Ⅱ仁賀保1,000石家

 仁賀保蔵人…良俊…晴誠などと呼ばれる人物が領した仁賀保7,000石家、仁賀保主馬700石家が寛永年間に跡継ぎなしで改易になった後、残った仁賀保家の1つです。

初代 仁賀保誠次

 慶長19年(1614)生まれ。幼名を竹千代といいました。…当然、徳川家康にあやかったものでしょう。元服して内記誠次と名乗りました。

 元和4(1618)年には徳川秀忠に謁見、寛永3(1626)年には徳川家光に謁見し、同年仁賀保光誠の遺領の内1,000石を引き継ぎました。

 寛永6(1629)年に徳川家光の命で御花畠番を勤めました。御花畠番…後の小姓組の事ですな。寛永10(1633)年2月7日には上野国甘楽郡一宮村にて200石加増になりました。ですので1,000石家と言いますが、実際は1,200石ありました。明暦3(1657)年には讃岐の丸亀に赴き城の引渡をしました。これは築城の名手である山崎家治が作った丸亀城の引き渡しの件です。寛文元(1661)年6月29日には信州川中島の松代藩の政務を監督するために赴きました。これは松代藩主真田幸道が幼少の為の政務代行です。その後、再び小姓組に入りましたが延宝4(1676)年11月には病気になり、翌5年4月に小姓組を離れ小普請になりました。誠次は家光からの信任が厚かったようですね。

 当初、仁賀保誠次には実子が出来なかったため、土屋利晴の3男である源三郎を養子にとりました。当初部屋住みでしたが誠次と別に仕官に成功し、切米300俵を貰い書院番として勤務していました。

 後、誠次には実子である半弥(寛永20年、1643生)、新之烝(正保元年、1644)、権太郎(寛文8年、1668)、女子2名が出来ましたが、跡取りは源三郎事、仁賀保誠勝でありましたので、半弥は仁賀保誠親を称して別家を立てました。誠親は寛文2(1662)年に館林藩徳川綱吉に仕えました。後の仁賀保200俵家です。その下の子である新之烝は、2,000石家の誠政の娘が嫁してる縁で長谷川重辰の元に養子に行き長谷川重賢と名乗りました。

 ところが仁賀保誠勝は延宝3(1675)年12月11日に父に先立って亡くなりました。仁賀保1,000石家を継ぐべき2男、3男はすでに別家を立てたり養子に行っています。ここで、仁賀保家の家督は13歳の権太郎が継ぐことになりました。

 仁賀保誠次は延宝5(1677)年6月18日、73歳で没しました。墓所は青松寺、千光院珠網玄輝居士

彼の妻は跡部良保の娘です。

2代 仁賀保誠方

 寛文8(1668)年生まれ。始め権太郎と名乗り後に内記を称しました。当初小普請組に入り、元禄11(1698)年8月18日に小姓組に入りました。元禄16(1703)年11月23日には元禄地震を受けて御城廻普請奉行を仰せつかりました。

 宝永3(1706)年には病気により小姓組を辞して小普請になり、宝永5(1708)年7月12日に41歳で没しました。墓所は青松寺、踈篁院西岸得舩居士

 妻は仁賀保誠尚の娘で、後に後妻として土岐頼似の娘を貰っています。子供は出来ず築地本願寺寺中の妙延寺の娘を養女にもらいました。

 しかしその養女も家を継ぐことなく、結局、兄の長谷川重賢の6男を養子にもらい、家を継がせることになりました。

3代 仁賀保誠庸

 元禄5(1692)年3月1日生まれ。始め次郎助と名乗り後に内記を称しました。

 当初小普請組に入り、享保4(1719)年に小姓組に入りますが、享保12(1727)年9月15日に36歳で没しました。

 墓所は青松寺、興運院逸叟紹俊居士。妻は佐橋佳周の娘で、誠庸には女子1人のみしか子がおらず、婿養子を取り仁賀保家を継がせることになりました。

4代 仁賀保誠之

宝永7(1710)年10月17日生まれ。始め辦次郎と名乗り後に内記兵庫を称しました。先代の誠庸には女子しかおりませんでしたので、先代誠庸の兄である長谷川重行(初代誠次の孫)の子…誠庸から見れば甥…である誠之が従弟同士で結婚し家を継ぐことになりました。…「急聟養子奉願候」とされているので末期養子だったんでしょうな。

 当初小普請組に入り、享保19(1734)年に書院番となりました。元文5(1740)年には駿府在番を仰せつけられ寛保元(1741)10月15日に帰京いたしました。この後、寛延(1748)元年9月1日から同2年10月15日まで、宝暦6年9月1日から宝暦7年10月15日まで3度駿府在番を務めています。宝暦11(1761)年10月15日には小姓組与頭を命じられ12月18日には布衣となります。更に明和元(1764)年9月1日には再び駿府在番として翌年10月15日まで勤め、明和5(1768)年1月11日には小姓組与頭から御先手御鉄砲頭を命じられました。続いて同年10月4日に火附盗賊改を「加役」され、明和6年3月29日に「世上静」になるまで勤めました。安永5(1776)年4月の将軍徳川家治の日光参拝に御供して、岩槻・宇都宮・日光にて勤番いたしました。

 誠之は翌安永6(1777)年9月14日に68歳で亡くなりました。墓所は青松寺、英勝院豪山良雄居士。妻は仁賀保誠庸の娘で名を「」と言いました。彼女は早くに亡くなったようで後妻に筧為照の娘を貰っています。

 誠之は子沢山で、次男・5男は早世、3男の犬勝は誠之の実家長谷川家の分家を継ぎ長谷川重喬と名乗りました。4男は仁賀保2,000石家の養子となり仁賀保誠肫と名乗ります。6男の斉宮誠徴は当初、為井祐貞の養子になりましたが、折り合いが悪く仁賀保家に戻ってきて文化13年1月9日に没しました。

5代 仁賀保誠善

 元文5(1740)年11月13日生まれ。始め土佐次郎と名乗り後に兵庫大膳を称しました。始めの頃の名乗りは苗誠(みつしげ)と言いました。

 宝暦7(1757)年10月15日には将軍徳川家重に拝謁、安永5(1776)年12月19日には、未だ部屋住みでありまながら切米300俵を与えられて西丸書院番として勤めることになりました。父の没後は家督を継ぎ、そのまま西丸書院番を務めますが、天明元(1781)年閏5月15日、若君様(後の将軍徳川家斉)付きを命ぜられ天明6(1786)年閏10月20日まで勤め、その後再び西丸御書院番に復帰しました。寛政7(1795)年3月5日、徳川家斉が小金原(千葉県松戸市)にて行ったシカ狩りにて徒歩勢子として参加いたしました。翌寛政8(1796)年1月11日には御使番、12月19日には布衣を仰せつけられました。

 その後、彼は病気になり享和2(1802)年5月27日に役目を辞して寄合に入り、翌享和3(1803)年8月5日に64歳で没しました。墓所は青松寺、大定院覚山慧量居士。妻は小出英好の娘「みき」で、後に後妻として三上季達の養女を貰いました。

 仁賀保誠善の長男の鋒之助は早世、2男の辦次郎誠明は病気で家督を継げませんでした。3男の善次郎石谷因清の婿養子となり石谷直清と名乗り、御使番・火事場見廻などを行っています。ちなみに彼の子が石谷穆清といい、堺奉行・勘定奉行・江戸北町奉行を歴任し、安政の大獄に関与したそうです。

 ですので、その下の土佐五郎が家督を継ぐことになりました。

6代 仁賀保誠形

 天明元(1781)年生まれ。土佐五郎と名乗りました。

 享和3(1803)年12月23日に家督を相続し小普請組に入りましたが、文化元(1804)年に病気になり12月21日に25歳で亡くなりました。

 墓所は青松寺、徳章院義山有隣居士。妻はおりません。当然、子供も居ませんので、弟の安五郎が跡を継ぐことになりました。

 この後より、仁賀保1,000石家は記録が少なくなり、あまりわからなくなってきます。

7代 仁賀保誠教

 寛政4年(1792)年生まれ。始め安五郎と名乗り大膳・主膳・右京と号しました。名乗りも当初は誠教と名乗り隠居後は誠遊と名乗りました。

 文化7(1810)年6月17日西丸書院番として勤めることになりました。文化14(1817)年6月13日には大坂御目付代として翌年の9月まで勤めました。文政4(1821)年1月11日には御使番、12月16日には布衣を仰せつかりました。文政10(1827)年7月2日には駿府目付として12月まで勤めました。

 天保7(1836)年12月1日には右京を名乗ります。

 天保13(1842)年8月には病気になり職を辞して寄合に入り、翌年3月29日に隠居し婿養子の安五郎誠意に家督を譲りました。9月26日に隠居を認められ剃髪、誠遊と名を変えました。幕府からは隠居領として切米300俵を拝領し、嘉永6(1853)年6月29日に62歳で亡くなりました。

 墓所は青松寺、徳源院誠遊良心居士。妻は筧為親の娘です。

8代 仁賀保誠意

 生まれは分かりません。始め安五郎と名乗り右京・内記と号しました。始めは誠正と名乗っていた様です。誠意は中山信珉の4男で文政8(1825)年2月20日に婿養子となりました。

 天保2(1831)年11月21日、部屋住みの身ながら御書院番に入ることを仰せつけられ切米300俵を給せられました。先代誠教が隠居すると家督を相続し、天保14(1843)年6月26日には安五郎から右京へ改名いたしました。嘉永2(1849)年の小金原のシカ狩りには騎馬勢子を行っている事が知られています。

 嘉永3(1860)年2月5日に麹町よりの出火に端を発する「麹町の大火」により、屋敷が焼けてしまいました。

 安政4(1857)年8月18日、松平勘太郎の弟である長沢房之助を婿養子として取りました。文久2(1862)年3月29日に至り隠居しました。

 誠意に関しては幕末との狭間で非常に資料が少ないです。ただ、彼は戊申戦争の折には隠居の身ながら仁賀保に移住し幕府軍と戦ったことが知られています。

 秋田の官軍方は、総督府の監軍である山本登雲介アホなので、領内を焼かれ大分苦労しましたが、誠意は亡くなった誠中の代わりに「仁賀保兵庫」の名を使い文書を出し、誠中の代わりに転戦し、遂には仁賀保の自領を取り戻しました。明治元(1868)年10月5日には松ヶ崎から平沢へ帰還しています。当初は禅林寺に入り、その後領内を転々としていた様です。

 誠意の没年齢は分かりませんが、60代を過ぎた年齢だったでしょう。明治2(1869)年の「秋中」頃より体調を崩し、11月1日に領地の仁賀保小国の陽山寺にて亡くなりました。墓は仁賀保の禅林寺にあります。霊源院泰岳遊山居士。

9代 仁賀保誠中

 天保5(1834)年生まれ。始めは長沢房之助・安五郎といい右京・兵庫と号しました。彼の父は松平信弘と言います。安政4(1857)年に松平家より婿養子に入りました。

 文久(1862)2年に家督を継ぎ、文久3(1863)年12月6日に「御番入」…恐らく書院番…し、翌文久4(1864)年1月10日に「兵庫」に名乗りを変えました。

 彼は慶応4(1868)年には仁賀保2,000石家の仁賀保誠成と共に戊辰戦争の前に仁賀保郷に移住し、佐竹氏らと共に庄内藩と戦おうとしました。ですが誠中は病にかかっていた様で、同年5月18日に領地の仁賀保小国の陽山寺にて35歳で亡くなりました。墓は仁賀保の禅林寺にあります。透関院寂鉄翁良漢居士。子は居なかったものと考えられます。

 戊辰戦争終了までの間、誠中の死は伏せられており、慶応4年7月の2,000石家仁賀保誠成の文書には「誠中だけど、病気だから出陣できないんだよね。だから彼の兵隊を俺が一緒に率いて戦うよ」と言っています。この後「仁賀保兵庫」がしばらく生きているかのように文書が出されていますが、これは隠居の仁賀保誠意が代理で1,000石家を率いて、誠中の死を伏せていた為です。…無嗣断絶の世の中でしたから。

10代 仁賀保誠愨

 生年は天保5(1834)年。父は佐竹南家13代目佐竹義珍。元々は早川珍保と言う名で佐五郎と称していました。兄の早川輔四郎(珍傳)が戊辰戦争の敗戦の責任を取らされ切腹させられると、次男と思われる義雄を兄の養子としました。

 彼は明治2年12月、先々代に当たる誠意が没した後、仁賀保家を継いだようです。何故、彼なのかは分かりませんが…。この後仁賀保佐五郎誠愨を名乗ります。

 戊辰戦争終了後、誠愨は2,000石家の誠成と同様に上京しており、一時、所有する愛宕下神保小路の905坪の屋敷に居住していたようです。しかし領地が政府に没収されることになると誠愨は誠成と共に明治4年に知行地に戻りました。誠愨には先々代の誠意が戊辰戦争で奮闘したことにより、賞典禄500石が与えられ、計1,700石になっていました。

 明治6年に2,000石家の誠成は上京いたしますが、誠愨は知行地に住み続けました。明治9(1876)年2月1日に43歳で仁賀保にて亡くなりました。実相院諦覚円誠居士