Ⅲ矢島・仁賀保の戦い①


⑤矢島氏と滝沢氏との戦い

 まず、『矢島十二頭記』(A)本ですが、非常に簡略です。


 永禄3年、矢島殿が瀧澤殿を攻め矢島軍の先鋒平根左衛門が軍功をたてた。石沢殿が滝沢殿の後詰をした為、勝負が付かなかった。矢島勢20人討死して双方とも引き上げた。戦いの場は上条である。


 対して(B)本ですが、この事件に対して非常に細かく伝えています。


 滝沢刑部少輔殿と履沢左兵衛の策略が露見して左兵衛は討ち取れた。刑部少輔殿は仁賀保氏に介入を頼み、仁賀保氏と共に矢島を滅ぼそうとする噂が流れた為、永禄3年5月中旬、矢島五郎殿は滝沢城に攻め込んだ。

 城中は静まり音もせず鉄砲や弓をを打っても音が無い。そうしている内に斥候が帰ってきて五郎殿に言うには「仁賀保大和守殿の大軍の旗が鎌ヶ淵まで見える。滝沢殿への後詰に間違いない。早々に陣を引き取るべきだ。」と伝えた。それを受け矢島軍は撤退したが、その時城中より大勢討ち出て矢島勢は14、5人討死した。

 矢島五郎殿より同年6月中に仁賀保大和守殿へ使者を出した。使者曰く「先祖より小笠原一家で祖父義久の頃より兄弟の如くしていたのに、刑部殿へ後詰するとは承知できない。」と。大和守殿は「帯刀に直談判され刑部に何とかと頼まれ、老いた身の無調法であった。他意があったわけではない、」と言い、誓うと仰せられた。


 (A)本ではかるーく触れられているVS滝沢戦を、(B)本では矢島と仁賀保の戦いの遠因にしたい様です。もしかしたら真実かもしれません。後詰が(A)本では石沢氏であるのを(B)本では仁賀保氏であるとしています。帯刀」という人物が仁賀保挙久に直談判したとされています。滝沢氏の誰か家格の高い人なのでしょうかね。位置関係(戦いの場が由利本荘市新上条近辺か?)からすると、両方ともありそうです。

続きます。

⑥矢島氏と玉米氏との戦い

 元亀元年9月、玉米殿が矢嶋を攻めたが、玉米殿の家臣の多くが討死した。(ここの記事が飛んでいる?)雪が消えた為、矢島殿・その味方は帰って行った。


 この(A)本の文章は、伝えられている内に各所が省略されてわかりずらくなっています。まず、「元亀元年9月に玉米が矢島を攻め」、その記事のあとに「雪が消えた為に矢島氏とその味方は帰還した」というわけのわからない記述になっていますが、おそらく、「元亀元年9月に玉米が矢島を攻めた」が、その後、今度は矢島は味方と共に逆に玉米を攻め、「雪が消えた為、矢島氏と味方は帰還した」という事でしょうな。記事が一部飛んでいると考えられます。


 矢島五郎殿の近習召使に蛭田傳之助という小姓がいたが、佐藤主計がこれを討って逐電し、玉米領主の小笠原信濃守殿の元へ逃げ込んだ。それを聞き信濃守殿に佐藤主計との関係を断つ様に言ったが、一向にこれを実行する気配はなかった。

 五郎は我慢の限界に達し元亀元年9月17日、大軍で玉米信濃守殿の居城である水上城へ攻め込みんだ。しかし城中に屈強の者共が大勢居て双方に討死・怪我人が沢山出てた。その上、下村蔵人殿が玉米氏に後詰されると噂が流れ、五郎殿は軍を引いた。


(A)本では玉米氏が矢島を攻めたのに、(B)本では逆になっています。どちらが本当かはわかりませんが。(B)本を見るだけだと、由利の火薬庫は矢島ではなく、玉米氏の様に見えますな。

続きます。

⑦下村氏VS石沢氏

 元亀3年4月上旬、下村領主の小笠原蔵人殿居城の根城に石沢作左衛門殿が攻め込んだ。蔵人の家来である真木新左衛門は鉄砲が上手で敵を7人討ち取った。この日は戦に利はなく石沢勢は一時大琴山に撤退し、翌未明に再び攻め寄せた。蔵人の家来小笠原之太夫、(中略)木下武蔵らは命をかけて戦った。これを見た石沢軍は根城の後より攻め込む。大手口の戦に気を取られて搦手の守備は薄かった。阿部與惣兵衛、石渡左衛門四郎、小野七左衛門の女房たちは、柴手を登ろうとしていた武者を見て石を転ばして敵を威嚇する。武者2人が塀の陰まで攻め寄せると、内より梯子をかけ手頃な大きさの石を投げつけて2人共に谷底へ落した。

 大手の戦では佐藤源兵衛が討死するのを見、城内より大勢が切り出て、石沢勢は堪らず引いて逃れるが、斎藤丹後、(中略)藤山土佐らは命を惜しまず下村軍に立ち向かって戦い、ようやく石沢軍は兵を引いた。双方とも討死したものが居た。


 この項目も(A)本にはありません。位置関係からすれば…アリだけど…。まあ、あったんでしょうかねぇ。

⑧矢島満安の滝沢攻め

 永禄3年、滝沢へ五郎殿が攻め寄せた。これは双方が仲が悪く、百三段の市場へ百姓共が運ぼうとしていたのを度々邪魔するので、五郎殿はこれを何とかすべく考えた為である。

!!。

これ、(B)本のみの記事で、時代をさかのぼって永禄3年の滝沢攻めの記事がまた出てきました。しかも今度は別の理由で…。多分、仁賀保と矢島の戦いの起因を何人かの筆者が考え、それぞれの考えが記載されたんでしょうなあ。

 ただ、そもそも何故、滝沢氏が履沢氏と共に矢島を滅ぼそうと思ったのか不明です。この項を擁護するとすれば、1450年前後、小野寺氏は雄物川河口部を制圧していたのでは…と思われる微証があります。小野寺氏の傘下にあったと思われる矢島氏は、当然、雄物川河口部にある百三段に物資を輸送するのは当然か…と思います。矢島氏からして一番楽なのは子吉川河口から船で百三段に向かうルートでしょう。そこでルート上の滝沢氏・石沢氏、子吉氏などが邪魔になるわけですね。

…考えられる話ではあります。

⑨矢島満安の戦略と仁賀保挙久の戦死

 この項は矢島と仁賀保の戦いの原因と、仁賀保挙久の大敗についての項になります。

 天正3年8月下旬、矢島殿が新庄城に居られた時、仁賀保殿が矢島に攻め込み根井館に陣を引かれた。仁賀保殿の策略は仙北の小野寺遠江守殿と共に矢島を挟み撃ちにするということである。(ここの文章が省略されている)同3月1日の晩に山に篝火を焚き、それを合図に山の手より小野寺軍が攻め込み、矢島勢が気を取られている内に、仁賀保軍が後ろの郷内よりや夜討するというものであった。しかし、この密使を矢島殿の武将が見つけ、打ち取り書状を矢島殿へ差し上げた。

 仁賀保殿は3月1日の暁に神代山に篝火を炊いた。矢島殿は弟の太郎殿を城に残し置いて、自分は築館へ廻りもう一隊は矢島より廻りこんだ。合図の篝火を見て仁賀保軍は郷内まで出陣、仁賀保親子は本陣の根之井館に居たが、矢島殿の軍勢は双方より根の井館へ攻め込んだ。小主和州殿は切腹され、御子息の次郎殿は川を下って杉澤へ落ち延びた。(■は)前杉迄追掛けて討死した。新庄城より守備をしていた矢島軍も郷内に攻め寄せ、仁賀保軍は子吉川を下り前杉・小坂へ落ち延びていった。矢島殿も前杉・小坂を廻り造石まで追いかけ首数200余り取り、矢島勢は30人余りが討死した。


(A)本のこの項ですが、文章がすっ飛ばされたりしてわかりずらい箇所があります。まずは「天正3年8月下旬に矢島殿が新庄城に居られた時」に仁賀保氏が攻め、「3月1日に篝火を炊く」という時節がつながらない箇所です。これは、「天正3年8月下旬に矢島殿が新庄城に居られた時にあった矢島VS仁賀保戦が省略されたからです。この矢島VS仁賀保戦の後に、別記事で「天正4年2月」に仁賀保殿が矢島を攻めるという風に、あったはずなんですね。

 なので、篝火を炊いた「同年3月朔日」とは「天正4年3月朔日」の事と考えられます。

ここは(B)本の方が体が良い感じがします。


 天正2年6月中旬、滝沢に攻め込み上條に1日逗留されたが、斥候が戻ってきて「仁賀保軍が後詰として横山山城・菊池五郎太夫両人を大将として大勢攻め込んできた。」と五郎殿に伝えた為、矢島に戦果無く帰還した。その後五郎殿は親戚の小介川摂津、根之井右兵衛、帯刀等を呼び、「仁賀保が2度まで敵についたので、当年中に是非とも仁賀保を討ちたい。」と相談した。摂州は「とにかく来年まで様子を見てはどうか。」と言うと五郎殿は御腹立された。しかし皆々が口々に穏便に済ませようとしたため来年まで攻めるのを待つことにした。


 この記事は、(A)本には無い記事です。戦いの場が「上条」であるあたり、先ほどの滝沢氏との戦と同じ内容の気がします。同じ記事を2つに分けた感があります。


 天正3年8月16日、仁賀保大和守殿は矢島五郎殿の新庄館を攻めたが、大雨が降って洪水し郷内の渡し場は3日間渡れず、両者とも川を隔てて睨み合うのみであった。大和守殿は4日目にも雨が止まない為、戦果無く仁賀保に帰られた。

 大和守殿は五郎殿を攻め滅ぼす為、玉米領主の小笠原信濃守殿に後詰を頼まれ、天正4年4月28日矢島に攻め込んだ。29日の夜に五郎殿の居城新庄城を攻めようとしたが、信濃守殿とは玉米軍が新庄城の後の山より攻め寄せ、日が暮れて篝火を焚いたのを合図に城を攻めるべしと密約を交わしていた。しかしこれは五郎殿に伝わった。

 対する五郎殿の作戦は、4月28日に玉米軍を防ぐ為に神代山の難所の通口に逆茂木を建てて人馬が通れない様にし、守備として根の井右兵衛を付け置いた。果たして29日早朝に玉米軍が攻めてきたが、難所にせき止められ鉄砲を射かけられたが無理やり登られた。その頃、五郎殿は舎弟與兵衛殿を城に残し置き、自身は突撃する為小介川摂津、(中略)大瓦普賢坊らを引き連れて、夜陰に紛れてサスガ瀬に廻り神代山の合図の篝火を待った。

 矢島與兵衛殿は信州からの合図の火を以て城の後ろに19時頃に篝火を立てた。それを見た和州殿は「合図の篝火が立った、攻め込め」と下知し、仁賀保中務、横岡山城、土門対馬、芹田伊予の4人が軍を率いて新庄城に攻め込んだ。

 大和殿は親子共に根之井館に本陣を引いていたが、五郎殿は篝火を見ると城の向かいに回り後より攻めようとしたが、根の井館は手薄であると三右衛門が言うので、根之井館へ行ってみると、和州殿がのんびりしていた。四方より館を包囲して時の声を上げた。菊池は次郎殿を徒歩で連れて杉沢口へ落ち延び、和州殿は五郎殿と切りあわれ遂には討ち取られた。添侍も15人討死した。それより陣小屋に火をかけた。

 仁賀保軍は新庄城に攻め込む為に進軍している最中に和州殿が討死したと聞き、更に後ろの根々井館に火の手を見た。仁賀保軍は根の井舘へも帰れず、谷内沢へ半分、杉山口へ半分蜘蛛の子を散らすように落ち延びていった。五郎殿は予てから杉沢に篝火を立てていたが、前杉にも敵が来たのを見つけ、赤石関の横道へ落ち延びていく。五郎殿は取って返し八升栗毛に鞭を打って追付き、長さ1丈2尺の棒で敵を四方になぎ倒した。付き添う面々も数えきらない敵を討ち倒す。それより五郎殿は前杉へ駆け上り、川原村へ落ち延びようとした敵を追いかけ討ち取り、雑兵を含め105人の首を取った。次郎殿は菊池に助けられて子吉殿の元に逃げた。

谷内沢口に逃げた者達は無事に仁賀保に帰った。


 この様に仁賀保と矢島の戦いは、矢島と滝沢氏の戦いの時、仁賀保大和守が滝沢氏の味方をしたことに由来すると(B)本は伝えます。思うに『矢島十二頭記』(A)本の補完をしているような感じです。

両本に共通するのは、

イ) 仁賀保大和守が矢島を攻める為に根々井館に本陣を引いた。

ロ) 仁賀保大和守は新庄城の背後を同盟軍に攻めさせ、手薄になった所をついて子吉川を渡河す

る、いわば「声東西撃の計」を謀っていた。

ハ) 対して矢島五郎は仁賀保大和守の策を知り、密かに子吉川を渡り敵の背後につく「暗渡陳倉の

計」で敵の背後についた。

ニ) 神代山の篝火と共に仁賀保勢は大挙して子吉川を渡り、手薄になった本陣に密かに河を渡った

矢島五郎が突撃をした。

ホ) 仁賀保大和守は討死、嫡男の次郎は子吉川を下るように撤退した。

という事ですね。これに大なり小なりの肉付けがあるわけです。

 根々井(根井)館は子吉川を挟んで新庄城の向かいにあるので、城攻めの陣としてはいい場所だと思います。ただ、ここに陣を引くという事は矢島の大半は仁賀保大和守が制圧したという事で、矢島氏からすれば乾坤一擲の大反撃だったと思います。

 仁賀保大和守の命日ですが、禅林寺の資料によれば天正4年2月28日に没したことになっています。(B)本の4月28日…は元々は3月だったのかもしれませんね。(A)本の3月1日没というというのも?ですが、矢島側からみて全ての戦が終わった…という意味からすれば、そうかもしれませんね。

 一番の差異は、仁賀保大和守の同盟相手です。(A)本が横手の小野寺輝道、(B)本が玉米の小笠原氏であるとされています。どちらが正しいのでしょうか???。篝火を焚いたのは両者とも神代山であるとしています。神代山の篝火を見る為には玉米氏であれ、小野寺氏であれ、仁賀保氏の為に出陣し、国境まで来ていたということになります。

 …小野寺氏は無いでしょう。小野寺氏は鶴岡の大宝寺氏と仲が良く、仁賀保氏を挟み撃ちにしていましたから。神代山は玉米領からはちょいと遠いのですが、玉米氏が背後から山越えして新庄城からの逃げ道を断つ経路で来たのなら、あり得るか…な?。