潰しされてもおかしく無いような御家騒動ですが、結果的には幕府の裁定により遺言通り仁賀保家は3分割される事になりました。

 長男の良俊領は現在のにかほ市象潟地区・金浦地区・小出地区の大半・平沢地区の一部で7000石、次男の誠政は平沢・院内・小出地区の一部で2000石、3男の誠次は平沢・院内地区の一部で1000石と分けられました。良俊はそのまま象潟の塩越城を本拠地とし、誠政と誠次は平沢の平沢館に陣屋を築きました。…元々あった中世城館を利用したと思われますが。…

 3分割されて7,000石の身になった仁賀保良俊ですが、彼は仁賀保藩の藩主として大名扱いだった様です。『梅津政景日記』によれば、江戸と仁賀保両方から佐竹義宣に対して使者を出しています。という事は参勤交代を行っていた訳です。

 寛永3年4月8日、家督を継いだばかりの仁賀保良俊は初めて佐竹義宣邸を訪れました。家督相続の挨拶でしょう。佐竹義宣はこれを供応し4月19日には佐竹義宣は先日の来訪の返礼に仁賀保良俊邸を訪れています。

 さて、仁賀保氏と打越氏は江戸時代も30年が過ぎたこの時期になっても、由利衆として交流があった様です。恐らく本家・分家的な付き合いであり、もしかしたら血縁的にも近い関係だったのかも知れません。仁賀保良俊打越左近は寛永7年7月1日に2人で佐竹義宣邸を訪れています。この時までに仁賀保良俊は官職名を「蔵人」から「兵庫」に変えています。恐らく仁賀保家の家督を相続、我こそは仁賀保家の嫡流との意識の現れでしょう。

 仁賀保良俊は寛永8年の7月9日にも、仁賀保郷から秋田の佐竹義宣に対して使者を遣わしています。これは義宣の弟の葦名義勝が没した事について梅津政景に追悼の使者を遣わしたものです。使者の名前は杉村六兵衛といい、佐竹義宣は仁賀保良俊に対して直に礼状を遣わしました。使者には「御帷子」3つの内1つを与えました。梅津政景が直に渡したそうです。良俊はこれに対して葦名義勝の香典として銀子3枚(贈答用の銀1枚は43匁有ったそうです。銀子3枚で26万円程度でしょうか。大盤振る舞い!)送りましたが、梅津政景はそれを香典返しとしてすぐに返し、その旨を佐竹義宣に伝えました。佐竹義宣は仁賀保良俊の使者の宿舎の料金を負担し、本荘迄送らせたそうです。

 その仁賀保良俊は寛永8年に嗣子無くして死亡、仁賀保7,000石家はここで無嗣断絶となりました。打越氏も同じく寛永11年に無嗣断絶となりました。中世を通して出羽由利郡に領土を持っていた由利衆は仁賀保氏の庶流2家を残すのみで全て由利郡より退伝してしまったのでした。

 さて、元由利衆で慶長7年に最上義光の配下となり、最上家改易と共に浪人となった者達は、元和9年に仁賀保光誠が仁賀保郷に復帰すると、暫くは仁賀保光誠の下で養われていたようです。

 関ヶ原の戦の後、石見に流罪になった小野寺義道は、異国の地で遠い故郷に思いを馳せて居ます。仁賀保光誠死後の仁賀保を「仁賀保相果候其あとをハたれ人のとられ候や」と仁賀保光誠領の行く末を案じ、「玉舞・滝沢又五郎なとハ何と成候哉」と彼等の身の上を案じています。互いに敵対し戦いあった仲ではありますが、それも今は昔の物語、小野寺義道もその書状の中で出羽の事を「返々なつかしく存候」と懐かしんでいます。