Ⅱ永禄年中の争い
③履沢左兵衛の謀反
この項目は『矢島十二頭記』(A)本にはありません。(B)本のみのものです。
向矢島に秋田からの浪人で履沢左兵衛殿という人物が居り、根井氏が目をかけ小城を築き居住させていた。矢島五郎殿も履沢には先祖から情を懸けていたのだが、履沢は滝沢刑部と矢島を横領しようと計略を練っていた。
これを五郎が聞きつけ不届きに思い、配下の大瓦別当普賢坊に履沢左兵衛を討つ様にと命令した。
永禄元年12月29日の夜、大瓦別当普賢坊は同じく家来の佐藤筑前の所に集まり、翌朝未明に履沢の城へ攻め込んだ。履沢左兵衛は良く戦いったが傷を負い自害した。履沢家臣の柴田四郎は大力の猛者で、激闘の末逃亡したが佐藤筑前が追いかけて討ち取り城を焼いた。褒美として五郎殿から筑前には左兵衛の持つ山を給り、普賢坊には田地1町給った。これは子孫が今だに所持している。
これの履沢…沓沢氏と同じでしょう…氏は良くわからない人物です。(A)本にも沓沢氏として十二頭の1人に数えられていますが(A)本にその事跡はありません。(B)本によって事跡が分かります。(B)本の筆者は矢島の住民の先祖由来として、この話を聞いた物なのでしょう。
④玉米氏と仙北山田氏との戦い
玉米領主の小笠原信濃守義満殿には跡継ぎがなかったので、仙北の山田五郎殿の3男の小介を婿養子にしたが、その後信州殿に男子が生まれた。義満は実子を優遇した為、小介殿との仲は険悪になり(義満殿は小介を幽閉し)、信州殿は須郷田村に隠居して平城を構えて移り住んだ。しかし永禄2年12月下旬、信州殿の家老杉山宗右衛門が謀反を起こして、幽閉されていた小介殿を山田へ逃がした。
翌3年5月10日、山田五郎殿は大軍で玉米を攻め、杉山宗右衛門の手引きで玉米に攻め込み信州殿を討ち取った。郎党の八島右馬之助、(中略)孫之弥十郎も討死した。この時、信濃守殿の嫡子介之進殿と弟2人は配下と逃走したが、山田軍が追いつき介之進殿を捕虜にして山田連れて行った。弟2人は下村蔵人方へ逃げた。
捕虜になった介之進殿であるが、家来の八島・小松が計略で山田より取戻し、永禄6年秋に養田館を築き、介之進殿を当主に据えた。彼は改名して彌三郎義次殿と名乗った。
永禄7年1月15日夜、山田五郎殿は養田館に攻め込んだ。養田館が落城寸前になった時、在郷侍の鳥井坂太夫、(中略)長谷山但馬らが方々より参集し、敵陣の後より攻めかかり鵯限専介殿という貝吹を小野筑後が討ち取った。山田軍は戦意を失い早々に軍を引いた。専介の貝は玉米が取り、その後西馬音内より和睦交渉がなされた。
これも(B)本のみの記述です。まあ、『矢島十二頭記』(B)本の作者は、相当各地の人から聞いたりしている様なので、これもその中から出てきた話なんでしょう。山田五郎は小野寺氏の一族で現在の湯沢市に勢力を持っていた様です。同じく小野寺一族の西馬音内が和平の仲介をする事は…あるでしょうなあ。何れにしろ、誰かがいつの時代かに、この話を挿入したんでしょう。