Ⅴ矢島・仁賀保の戦い③


⑫馬場四郎兵衛と熊谷次郎兵衛

 続いて矢島氏の滅亡の話になります。まずは『矢島十二頭記』(A)本です。

  天正14年2月中旬、仁賀保領冬師の馬場四郎兵衛親子3人が矢島領谷地沢山で大きな村杉の杉を伐採したのを見つけられた。早速、谷地沢の熊谷次郎兵衛が押しかけて次男を討ち取った。馬場四郎兵衛は仁賀保兵庫頭殿の家来で、仁賀保殿は矢島殿に「山に逃げた熊谷を処罰して頂きたい。」と使者を遣わし申されたが、矢島殿は「木の盗人であったので討ち取ったまで」としか返事されなかった。双方4月中旬迄数度使者を交わされたが話にならず、5月20日仁賀保殿と矢島殿はブナの木もふち迄出陣し戦かわれた。しかし赤尾津殿が仁賀保の後詰されたので矢島殿が軍を引かれた。

 次は(B)本です。仁賀保兵庫頭が家督を継いだ挨拶をした直後の話として、次につながっていきます。

 こちらからも御礼として使者を遣わそうとしていたところ、兵庫頭殿が先祖より冬至山の目先に付け置いた豊島四郎兵衛の3男が矢島領の大村杉の杉木を盗み取った。これを五郎殿の家来である熊谷次郎左衛門が見つけて追いかけ首を取った。五郎殿はブナの木もふちへ獄門に架けるように言われたが、家臣達は「昨今御和睦され、上も下も共に満足している。(戦が無くなって)安堵している所にこんなことをしては、また戦争になる。考え直してほしい」と異議を唱えた。しかし五郎殿はこれを無視し、ブナの木もふちに獄門にかけた。

  そうしている内に兵庫頭殿が赤尾津殿・子吉殿・滝沢殿に加勢を頼み、ブナの木もふちから割石に陣を敷き、兵庫頭殿自身が大軍で攻め寄せた。双方陣を堅め対峙して居る時、仁賀保の陣より武者が一騎1町程進み、扇を出して矢島の陣を招く。五郎殿が「何事か聞いて参れ」と言うと、佐藤越前が参出して近くに寄り斎藤源八であることを確認した。「五郎殿は和平を破り、ワガママし放題は言語に絶する。よって大軍を率いて矢島を退治しようと考えられた。ただし五郎殿の配下共は降参するのであれば、命を助け所領は加増してやろう。」と言ってきた。

  越前はこれを聞て「兵庫頭殿の言われる事か。貴様一人の考えか。可笑しいことを言う。」と言い、一騎打ちを始め、これが戦の開始の合図となり、双方えいやぁえいやぁと攻めよる。五郎殿、樫の棒を持って大軍の中に突っ込まれた。敵はたまりかねて檜渡川・向坂まで押し戻す。

 暫し休戦した時、仁賀保の禅林寺、矢島高建寺の僧が来て鮎川筑前殿、潟保双記殿、岩谷内記殿、打越左近殿らが和睦の仲介に入られた。「由利中が騒がしいのは仁賀保と矢島の戦が原因である。それに本来小笠原一族で、戦うことなど無いはずだ。」と和睦されるように言われた。両寺の仲介であったが、五郎殿は納得しなかった。しかし家臣たちが様々と和睦を促し、和睦が成立した。


 この項では仁賀保家が仁賀保兵庫への代替わりをし、一時和睦の後、再び敵対するという流れが説かれています。

(A)本では「馬場四郎兵衛親子3人」(B)本では「豊島四郎兵衛の3男」がムラスギを無断で伐採して盗み、(A)本では「熊谷次郎兵衛」(B)本では「熊谷次郎左衛門」が見つけて、(A)本では「次男」の(B)本では「3男」を討ち取ったとされています。

 ここで出てくる馬場四郎兵衛ですが豊島四郎兵衛と同一人物と考えられます。「馬場村の」豊島四郎兵衛なのでしょう。豊島という姓は現在の由利本荘市鳥海地方に多い姓ですが仁賀保には少ないです。『永慶軍記』などには秋田の豊島館の豊島氏が安東氏に攻められて妻の実家の仁賀保氏を頼ったという話がありますが、もしかしたらその子孫でしょうかね?。

このトラブルは(A)本では天正14年、(B)本では天正15年に起きたことになっています。ここで(B)本の特徴が出ています。とにかく満安は家臣の言う事を聞かず、短絡的に行動するとしたいようです。また、ドラマチックにしたい感じがしますかな。

⑬仁賀保兵庫頭の矢島攻め、矢島満安の仁賀保攻め

   天正14年8月3日、矢島殿は仁賀保の根城に攻め込んだ。城の水の手を忍にて落としたが、その後仁賀保殿は非常に用心深くなられた。よって日中に攻撃したが、山のため足場が悪く矢島殿が負けられて陣を引かれた。討死は5、6人あった。

  同年9月20日に矢島殿へ最上殿より使者が参られた。使者は「五郎殿は人に秀で、長太刀による武名は有名である。太閤様に申し上げると、『来年上洛する際に同道すれば面会しても良い』と言われた。来年一緒に上洛しよう。」という。ホントかどうかわからないので、中々返事をしなかった。

   同15年3月中旬、矢島殿は滝沢殿を攻め城の三の塀迄落としたが、(仁賀保殿が)ブナの木もふち迄出陣してきたと熊谷二郎兵衛より注進があったので、松の台より直にブナの木もふち迄進軍して散々に戦われた。(ここに記述が抜けていると思われる)更に鮎川殿が矢島の後詰として参戦したので、矢島殿勢は勝ちに乗って追撃し首数20あまり取った。更に堂迄攻め寄せ、矢島殿が十死一生の働きをされて八幡堂より木の目坂まで討取った。首50取る。五郎殿先に怪我をされた。矢島勢は7人怪我人があった。

   同6月中旬頃、潟保殿・鮎川殿が和睦の仲介人となり仁賀保殿と矢島殿は和睦なられた。仁賀保殿より祝いの使者として赤石與兵衛殿が参られた。矢島殿よりは芥川(小介川)摂津殿が御礼ご挨拶の使者として使わされた。双方又々懇意になられた。

続いて(B)本です。

 天正17年7月20日、兵庫殿が大軍を率いて矢越八幡堂に陣取り、五郎殿の居城に攻め込もうと支度をしていた。これを阻止すべく21日の早朝、五郎殿は八幡に攻め込まれた。仁賀保殿の軍馬どもは残らず口が大きく腫れ膨れ轡もはめず、敵陣に一歩も進めなかった。兵庫殿は「これは不吉なり。」と直ちに陣を引いて仁賀保に帰られた。五郎殿は木の目坂迄追いつき、4、5五人討ちとった。馬の口が腫れたのは何故かと調べたところ、八幡は小笠原大膳大夫義久が信州より初て下り、今の所に八幡大菩薩・諏訪大明神の信州の両社を奉建して、天下安全国家長久を祈祷怠らず、太田霞主式部卿を神主として5人の社人、8人の巫女が毎月神楽を奉納する。その節の神楽の竈を仁賀保勢の馬の飼料入れとして、馬に食べさせた為、神霊の祟りにあったものと申しあわれた。

 天正18年、五郎殿は仁賀保に攻め込み乾坤一擲の戦を仕掛けると家臣に伝え、8月3日、兵庫殿の居城である根城に攻め込んだ。その時風雨が強く、水之手を切り取らんとしたが用心が厳しく、水の手を切り取ることが出来なかった。城は目の下に見える。軍兵共が根城に取り付き山苔長く、一騎討の切りあい場所としては難しく、兎や角やする内に斥候が五郎殿へ申し上るには「団子坂、鞍懸坂より子吉・赤尾津の軍が加勢に登ってきた。この大軍に前後を囲まれれば1人も生きて帰ることは出来ない。早々に軍を引くべきだ。」と。五郎殿は全くいう事を聞かなかったが、これを散々宥めながら車引に引取られたが、子吉・赤尾津と仁賀保軍は竃ヶ淵で撤退する矢島勢に追いついた。

 根之井右兵衛は先に陣を引き払い矢島に帰るべく人馬を休ませていたが、子吉・赤尾津勢が追いついたのを見て馬を引き返し敵陣に切り込んだ。根之井の郎党(中略)、土田新助が主を討たせまいと、馬の口を立並べて土門・菊地の軍に遮二無二切り込み2町程敵を押し返して静々と引いた。其内に仁賀保軍は大軍で割石の当たりで追いつき、矢島軍も引き返して戦ったが、五郎殿の近習で附添っていた金丸帯刀は防戦して討ち死にした。五郎殿は樫の棒にて散々に四方八面に討ち回ったが、馬をブナの木もちへ乗込んでしまい徒歩武者となって敵を切って回った。敵は大勢であったが寄り付かず、敵陣より鉄砲と弓を雨のごとく降らせる。

 しかし五郎殿は少も引く気はなく、危なく思った相庭市右衛門、(中略)茂木左馬らが方々から走集り敵を蹴散らした。五郎殿に向い「戦働きも、武辺者の行動も時によりけり。早々に引き取られたい。」と申し上げたが、少しも引く気はなく谷地に落ちた八升栗毛を脇に抱え10間ほど抱き上げた。その後馬上で敵陣に攻め込まれた。民部が馬の口を取って引き返したが、(五郎は)民部の兜を離せとばかりに打ち据えた。しかし皆で前後より押し包える様に松ヶ臺まで引き返した。矢島は金丸帯刀など32人討死。仁賀保勢は88人討死。

(A)本(B)本では記事が前後している場合がありますが、この箇所も同様です。

まず(A)本では矢島満安から見て

仁賀保攻め→滝沢攻め→後詰の仁賀保と戦う→仁賀保に攻められる→潟保・鮎川が仲立ちして和睦。…とういう流れですが、

(B)本では、

(前項)鮎川・潟保・岩屋・打越の仲立ちによる和睦→仁賀保に攻められる→仁賀保攻め

という流れになっています。…(B)本では前項の和睦から唐突に仁賀保と戦になっています。そもそも天正18年は豊臣秀吉の小田原攻めですね。秀吉は天正17年末に北条氏政討伐の陣触れを出しており、仁賀保氏らは遅くても4~5月には小田原に参陣していると思われます。(B)本は記事の内容は結構真を得てるかと思いますが、年月日は…ちょいと怪しいですな。

 天正15年3月の矢島と仁賀保の戦いの項ですが、途中で文章が欠けているようです。「松の台より直にブナの木もふちまで出て戦い」という仁賀保と矢島の境目の地名…それに続くのが矢島の「堂(八幡堂)から木の目坂」という矢島と思われる地名です。これは、仁賀保が矢島に攻め込まなければ、こういう地名になりませんので、考え方としては(B)本を参考に考えれば

イ) 矢島氏が滝沢氏を攻めている最中に仁賀保氏が矢島に攻め込もうとした。矢島氏はそれを知り引き返しブナの木もふちで仁賀保氏と激闘。ここは痛み分け。

ロ) 仁賀保氏は矢島に攻め込んだ。仁賀保氏は八幡堂に本陣を引き本隊を矢島氏の城に向けるが、鮎川氏の後詰に敗れ、八幡堂から木の目坂に逃げるが大敗した。

と、解釈すべきなのだと考えます。

 この戦の後ですが、(A)本は暫くの間、矢島と仁賀保は戦いますが、(B)本では由利郡の諸氏と寺の僧侶の仲介で和睦します。この諸氏の仲介の和睦は、(A)本は天正15年6月、(B)本でも同時期です。…どうも(B)本はこの天正15年6月に和睦の記事を合わせる為、無理くり記事を前後しているような感じがします。なので、天正15年に和睦が成立した次の項では天正17、18年と矢島と仁賀保が攻め合いをしている記事になります。

 対して(A)本では矢島仁賀保の潰しあいに厭戦気分が高まっての和睦という、非常に筋の通ったものになっていますね。

 さて、ちょいと注意が必要なのは、(A)本では天正14年9月20日に、最上義光が矢島満安に使者を送ってきたという記事がある事です。

続きます。

⑭矢島領の境改め

(A)本です。

  天正15年12月20日、仁賀保殿より使者として芹田伊予守殿が遣わされた。使者は「五郎殿の御息女御藤殿を兵庫頭殿御嫡男の蔵人殿と御縁組される事を望む」と言われた。五郎殿はその場でこの話を了承された。家臣の者共は「古和州殿を矢島にて討ち取った事もあり、心の底からの和睦ではないだろう。もう少し考えてから回答されてもいいのに」と囁いた。

  天正16年正月20日、仁賀保殿より年頭の挨拶のために小松殿が使者として来た。一両日大雪で矢島に御逗留された時、五郎殿と小松殿が面会し話されるには「仁賀保と矢島の境は近頃適当になって解らなくなっている。雪が消えたら昔の通り老人・百姓共が境を改めたいと願っている。」と言われた。仁賀保殿の申し出に「当方にても同じ悩みだ」と小松殿へ言われた。

 4月1日に双方より役人・百姓共が出て境を決定する事にした。矢島殿よりは金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛・古人百姓が大勢でた。仁賀保殿よりは芹田伊予殿・赤石與兵衛殿・宮陛平三郎殿・手島四郎兵衛殿その外大勢が出た。この日、蛇口・不動沢・段ヶ森・鬼之倉・石すのふ・桑谷地頭・桑坂・はなれ森・前森・笹長根・ブナの木もふち・大谷地頭・大森迄、昔の通り踏分け、厥大場にある大石を双方より人夫を出して南へ動かし、溝を割り「割り石」と名を付て昔通り境界を定めた。

  同年(□月)下旬、鮎川殿より仰せられるには「百姓共がトヤカクいい、上まで良くないままだ。昔の通り境を改めたい。」と矢島殿に直接言われたので、矢島殿より金丸帯刀・大江主計・熊谷次郎兵衛・在郷侍の杉江・佐々木対馬・同彌五郎殿、外古人共が出、鮎川殿よりは木下弾正殿・高橋蔵人殿その外古人共が出て逢い、大谷地頭・石森・土淵・取ヶ石迄昔の通り改め、取上石に石を重ねおいた。

 まず、仁賀保兵庫が自分の息子の嫁に満安の娘を…と使者を出してきたシーンです。和睦の印に婚姻を…というのはポピュラーな方法で、疑う余地はありません。これは(A)本のみの記事です。続いて矢島と仁賀保、矢島と鮎川の境改めの記事になります。これも(B)本にはありません。(A)本の作者が矢島方の人間であることが見て取れます。

 しかしながら、仁賀保蔵人良俊は文禄2体(1593)年の生まれであります。天正16年に御藤と縁組できるわけがありません。おそらく、この蔵人は良俊の事ではなく、良俊の兄にあたる人物かと思われます。


⑮矢島満安の子吉攻め2

(B)本です。

   天正19年5月中旬、子吉兵部殿が鮎川筑前殿へ内々に相談した。「仁賀保殿と矢島殿と度々合戦して気の毒である。先だって和睦されたがその甲斐もない。仁賀保殿は滝沢殿・打越殿・岩屋殿・赤尾津殿と親戚で加勢するものが多い。両家は小笠原一家であり最上義光公の御意もある。とにかく和睦して、兵庫殿(矢島五郎の間違いか?)に□□□に従われるように。」と和睦を取はかられた。

 これを聞いた五郎殿は激怒し、「敵が強いから降参するとは武士ではない。兵庫頭はややもすれば矢島領を横領しようとする。是非に及ばない。」と返事をした。

 子吉殿へは「右のお礼に今年中に滅ぼしてやる」と御返事された。家中老臣共「戦う必要はない」と異議を唱えたが、6月上旬に大軍を引き連れ子吉殿居城へ押し寄せた。兵庫頭殿が後詰された為、空しく帰ることになった。その時兵庫頭殿は狂歌を詠んで道心に持たせて送ってきた。

  矢島殿朝の姿は百合の花 今子吉の公をむくる哉

返し狂歌

  仁賀保殿手を翳したる子吉原 矢島の風に露や落けり


(B)本の子吉攻めの記事ですが、(A)本では天正10年5月の事としています。(A)本では子吉氏を攻めようとしたが、「仁賀保氏が後詰に出た為帰った」と簡単に記しています。最上義光の介入などはないわけです。そもそも天正19年5月は九戸政実の乱の真っただ中で、こんなことしているヒマはありません。

(B)本は何らかの思惑があり、由利十二頭は最上義光配下であり、矢島満安は文禄年間に滅亡した。としたいようです。当然、ボロが出まくりですが。

 ついでにいうと、矢島五郎と仁賀保兵庫頭をライバルにしたい様ですなあ。

続きます。

⑮矢島満安の上洛

(A)本です。

  天正16年7月、最上殿より矢島殿へ又々手紙が来た。「太閤様へ御目見なられれば、由利の大将にしてもらえる」と書かれており、「畏れ入る」と御返事をされた。最上殿が(矢島殿を)数度召し出だそうとしている事を仁賀保殿が聞き、矢島殿へ意見を申された。「最上へ登られる必要はない。帰られなくなるぞ。」と。

   8月1日、矢島殿は最上殿へ使者を遣わし「来年、太閤様へ御目見させて頂く事承知した。太閤様へ使者を出して申し上げよう」と仰せられた。(最上義光の)添状を添えた使者が上洛すると、太閤様は「予てから最上より話を聞いている。来年最上と共に上洛すれば会ってやろう。」と言われたそうで、それを聞くと是非に上洛したくなった。

   同10月5日に矢島殿は御礼の為最上へ向かわれた。御供の侍は手島・(中略)半田この外雑兵百余人、御城の留守居には御舎弟太郎殿・小介川摂津・喜兵衛・掃部・雑兵とも百余人であった。 

次は(B)本です。 

  天正19年5月下旬、最上義光公より矢島五郎殿へ飛脚が遣わされた。「五郎殿の事は、古今無双の勇力と太閤様の耳にも入ってあり、面会してもよいと仰せられている。来年、一緒に上洛して御目見された方がよい。」といわれた。五郎殿は合点が行かず「病気」と言われた。

  また同6月中旬に鎧馬らが来られ「是非に最上まで来てもらいたい。来年は上洛して由利郡の大将となろう。」と伝えられたが、どんな計略であろうかと家中共に信用しなかったので「病気」であると仰せられた。

  天正19年10月中、義光公より使者がきて、「太閤様の御書に矢島五郎は大力だと聞き及ばれ、御重實に思われている。来年、義光公と共に上洛すれば、御判を五郎が貰う事は疑いない事であろう。」と言われ、家中共に大喜びした。義光公への返事には「おっつけ最上へ上り御礼したい。」と最上へ向かう事を了承した。

   同11月5日、留守居に舎弟與兵衛殿、(中略)池田左京、この18人に頼み、そのほか都合150人を召し連れて最上へ登った。首尾良く義光公に面会し、食事として大きな鮭を丸ごと塩焼きにして出されたが、頭や尾ごと残さず五郎殿は食べられた。(さらに義光より)「見せてほしい」と言われ、4尺8寸の太刀を3つ指で抜き出した所、褒美を頂いた。義光公は「今年はこのまま逗留され、来年、上洛して一緒に太閤様に面会に行こう。」と言われた。

 矢島満安の元に最上義光からの使者が来たことから話は急展開します。

(A)本では天正14年9月20日と天正16年7月に最上義光から使者が来たことが記されています。これが(B)本になると天正19年5月、10月に使者が来た事になっています。

 最上義光は天正14年5月に横手の小野寺義道と有屋峠で戦っています。引き分けと言われていますが、もし、この一戦が無ければ最上義光の庄内奪取はもっとスピーディーにいったでしょうし、湯沢・横手盆地への侵攻も出来ていたかもしれません。戦略的には敗北かも知れません。矢島満安への最上義光の接触は、由利衆に対する楔と小野寺勢を切り崩す一石二鳥作戦です。

 対して、最初に矢島満安が承知しなかったのは、未だ最上義光が庄内を手にできずにいた事、小野寺義道が乾坤一擲の勝負をかけて新庄盆地に攻め込めば、一気に最上義光が不利になる事、などがあった為でしょう。現実はそうはならず、天正16年には小野寺氏も含めて矢島氏は不利な状況に追い詰められ、逆転をかけて最上義光の誘いに乗らざるを得なかったわけですね。

 (B)本でいう、天正19年5月10月は先ほども言いましたが九戸合戦の真っただ中で、由利衆は九戸に居ますので、この時期の戦いはあり得ません。も一つ言うと、由利衆は基本、最上義光とは関係が薄かった様です。最上義光「公」や最上義光の「御意」などという言葉は使いません。最上義光が仁賀保兵庫頭に出した文書の中に「上意」と書かれ、これを根拠に最上傘下だとされることもありますが、これは豊臣秀吉への「上意」ですね。

 ま、年号は未定として、10月5日ないし11月に矢島から最上に満安は向かったのでしょう。両本とも「最上義光」にお礼を言う為だとしています。

続きます。

⑯矢島の反乱  

 (A)本です。

 最上へ首尾よく到着した頃、留守居の太郎殿へ仁賀保殿より使者が来た。使者の口上には「五郎殿が最上へ行かれた事は非常に不届きな事である。由利中の大将と申し合わせて貴殿を攻め滅ぼして五郎殿を矢島へ2度と入れない事にした。命が惜しければ矢島五郎殿が城に帰ってこない様に工夫されたい。」と言われた。

  10月25日、(太郎殿)は謀反を起こして五郎殿の御子息四郎殿を討ち殺された。五郎殿の奥方と御藤殿は小介川殿が盗み取って西馬音内へ逃がした。嘉兵衛・掃部・佐藤らは謀反衆である。この謀反が西馬音内より最上へ伝わると、(矢島満安は)11月3日神代山より直に新庄城へ攻め込むと仰せられた。

 まずは配下の金子・安部を猿倉平七に使者として遣わし案内を頼んだ。すると平七は「4、5日逗留し在郷侍らを集め、11月8日頃、新庄城に切り込むと城中皆々逃げるだろうから、暫くはひかえられるように」と言われ、平七宅に暫くひかえられた。

 11月8日、新庄城へ攻め込むと城中は皆々逃げた。五郎殿と嘉兵衛は長廊下にて組合して討ち取り、太郎殿は討死された。太郎殿の子息2人を五郎殿は自ら切殺し轟目木に獄門に上げ、仁賀保殿へ恨みの手紙を出したが返事が来なかった為、その日より仁賀保へ攻め込む支度を開始した。

 しかし仁賀保軍は前杉へ攻め寄せ、五郎殿は八森へ出陣して夜戦された。仁賀保殿の軍奉行・案内の者・民部が討死し、仁賀保殿は散々負けて討ち死にする人が出た。やっと仁賀保殿は車引まで引くことが出来た。

続いて(B)本です。

 (矢島五郎が最上義光に)歓待された上にゆるゆると逗留されていた所、兵庫殿・子吉殿・赤尾津殿・滝沢殿・打越殿ら由利の大将達は相談していた。

 「五郎殿が義光公に謁見した上に、首尾良く来年上洛して太閤様に拝謁すれば、(矢島五郎は)由利郡の大将になることであろう。我々は領土を失い浪人となる。その上にどんな目にあわされるか。この上は五郎殿の留守居である與兵衛殿を討って、五郎殿を矢島へ入れ無い様にしよう。」と兵庫殿が仰せられた。

  しかし岩谷内記殿が言われるには「そんなことをすれば義光公はそのままにはしてはおくまい。五郎殿は義光公を後立にして由利中を退治して回るだろう。」

  赤尾津殿が言われるには「留守居の與兵衛殿を謀り、矢島家中を分裂させて兄弟で戦わせればよい。そして時節を待てば五郎殿を討つ計策も出てくるだろう。」と。諸将はこの意見を良しとし、兵庫殿は家来の成田惣左衛門を根井右兵衛方に遣わした。

  使者曰く「五郎殿は身内を身内と思わず、家臣共の諫めも聞かず、毎年戦を仕掛けては百姓共も困窮し、由利郡も騒がしい状態である。この上は五郎殿が矢島に戻れない様に謀られたい。もし五郎が帰ってくれば他の由利11頭と共に矢島を滅ぼす。もし、帰らせなければ矢島領は與兵衛殿のもので、12頭の中に入れ、来年は12頭共に義光公の所に赴こう。出来なければ他の由利11頭と共に與兵衛殿を滅ぼす。」と根の井右兵衛方に申し遣わし、右兵衛がこれを與兵衛殿に申し入れた。

  兼々五郎殿は計略が荒く、家臣の諫めも聞かず、戦好きで家中も困窮している事を考え、留守居の侍共は仁賀保からの使者に同意すべく話し合ったが、摂州様はどうしても同意しなかった。與兵衛は五郎殿の御男子2人を手討ちにされた。

 五郎殿の奥様は西馬音内殿の娘で五郎との間に御鶴殿いう娘もいた。2人は城の1室に監禁されていたが、摂州はこれを悔しく思い、奥様とお鶴殿を夜間に盗み取り西馬音内に逃亡した。

  西馬音内より事の次第を知った五郎殿は、義光公へ暇乞もせず西馬音内にも寄らず、神代山を駆け抜けて、直に新庄館に攻め込もうと言われた。しかし神代山は防御され矢島の事情を調べると、與兵衛殿は五郎殿が帰ってきたら、即座に討ち取ってしまおうと厳しく用心して居ることが分かった。配下の者達は五郎殿に、「ちょっと付近に陣を張り、ゆとりを持って計略をめぐらしてから攻めた方がいい。」と進言した。それより猿倉平七は日頃から信用が置ける者であるので、この者の処へ参ろうと仰せられた。若手だか練達した金子・安部を平七の元に遣わすと、平七は喜び家をしつらい、安部と共に迎えに参上し歓待した。

 それから與兵衛殿の様子を探り、味方の者を募り、12月18日の大雪の日に新庄城へ攻め込むと、城中は油断しきっていた。取るものも取らず豊島右馬之丞、小番掃部、相庭市右衛門、佐藤、杉本は逃げた。小番嘉兵衛と五郎殿は組合になられ、嘉兵衛も大力で暫し組み合ったが、嘉兵衛が振りきって逃げ、これを五郎殿が追いかけて討ったが、刀の動きが鈍く肩先に少々傷を負って逃げた。與兵衛殿は奮迅したが五郎殿は掻い摘んで散々に刺殺し、與兵衛の子息が2人を切り殺して、とゝめ木と言う所に獄門にかけた。

 両本ともですが、矢島満安一行が最上につく頃を見計らって、

(A)本では仁賀保から矢島太郎へ、(B)本では仁賀保その他連合の代表として、留守居の補佐役の根々井氏へ使者を出しました。

(A)本では10月25日、(B)本では不明ですが、太郎(與兵衛)が謀反を起こし満安の子供を殺します。

(A)本では子息の四郎、(B)本では2人子供が居たとされています。

 矢島家中の小介川摂津が奥方と御藤(御鶴)を西馬音内に逃がすというのも一緒ですね。

 矢島満安は最上から帰ると、猿倉平七の屋敷にて軍勢を建て直し、

(A)本では11月8日に、(B)本では12月18日に新庄城に攻め込み、謀叛衆を制圧しました。

 この後、(A)本では仁賀保の軍が帰還した矢島満安を討つべく出陣しますが、矢島満安の夜討にコテンパンに負けることが記載されています。これが(B)本にはない項目です。

 (B)本では矢島満安の滅亡を他の由利衆全てによる総攻撃での滅亡に仕立てたかったのでしょう。ですので満安の新庄城制圧後、すぐに由利衆全員での総攻撃があったことにしています。

続きます。

⑰矢島満安の滅亡

(A)本です。

 仁賀保殿は赤尾津殿・打越殿・潟保殿・瀧澤殿・石澤殿に「五郎殿が来年太閤様へ御目見したら、由利は五郎殿の領土になってしまう。とにかく五郎殿は今年中に皆で討ち取るべし。」と仰せられた。

  11月下旬に右の大将衆が新庄城に攻め寄せ、五郎殿は敗北し城は落城した。自身は怪我をし、西馬音内へ落ち延びられた。

  其の時五郎殿の御歌に

  津雲出矢島の澤を詠むれば 木在杉澤佐世の中山

  右の歌読まれ落ち延びられた。

 それより右の大将衆は支度をして西馬音内に攻め込んだ。(西馬音内にて)戦った結果、終に五郎殿は12月28日討ち死にされた。(更に仁賀保兵庫頭らは)西馬音内茂道と戦ったが、小野寺殿より和睦の使者が来て彼らは引き返した。

 仁賀保殿は矢島八森城の城番に菊池長右衛門・酒井(境)縫殿之助・藤原勘之助をさし下した。(仁賀保殿は)矢島にて年を越し、法度を定め、百姓共には五郎殿の時代の様に勤めるように仰せつけられた。

 1月20日に仁賀保殿は帰られた。其時御藤殿も仁賀保へ連れていった。 天正16年12月28日より(矢島は)仁賀保兵庫頭殿の領土になった。

続いて(B)本です。

  文録元年7月25日、由利11頭は相談の上、矢島五郎殿を兎に角討ち滅ぼそうとされた。8月に上洛の噂を聞いては、たとえ義光公より攻めるなと言われても申し開きをするし、申し開きが立たなければ、11頭は由利に立てこもり義光公と戦う事とした。

  11頭の者共が矢島を攻めると聞いた五郎殿の家臣共は五郎殿に意見を申し上げる。「(由利十一頭が総攻撃してくるとなれば)、家中に謀反が起き3分の1は侍が減り11頭に勝つのが難しくなる。早く最上へ登り上洛した方が良い」と。しかし(満安は)「サラサラその必要はない」といい荒倉城へ立て籠もり、攻め寄せる大軍を待ち受ける事になった。

 この荒倉館というのは、西は大手で高くそびえ、南は小川が切り込み鳥も通り難く、北は朽沢といい更に沢が深く、後は東の方の山が連なる。堀を切って柵を回し、館の中の郭が広く、屈強の地形で急には落ちがたい要害である。

   西大手には兵庫頭殿が大将として控え、打越殿・赤尾津殿・岩屋殿・滝沢殿は向に陣取る。山の手には下村殿・玉米殿・子吉殿・潟保殿・石沢殿・鮎川殿が向かわれた。

 7月27日は四方より総攻撃と諸将が軍議を図っていた所、26日の夜に(矢島五郎の配下の者共が)謀叛を起こして一族で逃げ、(矢島軍は)20騎ほどに兵は減ってしまった。しかし五郎殿はそれでも怯むことはなく、27日の朝、八升栗毛に乗って城に攻め上ってきた攻撃軍を例の棒で叩き落としながら戦われると、大手口の軍は陣を引き、山の手の軍は足場が悪く城に取り付く事も出来ず、其日は攻めよらなかった。

  同日の12時頃、(攻撃軍が)大手口より攻め上り柳井戸まで落とす。大石を積み置き上から転がして落として、敵が狼狽する所に五郎殿が突撃し、棒でひた打ちに討って崖から追い落とし人雪崩を作った為、(攻撃軍は)本陣に陣を引いた。

   大江三右衛門が五郎殿に向かって申し上るには「城に残る者も怪我が酷く疲れている。このままでは大軍で総攻撃されると切腹する以外にない。それよりは今、雪の中、西馬音内に逃げるべきだ」と散々諫言した。奥様・お鶴様を柴田・半田が預かり山中に逃げた。五郎殿は赤尾津殿が控えられている山の手に切り登られる。従う者共は大江三右衛門、(中略)三浦、この八人。闇夜で敵も味方も見えず、篝火を焚けば敵の大軍はシドロモドロになって、四方より取囲む。五郎殿は徒歩で棒を四方八方打ちまわる。さんざん五郎殿は敵を駆け抜けて山の手に登った時、大江三右衛門1人しか付き従う者はなかった。その他の者共は深手を負い、あるいは散り散りになり、28日の夜ようやく西馬音内に参集した。奥様も28日の夜、着かれた。お鶴様は敵陣に捕えられた。

  この年より矢島は仁賀保殿の領土に成り、八森城は菊池長右衛門殿を城番にした。五郎殿の家来共は皆々矢島を去って西馬音内の近辺に移り住んで五郎殿に近侍した。

   同年12月28日、西馬音内で五郎殿切腹。由利11頭より小野寺遠江守に掛け合い、小野寺から西馬音内殿に件の命令が下り切腹されたらしい。

矢島満安の滅亡の場面です。

(A)本では天正16年11月下旬に仁賀保・赤尾津(小介川)氏・打越氏・潟保氏・滝沢氏・石沢氏が矢島満安の新庄城を攻め、満安は怪我をして西馬音内に落ち延び、追撃してきた由利衆と戦い討ち死にした。

(B)本では文禄元年7月25日に由利衆全てが矢島満安の籠る荒倉館を攻め、7月27日荒倉館落城、雪の中(!!)に紛れて逃げ7月28日に西馬音内に辿りつく。矢島の家臣は西馬音内に移り住み仕え、12月28日、切腹して死亡。

・・・え???。7月の戦いなのに?!。大江三右衛門が満安に脱出を進言した言葉の中に「今中西馬音内へ先々御落被成候様」と出てきます。…矢島満安の矢島退去は11~12月の話なのに、7月に改竄したんでしょうなあ。

(B)本は事跡はともかく、日時はちょいと信用するわけにはいきませんなあ。