Ⅰ矢島氏の由来と由利十二頭の事


 『矢島十二頭記』に(覚書風A)本と(軍記物風B)本があるのは前述したとおりですが、更に特徴的なのは、(A)本(B)本とも視点が違うという事です。例えば(A)本は矢島氏からみた、(B)本(A)本をベースに仁賀保氏の記載を多く…といった次第です 。

 まず、特徴的なのは(B)本の冒頭です。なお、完訳ではないので又引きは危険ですよ。

①由利氏・鳥海氏の興亡について

 正中元(1324)年3月23日、仁賀保の鳥海彌三郎殿が由利の中八郎殿を攻めた。同24日に中八郎殿の城が落城し切腹したので、同2年より由利郡は全て鳥海彌三郎殿の領土になった。中八郎殿に子孫は居ない。

 建武4(1337)年、鳥海彌三郎殿の子供が出家したまま家督を継いだ。名前を常満利師様と申された。家老に進藤長門守・渡辺隼人が居たが、謀反を起こして利師様を攻め滅ぼした。観応元(1350)年4月9日が利師様の御命日である。それから由利は全て長門守・隼人の両名が支配した。この頃、国中は何かと騒がしかった。

 康安元(1361)年3月31日より4月中旬頃まで進藤と渡辺は仲違いをして戦った。長門守は仁賀保西小出の待居館に、渡辺隼人は伊勢居地の栗山館に籠り、度々戦ったが決着が付かなかった。

 貞治2(1363)年5月21日、長門守・隼人両者ともに討死した。その後は由利郡に主がなく、由利中の百姓たちが村々に分かれて戦い、非常に物騒な状態であった。

 右の6カ条は古い書物に見当たる事で、そのまま書き記しておいた。

だそうです。

 「右之六ヶ條ハ古き書物にて見當候」としていますが、古い書物…今は見当たりませんなあ。非常に面白いのは「正中」「建武4「観応」「康安」「貞治」と、北朝年号であることです。江戸時代の資料であれば南朝年号を使うでしょうし、仁賀保に残されている石碑なども「建武四年」を使用していることからして、「古き書物」を参考にしたのは本当でしょう。

 また、文書などの史料にも由利氏が居て、観応の擾乱期にも由利氏の子孫がいるのもわかっていますので、ある程度真実を伝えているのではないかな。と考えます。ま、この他、鳥海氏の事は口伝や野史に伝わる程度で、史料は皆無ですし、まして進藤渡辺のことは解りません。

 ただ、2代目が僧体で家督を継ぎ名前を「常満律師」という事…など、なんか真実味があることや、当時の仁賀保が北朝方の年号を使っている事…庄内は南朝ですな…、南北朝の激しい戦があったように推察されます。

 ですので一笑に付すことのできない記述として考えています。

 これは(B)本のみに出ている記述です。矢島に関係ないので(A)本には出てきません。

 続いて、矢島氏の由来に項目は続きます。

②由利十二頭の出自について

 まず『矢島十二頭記』(A)本です。

 矢島殿の先祖は信濃国の木曽義仲公の旗下で、木曽義仲が没落した後、応仁元(1467)年3月中に信濃国より矢島へ下られ住まわれた。初代を義光公、その御嫡男を光久公といい、更にその御嫡男を光安公と申された。

 本来の姓は小笠原氏であり大井という姓を名乗られた。三代目の光安公は大井大膳太夫殿とも矢島五郎殿とも申された。

 出羽国由利郡には大将が12人おり、矢島殿・仁賀保殿・赤尾津殿・潟保殿・打越殿・下村殿・玉米殿・石沢殿・滝沢殿・沓沢殿・子吉殿・鮎川殿と申された。この内、仁賀保殿は大きな勢力を持っており、これも小笠原家一族である。矢島殿と親戚でもある。また矢島殿は鮎川殿とも御縁類であった。

 仁賀保殿の先祖が信濃國より初て御下りなられた時、大和守殿と称された。御嫡男も後に大和守を称した。これがいわゆる小和州殿である。

解説致します。

 『矢島十二頭記』(A)本の特徴は矢島氏の視点から描かれている事です。恐らく矢島氏の遺臣などが、生駒高俊が矢島に入部したおりに矢島郷の歴史を紐解いた物がベースなのではないかなと私は考えます。ですので仁賀保郷やその他の地区の記事は出てきません。

 冒頭に「矢島殿御先祖は信濃國木曽義仲公の籏下之由」と書き出されているわけですが、これは「矢島=矢嶋行忠の子孫だろうなー」という、当時の解釈からきているのでしょうなあ。矢嶋行忠って木曽義仲の有名な家臣ですな。当然、矢嶋行忠は滋野氏であり清和源氏である小笠原氏とは関係ないのですが、そこは伝承ですのでゴッチャになっています。

 ま、もしかしたら矢島行忠の家を大井氏が養子となり乗っ取った可能性もあるでしょうかね。

 矢島氏は(1467)年に移住した事になっているわけですが、「元徳3(1331)年」の記載を持つ碑文に津雲出郷の大旦那として、矢島氏と根々井氏の先祖らしき「源正光」と「滋野行家」の名前の記載がある史料もあり、実際はもっと前から住んで居たのだろうなあと思います。(B)本では「應安2(1369)年より應仁元(1467)年の間」に移住したとしています。

   また、矢島氏の累代の名が出ています。義光光久光安の3代ですが、応仁元年からカウントして矢島氏が滅びるまで130年弱です。3代だと皆さん50歳過ぎに子供を作った計算になり、なんか不自然です。因みに(B)では、義久義満満安と続いたとされます。野史等では、やっぱり不自然だと考えたのか、(A)(B)の系図を合せて、義久―光久―義満―満安としているものもあります。

 私は先般の史料から考えても、矢島氏は実際はもっと代数が続いていたのではないかなーと思っています。

 仁賀保氏累代に関して、『矢島十二頭記』(A)は初代を大和守、2代目を大和守、通称は小和州だと伝えています。これは矢島氏…矢島氏の遺臣たちが知っているのはこれまで…ということなのでしょう。対して恐らく仁賀保氏寄りの『矢島十二頭記』(B)本では初代から4代目までが大和守、4代目が小和州となっています。

 また、12頭の数え方も色々です。『矢島十二頭記』()の特徴は沓沢氏です。他の氏族は「~郷」の領主で郷名が名になっているのですが…。沓沢氏の事跡は()に詳しく載っており、矢島から見た12頭記であれば、成程、沓沢氏はカウントされるだろうなあという気がします。

 次に『矢島十二頭記』(B)本です。(B)本でも、其々の由利十二頭の由来を説きます。

 由利十二頭は応仁元年に鎌倉より来られた方々である。

 仁賀保殿が大将であるが、信濃から来たという証拠も沢山ある。それは矢島五郎の先祖の義久が信州より来たという事である。その時家臣も付いてきた。彼らは応安元年から応仁元年までの100年間に移住したと伝えられる。

 根之井氏が浪人して矢島に来た時、領主が居らず無秩序になっている様子を見て、信州より木曽義仲公の末裔である小笠原大膳大夫義久を連れてきて矢島の地頭にしたという。この時、根井は矢島の1/3を自領として義久に仕え矢島に居住した。…と、老人たちは言っている。

 この後、矢島氏は義久・義満の代にも根井を大切にしてきたが、満安の代になると「元々根井は木曽氏の家臣筋であるので、1/3も知行はいらないだろう」と領地を取り上げ、根井舘より米之澤へ領地替えし、僅かに百宅・米之澤・上猿倉3ヶ所だけの領地とするのみになってしまった。五郎の代には命令に従って軍場へも出ていた。矢島ではこの様に伝えてきた。


 この項も(A)にはない項目です。矢島の伝承を記録したとしています。矢島氏と根々井氏が矢島郷の領主として居たのは事実です。ただ、根々井氏が矢島氏を連れて戻ってきたっていうのはどーですかねぇ?。根々井氏が地頭代で、地頭の矢島氏が後に本拠地を信州から移してきた…っていう解釈なら成り立ちますか…。ま、ここでは矢島満安の強欲さ…戦国大名化と言ってもいいか…が見えますね。

 この項の特色は仁賀保氏には敬称として「殿」が付きますが、矢島氏には敬称がないことです。仁賀保目線なのがよくわかります。

 ついでにいうと、この項の取材先は根々井氏ではないでしょうか。根々井五郎右衛門尉は矢島滅亡後、仁賀保家の傘下に入っていた様ですし。


続きます。


さて十二頭とは

仁賀保殿 小笠原大和守殿、仁賀保領主。この和州殿の幼名は次郎殿といい、次郎殿迄3代和州殿と呼ばれた。

同嫡男 次郎殿 やはり大和守を称し小和州殿と呼ばれる。天正5年8月19日家臣の謀反で切腹した。子供は居ない。

同宮内少輔殿 次郎のあと家を継いだが天正11年7月6日、家臣の謀反にて切腹した。

同八郎殿 子吉氏より婿養子に入り仁賀保家を継いだ。天正14年10月15日切腹した。家臣の謀反か。

兵庫頭 赤尾津殿よりの養子で仁賀保兵庫頭と名乗った。慶長8年、常陸武田に転封、元和9年10月に再び仁賀保1万石を宛がわれ、打越左近殿・六郷兵庫頭殿・岩城但馬守殿らと共に由利郡に入られた。兵庫頭殿は象潟塩越に居城された。寛永2年、御子息嫡男の蔵人殿へ7千石、内膳殿に2千石、内記殿に千石分知成された。同8年蔵人殿は逝去され養子も悶着し7千石家は取り潰された。

矢島殿 小笠原大膳大夫義久殿。信州より初めて来られた。この時代十二頭は戦ってなかった。伝聞もない。

同嫡男太郎殿  後に大膳大夫義満殿。この時代も戦の事は伝え聞かない。

(同)嫡男矢島五郎殿 後に大膳大夫満安殿という。義満殿の嫡男で大力で身長が6尺9寸、へそから胸まで熊の様に毛が逆さに生え、大刀は4尺8寸の大刀を3つの指で掴んで使った。食事は米3升ずつ1度に食べ4、5日間食べない。乗馬は八升栗毛といい、陣貝を聞くや否や前足を上げて大豆を八升ずつ食べる。文録元年7月25日、居城が落城して西馬音内へ逃げ同12月28日に切腹した。矢島は仁賀保兵庫頭の領土になった。男子は無く、娘のお鶴殿は兵庫頭殿の捕虜になり、弟である仁賀保蔵人殿の妻になった。法名は妙月大姉、矢之本の元弘寺宅にて死。

赤尾津殿 孫次郎殿。老いてからは道益殿と呼ばれた。今の亀田・松ヶ崎あたりを赤尾津という。何代続いたかは不明である。

滝沢殿 滝沢刑部殿といい何代続いたかは不明。しかし由利中八郎殿の子孫であることは確かであり、鳥海山に鉢を奉納したことが知られている。最上義光殿の配下の楯岡豊前殿の家来となり由利5万8千石の内、4万8千石は豊前殿、1万石は滝沢殿が治められたが、元和8年最上殿が改易になった時、豊前殿も滝沢も潰れた。

子吉殿 次郎殿、後兵部殿といい、何代続いたかはわからない。地元の者も詳しくは知らない。

打越殿 孫四郎、後宮内少輔殿。今の亀田領打越にて2千石知行されて、その後関東へ国替、又元和9年に千石加増されて矢島へ来られた。寛永11年逝去され、子が無いため取り潰しになった。

石沢殿 作左衛門殿といい何代続いたかはわからない。文録4年に潰れた。この時、作左衛門殿、潟保殿、下村韶六殿が太閤様より潰された。

岩谷殿 忠兵衛、内記殿という。何代続いたかはわからない。知行所は亀田領の岩谷・打越の当たりである。

潟保殿 祖兵衛殿とも叟記ともいう。何代続いたかは不明。

鮎川殿 筑前殿という。幼名は瀬兵衛殿という。矢島五郎殿の親戚と伝えられる。何代続いたかは不明。鮎川の代わりに羽根川殿を十二頭に入れるものも居るが、鮎川殿が妥当だという証拠もある。家臣筋も未だに大勢いる。

下村殿 小笠原蔵人殿。幼名は韶六殿ともいう。

玉米殿 小笠原信濃守殿。幼名は介兵衛殿という。

この12人を十二頭という。


 この項は俗に由利十二頭と言われる者達を詳細に記しています。が、その前の矢島氏の由来の項と矢島氏の略歴がダブっているのが分かります。元々は矢島氏の由来のみでしたが、(B)の作者…1人とは限りません…が、既にあった『矢島十二頭記』に十二頭其々の略歴を更に書き加えた為にそうなったのでしょう。()では沓沢氏の代わりに潟保氏が12頭に入ります。

 系図で言うと多少の名の違いはありますが、矢島氏の系図はA)踏襲であり、矢島五郎と言う人物は怪異な格好の猛将であるという描写が追加されています。

 仁賀保氏の系図は非常に詳しいと思います。他の氏の系図も、滝沢、岩屋など、江戸時代初期の人物の名を天正年間の領主として使用したり、?という名もあったりしています。 …ただ、世代が違えど、文書にその名が有ったりし、全くの作り物の名前ではありません。筆者が良く取材しているという感じです。