05.仁賀保光誠(挙誠)…その1


Ⅰ、仁賀保挙誠の名前について

 仁賀保挙誠(きよしげ、たかのぶ)の家督相続は普通次のように伝わっています。「仁賀保氏六代目の挙晴が天正14(1586)年末に討死(切腹?)して仁賀保氏の嫡流が絶えた為、仁賀保が一族赤尾津氏より天正15年に養子を貰い受け仁賀保兵庫頭と称させた。」と。

 この説の最も早いものは「矢島十二頭記」です。それを脚色して軍記にしたものが『奥羽永慶軍記』中に「由利諸党の事」として収められている一連の由利衆の話になります。『寛政重修諸家譜』『仁賀保家系図』も大体これにそって仁賀保兵庫頭の家督相続を天正15年、実名を「挙誠」としています。

 ただ、実名については『奥羽永慶軍記』などの軍記物では「勝俊(勝利)」としています。

 また、「挙誠」という名を『寛政重修諸家譜』は「たかのぶ」と読み、『仁賀保家系図』はこれを「きよしげ」と読んでいます。これらの資料を元にして世間一般では仁賀保兵庫頭の実名は「挙誠(たかのぶ)」、家督相続は天正15年であるとされています。 

ゴチャゴチャしているので纏めて見ます。仁賀保兵庫の名前は次の3通りが伝わっています。

① 挙誠(たかのぶ)『寛政重修諸家譜』など。

② 挙誠(きよしげ)『仁賀保家文書所収系図』

③ 勝俊・勝利(かつとし)『奥羽永慶軍記』など

 しかし次の2つの文書を見て頂きたいと思います。

(史料5)

今度大坂為御番被登候付而申置候事候、一五千石之内千石者淀吉免ニ相定申候、但シ所者近郷之内にて請取可被申候、此外五百石之所吉川にて弟内記かたへ申付候、未之後者御両人之者ニ相渡申者也、少も相違有間敷候、為其手形仕指置申者也、

   元和九年い

      七月十九日     仁賀保兵庫助(印)

                    源 光誠(花押)

       仁賀保内膳殿

         同 内記殿