…もしかしたら三田正山寺の開基の位牌(上写真)と共に刻まれている「宋泉院殿仁挙羪和大姉」という方が彼女なのかも知れません。
次に仁賀保光誠の妻として記録に残るのが田村掃部の娘です。没年齢は解りませんが、
1.光誠没後40年強長生きし、寛文7(1667)年に亡くなっている事、
2.慶長6(1601)年に誠政が生まれている事
3.仁賀保家と後北条氏との関わり合いは天正18(1590)年の小田原攻め以後である事
から鑑みると、彼女は若くても天正5~7年前後の生まれで、90歳前後で亡くなったと考えられます。戒名は「常徳院心窓貞明大姉」と伝えられます。
私は北条氏直の家臣に田村掃部を見つけれないでいたので、北条家家臣というのは眉唾かな?と考えておりましたが、光誠の長女の嫁ぎ先が旗本本田正次(慶長10年、1605生)、次女が鹿嶋惣大行事の鹿嶋胤光でして、両名とも元北条氏の家臣で千葉氏傍流国分氏の出身です。千葉・国分両氏とも北条氏直の家臣である事から鑑みれば、田村掃部なる人物、国分氏の流れを汲む人物でしょうか?。このほかにも側室などはもっといたでしょうなあ。
Ⅲ.仁賀保光誠の子
長男とされる蔵人は文禄2(1593)年生れ、次男の誠政は慶長6(1601)年、3男の誠次は慶長13(1608)年の生まれです。長女・次女の年齢は解りませんが、両者とも常陸生まれであるとされていますので、慶長7年以降の生まれであり、誠政と誠次の間か誠次の妹になると思います。
仁賀保光誠が伏見御番として上方へ登る時、光誠自身は55歳、蔵人は23歳、誠政は15歳、誠次は8歳でした。末子?、蔵人母の2番目の子??である主馬は早くから独立、若しくは家臣筋の仁賀保氏を相続していて、他家の人となっていました。
光誠の長男…嫡子…とされる蔵人の実名は、系図上「良俊」若しくは「晴誠」とされています。 多くの場合は「良俊」とする系図が多いようですな。ですが、実際は官職名である「蔵人」は確認できるのですが、「良俊」とされる名については確証が取れません。この名の初見は『奥羽永慶軍記』です。同本では仁賀保光誠は「勝俊」、そして蔵人が「良俊」となっております。…当然、良俊の名は勝俊の子だから…という事で創られたものでしょう。さらにいうと、仁賀保光誠に『奥羽永慶軍記』がつけた「勝俊」という名も、その兄の名が「赤尾津道俊」であるという所からつけられた名であると考えられます。『奥羽永慶軍記』の大きな勘違いは、「道俊」という名は法名で、諱ではありません。すなわち、仁賀保氏における「~俊」の名は『奥羽永慶軍記』の創作であると考えられます。
対して「晴誠」と言う名ですが、『系図纂要』「諸家系譜」に出てきます。出典的には「良俊」名より新しいのですが、これはどうやら仁賀保200俵家に伝わった名前の様です。「諸家系譜」を見る限り、仁賀保200俵家は仁賀保蔵人の家を継ぐ形で成立したことが分かります。その200俵家に伝わる名前ですので、もしかしたら…と考えれますな。
光誠の次男誠政と3男の誠次、長女・次女は後妻…もしくは側室…の子である田村掃部の娘との子だと考えられます。仁賀保蔵人は側室の子である誠政・誠次の兄弟と仲が悪かった様です。彼らの行く末を案じた仁賀保光誠により、(史料45)(史料46)にある如く、元服前の次男3男に分知の遺言状を残しております。
…しかしなんで2通、遺言状を認めたんでしょうね?。しかも片っ方は全部2男・3男にくれるという内容で、片方は1,000石のみ2男・3男にくれるという内容です。(史料41)の通りであれば蔵人は領土が無くなってしまいます。思うに、この時蔵人は23歳です。もしかしたら光誠が持つ領土の他に蔵人は別に領土を保持していたものでしょうか。…つーか、その可能性が高いですね。
も一つの可能性とすれば、あまりにも蔵人がアホなので、蔵人が救いようがなければ、2男・3男に全部、救いようがあれば3分轄とする気だったのでしょうか。…さてさて。
なお、仁賀保光誠にはもう一人子供が居た様です。慶長5年10月~翌4月と推察される(史料38)中では「御様子委此御地に奉待上候、追々以忰…」と倅が一端の武将として働いている事が見えます。一端の武将として働くという事は、この倅が15歳程度にはなっていたと考えられます。蔵人はこの時点で8歳、全然あてになりません。
これから考えると、蔵人の上にもう一人子供が居て、早い内に没した…か、他家に養子に行ったか…と考える方が妥当という物でしょう。仁賀保光誠の「忰」は天正13(1585)年よりは前の生まれと考えられます。それから推察すると天正5~7生まれと考えられる田村掃部の娘が彼の母である可能性は相当薄いと思います。蔵人母が仁賀保光誠の「忰」を生むためには、彼女の生まれが永禄末~元亀の辺りの生まれでないと厳しいと思います。
これが当初の蔵人母が永禄年間末の生まれであろうと推察した根拠です。良俊も同様ですね。蔵人母と田村掃部娘が同一人物だとして、永禄13(1570)年生まれだと仮定すれば文禄2(1593)年に彼を生むのは可能でしょうが、100歳前後の超長寿で亡くなられたことになります。あり得ない事ではないのでしょうが、無理がありますね。蔵人母は「忰」と蔵人を、田村掃部娘は誠政・誠次・長女・次女を生んだと考えた方がすっきりします。
蔵人は次男ですね。仁賀保光誠の長男「忰」は早い内に没したのでしょうなあ。
ということを前提として、4男と目される仁賀保主馬であります。彼の存在がわかる資料は非常に少ない現状ですが、管見で想像を膨らませて考えるに「倅」の子、光誠の孫か…と考える次第です。他の子供たちと違う扱いを受け、光誠存命時より別家を立てる理由はそれしかないのかな。と思う次第です。