なお、光誠の名の内の「光」は大井一族の通字で、「誠」の字は光誠以降の仁賀保氏の通字です。
では 、何故現在、「挙誠」という名で通っているのでしょうか。
これの犯人はどうやら次男の仁賀保誠政の様です。(史料5)には内膳という官職名で出てますね。彼も当初、「光政」と名乗っていたことが「仁賀保家系図」により確かめられます。
恐らくでありますが、仁賀保誠政は徳川家光に憚ったものではないかと想像されます。幕藩体制が確立した家光の時代、偏諱を与えられていない大名が「通字だから…」と偏諱に被る名を名乗ることは非常に危険だったものと考えられます。ですので、光政は自分の名を誠政に変え、また父の光誠の名を「挙誠」としたものでしょう。…ただなんで「挙」を使ったんでしょうかね?。
野史等には「大江を称しているので、大江一族の毛利氏などと関係がある。一文字三ツ星の家紋も毛利だし、通字に『挙』を使っているのも大江氏だけだし」…なーんて書いているものもありますが、そもそも仁賀保光誠自身が「源」を称している事からしても、大江と大井の混同はぜっっっっったいに有りえない事と考えます。混同したのは後世の人だけだと思います。
「箱一文字三星紋」も『寛永譜』の頃に使用していることが明らかですので、少なくとも仁賀保光誠の時代には使っていたと推察されます。更にいうと光誠の実家である小介川氏の紋は松葉菱らしいので、光誠が婿に入った時に持って来たとは考えずらく、仁賀保氏は戦国期より箱一文字三ツ星を使用していたと考えられます。
ここで気を付けていただきたいのは、仁賀保氏の紋は「一文字三ツ星」ではなく「箱一文字三ツ星」です。一は草書体ではなく棒です。昔から使用しているものでしょう。北畠顕家から…ってーのも若しかしたらホントかも…。
なお、余談ですが「勝俊」という名は彼の兄若しくは父と目される人物である「赤尾津道俊」からとられているものと推察されます。しかし「道俊」は法名であり、そもそもがこれをもじった名であるのは妙です。後世の人の創作でしょう。ついでに勝俊の子どもということで、光誠の長男の名は良俊とされておりますが、無論、これもマユツバでしょう。余談は別として、本稿では「挙誠」「光誠」の両方使いではメンドっちいので、「光誠」で統一いたします。
光誠は豊臣秀吉の奥羽仕置以前は「兵庫頭」と号していました。光誠宛の最上義光の文書はほぼ全て仁賀保兵庫頭宛です。しかし豊臣政権の奉行衆が出した文書は、一通を残して全て「兵庫助」「兵庫」で出されています。もしかしたら仁賀保光誠は「兵庫助」を秀吉政権下の官職として正式に拝領したのかもしれませんね。
但し、徳川家康や最上義光等の仁賀保光誠宛の書状は例外なく「兵庫頭」を使っており、これは奥羽仕置以前からの慣例に依ったものでしょうか。また光誠自身は「兵庫頭」を熱望して居ましたが、豊臣秀吉は正式には「兵庫助」しか認めなかったのでしょうか。
さて、光誠が小介川氏から入って家督を継いだ時には、光誠よりも仁賀保家の直系に近いと考えられる者が数人いたようです。
(史料7)
一翰啓之候、小介川殿雖被及取刷候、無落着候、庄中被仰調早速出張頼入候由赤へ申越候、即兵庫頭殿へも及書申候、伯州へ以御相談一勢御助成候様ニ取成任入候、猶以彼者可申候条、令略筆候、恐々謹言、
(天正十七年)
五月廿三日 実季(黒印也)
仁賀保信濃守殿
(史料7)は安東氏の内紛「湊合戦」にて劣勢に立たされた秋田実季が、仁賀保氏に援軍を要請した文書です。丁寧な文書ですな。
この書状から仁賀保光誠の外に仁賀保信濃守や伯州(仁賀保伯耆守)という人物が独自に動かせる兵を持っていた事が分かりますね。 その他にも仁賀保宮内少輔(重挙とは別人です)の存在が確認されます。何故、彼等は仁賀保氏の当主(惣領)になれなかったのでしょうか。
仁賀保氏(由利衆全てですが)は天正末期にても惣領制が機能していたと思われます。一族で相談して行動していた様なんですね。そう考えると仁賀保信濃守や伯州、仁賀保宮内少輔等が仁賀保氏本家を継げなかったのは、惣領として問題…例えば一族内での勢力とか器とか…があったからでしょう。仁賀保氏に於いては仁賀保家とその分家、村単位の国人領主の集合体であり、有事に仁賀保氏の招集によって軍事的支配下に入るという関係で、その他に仁賀保氏直参の旗本衆が居ました。正に洞や家中と言われる形態だと思います。
また、この文書から解るとおり、小介川氏からの養子である仁賀保光誠が家督を相続した事により、安東氏と仁賀保氏の関係は改善されたと見れるでしょう。
この頃の由利衆の権力構造は、仁賀保氏、小介川(赤尾津)氏を優位とした国人一揆でした。個々はいずれも惣領制から脱却していませんでしたが、その中でいち早く当主権力を強化したと考えられるのが矢島満安だと思います。
ですが伝統的な惣領制を無視した矢島満安は、「一家をも一家と不思召、家臣とも之諫をも不用」などと様々悪く書かれてしまう訳です。矢島満安の行動は他の由利衆には己の権利を奪う不届きな行動として写ったでしょうし、旧来の形を守ろうとする他の由利衆達と騒乱を引き起こしていました。
矢島満安の不幸は、満安を支援していた西馬音内茂道(小野寺氏)の勢力が衰退した事でした。矢島満安の滅亡は次の項でお話しいたします。