09.仁賀保光誠…その5  豊臣政権下

Ⅵ、豊臣政権下での由利衆の動向

 天正19年初頭、かねてより南部信直に対して叛意を持っていた九戸政実が遂に叛旗を翻しました。南部信直は自力で九戸政実を討つ事が出来ず豊臣秀吉に出兵を願い出ます。秀吉は6月20日に奥州再仕置軍の派遣を決定、豊臣秀次を大将とした2万騎余りの大軍は怒濤の勢いで九戸政実の九戸城に迫りました。

 8月になると由利衆にも最上義光より秀吉より出兵命令が下った事が伝えられました。仁賀保光誠ら由利衆は鹿角口から攻め込んだようです。仁賀保光誠の九戸政実の乱での活躍は『奥羽永慶軍記』に詳しいですが、確証に乏しいので割愛いたします。

 ただ出陣したことは間違いなく、九戸城を包囲する軍の一助を担っていたようです。九戸政実の乱は9月初めには終息、仁賀保光誠は一時帰国いたします。

 翌文録元年になり秀吉は朝鮮出兵を開始、文録の役が始まります。1月5日に諸大名を肥前名護屋に集めて秀吉は朝鮮出兵の軍議を行いました。当然出羽の諸将も肥前名護屋に参陣していますが、どういう訳か仁賀保光誠と岩屋朝盛はこれに遅れて参陣したようです。ま、『太閤記』という資料を信用するか否かという面もありますが。

(史料13)

  名護屋留守在陣之衆

     関東衆

江戸大納言家康卿 (中略) 秋田太郎 六郷衆 小介川治部少輔 小野寺孫十郎 滝沢又五郎 内越宮内少輔 (中略) 由利衆四人

                    『太閤記』


(史料14)

から入御しんはつ みちゆきしたい

            (中略)

くわんとう衆

大なこんいゑやす (中略) 秋田太郎 (中略) 六こう衆 てわのこすけかわぢぶせう てわのおのてらまこ十郎 てわにかぼ兵ご たきさわ又五郎 うてゑつくなひせう (中略) 由利衆四人

                  『大かうさまくんきのうち』


(史料15)

一 三百人           羽柴出羽侍従

(中略)

一 五千人  大谷刑部少輔一手 羽柴越後宰相

(中略)

一 百卅四人 木村ひたち一手  秋田 太郎

一 百人   加賀宰相一手   南部大膳大夫

一 廿五人  加賀宰相一手   本堂伊勢守

一 拾人   会津少将一手   大崎左衛門尉

一 八拾八人 大谷刑部少輔一手 油利五人衆

 合三萬七千百人 

右條々、委曲加賀宰相、会津少将両人ニ被仰含候、 令相談無越度様ニ可申付候也

  文録二年三月十日     (秀吉朱印)


 (史料15)中の「油利五人衆」という一文から考えるに、仁賀保光誠と岩屋朝盛は文録2年の初頭には肥前名護屋に居たものと考えられます。(史料15)中の「油利五人衆」とは仁賀保・赤尾津・滝沢・打越・岩屋の5氏、(史料13、14)中の「ゆり衆四人」とは玉米・下村・石沢・潟保の四氏の事でしょうな。この「ゆり衆四人」はいずれも文禄4年に秀吉に潰されたという話が伝わっており、文禄末から慶長初に掛けての時期に由利衆の再編成が行われたと考えられます。尚、根井氏はそれより早く仁賀保氏の被官化してしまったのでしょう。

 この由利衆の再編に関して言うと、打越氏・根井氏宛の秀吉の知行宛行状を仁賀保光誠が保管していました。本来、知行宛行状とは武士の最も重要な物で、他家に渡す事は考えられません。まして、打越氏も根井氏も子孫が居るわけですので。両氏の知行宛行状を仁賀保氏が持っていたという事は、両氏が仁賀保氏の傘下に入っていたという事に他ならないと思います。

 話題がそれましたが、この時、彼らは羽柴越後宰相(上杉景勝)と共に大谷吉継の一手となっております。これも上杉氏と仁賀保氏等との関係が伺われますね。 

 仁賀保光誠等由利衆は大谷吉継の一手として(史料15)にある如く朝鮮の牧使城を取り巻く者として渡海する様に命ぜられました。尤も、由利衆等が渡海する以前に牧使城が落城した為それは取り止めとなり、その代りとしてか、由利衆は越後・房州の諸候と共に同年5月4日に「おこし炭」の軍役を課せられています。

 この後、朝鮮の役は実質的に休戦状態に入り諸候は続々と帰途につきました。由利衆も冬までには帰国したでしょう。仁賀保光誠等は豊臣政権下ではこれ以後軍を率いて動くことはありませんでした。仁賀保氏等北奥羽の諸候の主な役目は木材運上に変わっていったのです。