06.仁賀保光誠…その2 天正末期
Ⅱ、大宝寺義氏没後の出羽庄内地方の混乱
さて、仁賀保光誠が家督を継いだ天正14年頃の出羽庄内は、四方八方の諸将の草刈り場になっておりました。謀反を起こして主大宝寺義氏を討ち取った前森蔵人は、酒田東禅寺城に入城して東禅寺筑前守氏永と号しました。
しかし大宝寺義氏を討った東禅寺氏永は大宝寺氏領を手に入れる事は出来ませんでした。落ち目とはいえ大宝寺氏の勢力はまだ残存していたんですね。大宝寺義氏の弟の義興は義氏の跡を継いで大宝寺氏を再建、兄を滅ぼした東禅寺氏永と争い出します。初めは両者共、後ろ盾を欲して至る所に使者を飛ばしていたようです。
天正12年6月27日付の本庄繁長宛の上杉景勝書状には「自大宝寺使僧被差越付而、添状具披見候、義興并東禅所ヨリも一段入魂之趣候、」と大宝寺義興、東禅寺氏永両名が上杉景勝の支援を受けんと必死になっている姿が見えます。最もこの頃の上杉景勝は新発田重家の乱の真っ最中で、動ける状況ではありませんでした。
上杉頼みにならずとみた東禅寺氏永は、いち早く山形の最上義光と手を結ぶ事に成功し、これを後盾として庄内を取り纏めようとしました。最上義光は現在の山形市近辺を領土とした大名で、衰退していた名門最上氏を復活させ、その最盛期を作った名将です。彼は領土を次々に拡張し、15年程の短期間に最上・村山地方(山形県内陸地方)を統一しています。内陸に位置する最上氏の海岸部進出は悲願であったでしょう。
東禅寺氏永が最上氏に傾倒すると、対する大宝寺義興も上杉・本庄繁長と手を結びます。大宝寺義興と東禅寺氏永の対立は、そのまま上杉氏と最上氏の代理戦争の様相を呈してきました。更に大宝寺氏は本庄繁長より養子を迎え(千勝丸・大宝寺義勝)、大宝寺氏と本庄氏の関係はさらに強化されました。
そもそも越後と深い関係にあった出羽庄内ですので、大宝寺義興が千勝丸を養子にしたことは庄内衆をまとめるのに非常に有効だったと思います。当然、最上依りの東禅寺氏永は庄内では孤立化し非常に劣勢となり、益々最上義光の勢力に頼り、最上衆が庄内にはびこる事となります。
天正14年10月、両者は激突し、東禅寺氏永を支援する最上義光は庄内に攻め込みました…無論、支援と称しての領国化を狙ってのことですが…。この時は大宝寺義興と最上義光は和睦をしますが、翌15年4月義光は再び攻勢に出、11月遂に尾浦城は落ち義興は討ち取られました。
乱戦の中辛くも養子の義勝(千勝丸)は実父本庄繁長の越後に逃れました。本庄繁長・大宝寺義勝親子は最上義光に対して復讐の機会を待つことになります。
Ⅲ、天正11~16年の仁賀保氏の動向
この間、中原にて鹿を射たのは豊臣秀吉でした。先人の研究に詳しいですが、秀吉は関白就任直後の天正13年には「惣無事令」を発し、全国の諸将に私戦停止を勧告しております。
以前より奥羽の諸候は中央政権と密接な関係を持っていました。蜷川氏などは元より、織田信長とも交流を持っていた事が知られています。出羽であれば安東愛季や最上義光は勿論、国人領主の類いに至る迄、全て上方情勢に目を光らせていました。
例えば仙北の国人領主前田薩摩守は、天正7年に信長に鷹を献上する為に上洛し、安土城の天守閣を信長に案内され、時服と金を賜っています。
本能寺の変の直前迄には「羽奥の諸家、過半申し合わされ御挨拶」といわれる程、出羽の諸候は中央政権と密接な繋がりを持っていました。
織田信長とは明確な関係を築けた様に見えない最上義光でしたが、早くから豊臣秀吉に臣従したようで、天正13年の豊臣秀吉の惣無事令は最上義光によって出羽の諸候に伝えられたと考えられます。最上義光自身は出羽の惣無事令の旗頭は自分だと思っていた事でしょう。それが天正15~16年の仙北の戦への介入なのだと思います。
この戦の発端は、天正15年に仙北横手の小野寺義道の下から独立を計った六郷政乗に対して小野寺義道が討伐をしたのがきっかけです。これに最上義光が「惣無事令」を盾に露骨に停戦介入してきました。
最上義光は、この頃秀吉に心服の旗を立てたらしい仁賀保光誠に対し、仙北の戦の和議を整える様に求めました。しかし仁賀保光誠はこれを無視、仕方なく最上義光は重臣の伊良子大和守を横手に差し下しますが「無信用」く失敗しました。最後に小介川治部少輔に書状を出して小野寺義道・六郷政乗の和議を計りますがこれも失敗、結局この和議を纏めたのは戸沢盛安であったようです。最上義光は出羽の諸将に信用されていなかったんですね。
先ほども触れましたが、この最上義光の行動は豊臣政権の下での出羽の「惣無事令」を実現するのは、出羽探題家の最上家であるという自負から出たものです。故に天正15年8月13日付の仁賀保光誠宛最上義光書状にみえる「奉公道之習」とは、最上義光に対する「奉公」ではなくて豊臣秀吉に対する「奉公」であると考えるべきです。
ただし、その書状の端々には秀吉の権威を受けて出羽国を纏めようとする最上義光の意がありありと伺われます。義光は自分は「出羽探題であり、他の大名たちは配下であるべきだ」と考えていました。ですが現実には配下ではないので「奉公道」と言いつつ、非常に丁寧な手紙となっています。配下であれば、もっと無礼な手紙を最上家チームは送ってくると思います。
天正14年9月、最上義光は矢島満安に使者を出して「秀吉に会わせてやろう」と誘いました。実はこの4ヵ月前に最上義光は仙北の小野寺義道との戦いで敗北を喫しています。 矢島満安は小野寺義道の庶兄で小野寺家内の有力者である西馬音内茂道の娘を正室に貰っており、矢島満安が最上義光の配下へなるという事は、対仁賀保光誠・小野寺義道に楔を打ち込む事であり、最上義光一流の外交政策でありました。
但し矢島満安はこの最上義光の誘いに対して「その必要は無し」として返事を送りませんでした。
最上義光は、同様の手口で東禅寺氏永やその他の庄内衆に由利衆を味方に付くように画策しますが、大宝寺氏や上杉氏と友好関係にあった由利衆の大部分は、最上方の東禅寺氏永を嫌ったようです。東禅寺氏永は岩屋朝盛に対して由利衆に取り詰められた事を伝え、由利衆は唯一最上氏と仲の良い岩屋朝盛を頼みにしていると持ち上げています。
天正15(1587)年9月、最上義光は大宝寺義興を滅ぼしまし、その養子の大宝寺義勝を越後に追いました。直後より最上義光は再度由利衆に接触を計ります。天正16年1月25日付の大勧進状の中で「油利中之衆大浦へ懇切候様」大勧進状で祈願して由利衆との関係の良好化を願いました。そして同2月6日の書状で義光は由利衆との音信は不可欠であると述べています。つまり1月25日より2月6日の間に最上義光と由利衆の関係は改善されたと考えられます。
更に同年2月25日付の吉高上野守が内越光安に宛てた書状によれば、「庄中之御弓矢出来」た為、仁賀保・子吉・小介川氏等は最上義光に加勢を求められたそうです。逆に考えれば、この3氏は最上義光の被官ではないからこそ加勢を頼まれたのだと取れますね。また、この三氏が仁賀保氏を中心とした血縁関係にあるという点が注目されます。
但し小介川氏は「そんなヒマねーよ。」とハッキリ断ってます。この頃小介川氏は戸沢盛安と睨み合っていて、自分に関係ない庄内などどうでも良かったんですね。つまり最上義光の権威なんて義光自身が言うほどのモノではなくて、国人領主が鼎の軽重を問える程度だった訳です。
然る所に最上義光にとって非常にありがたい使者が来ました。天正15(1587)年12月3日の「関東奥羽惣無事令」発布に対する豊臣秀吉の使者です。
(史料13)
(前略)仍此間、従関白様為上使、金山宗洗公当地へ着、山形へ上越候条、致案内者不計罷上候、定而於其許各可御心元候間、可申届候処、俄事候間、無其儀候、彼方送届申、則罷帰候間、此程逮御音問候ツ、然者彼御使節之御意趣、天下一統ニ御安全ニ可被執成之段、被思食候処、出羽之内へ、自越後口弓矢を被執鎮由、達高聞、不謂之旨并義光出羽之探題職被渡進候ニ、国中之諸士被随山形之下知候哉如何、如斯之儀を以被指下候、依之山形之威機を宗洗公被聞之、一昨日此方へ入来候而、即昨日越国被指遣使者候、様体如何可有之候哉、返答候者、可申入候、将又仙北干戈之儀、従山被執刷之処、未落着之由候而、重而寺民被指下之由候、其許各より横手へ被及御内意之由候、返事到来候者可有注進候、恐々謹言、
尚々、山形よりの使、赤宇曾ニ在堪之由候、自其元も入魂可然候、次ニ向後之儀、分而可有懇意之由候、尤不可有疎意候、用所之儀可承候、
中山播磨守
潤五月一日 光直(花押)
潟保治部大輔殿
御返報
最上義光は出羽探題補任により、「国中の諸士」は「山形之下知」に従うという事を強調していますね。金山宗洗は秀吉の使者として「関東奥羽惣無事令」の施行状況調査に来たんですね。最上義光はここぞとばかりに秀吉に、「俺の命令に出羽国全ての大名が従ってまーす」と言いました。
でも、現実には、「まあ、ちょっと言う事を聞いてみっか」って言ったのは岩屋朝盛だけだったようですね。これは何故かというと、庄内にて最上義光と戦っていたのが、豊臣秀吉旗下の有力大名上杉景勝だったからです。豊臣旗下で上杉景勝は近衛少将に任ぜられるなど、最上義光などより遥に厚遇を得ていました。
更にですよ、この上杉の息のかかった大宝寺氏領を侵略したのだから、明らかに非は東禅寺・最上軍にある訳です。それでいて「僕は豊臣さんの命令は守ってまーす」と白々しくいう最上義光とは、危なくてお付き合いできないんですね。
とは言えども全てはほぼ最上義光の思っている通りに進んでいました。由利衆を被官化する事は出来ていませんが友好を保ち、小野寺氏の親戚の矢島満安も手懐ける事に成功して、対小野寺氏政策にも目途がつきました。伊達政宗包囲網も順調であり、天正16年7月の最上義光は得意の絶頂にいたと思います。ですがこの時越後では本庄繁長が虎視眈々と庄内を狙っていたのでした。
天正16年8月初頭、本庄繁長・大宝寺義勝(前述の通り大宝寺義興養子)親子は数千の軍を率いて越後より来冦、不意を突かれた庄内の東禅寺・最上氏連合軍は十五里ヶ原(現鶴岡市)で本庄繁長軍に粉砕されて壊滅、東禅寺氏永自身も討死してしまいました。
この戦は伊達政宗書状の中では「敵數千人」本庄繁長が討ち取ったと伝えられるほどの本庄繁長の大勝利でした。最上義光の重臣の中山玄播は尾浦城より何とか山形に逃げ帰る事が出来ましたが、その書状によると「舎弟外侍衆」53人が討取られ、最上重臣の氏家守棟の子息など17騎、雑兵156人が討死しました。
本庄繁長は東禅寺城、大宝寺義勝は尾浦城に入り最上勢を徹底的に探索し討取り、繁長は更に由利衆に最上義光軍の追討に参加する様に要請いたします…命令に近いか…。
上杉景勝旗下の本庄繁長と戦う事は、豊臣秀吉に弓を向けることになります。本庄繁長の出兵命令は「天下軍に加わって秀吉の惣無事令を実現するため」のものと由利衆は受け取ったでしょう。由利衆は本庄繁長・大宝寺義勝軍と共に最上勢を庄内から駆逐いたしました。
最上義光は本庄繁長の行動は関東奥羽惣撫事令に違反していると猛烈に抗議いたしました。…最上義光自身も違反しているんですけどね…。義光は徳川家康を介して庄内の返還を豊臣秀吉に願い出ました。ですが上杉景勝が石田三成を介して豊臣秀吉に言上し、さらに自身が上洛すると出羽庄内は上杉氏に安堵される事になったのでした(無論名目上の領主は大宝寺義勝です)。この結果は徳川家康の顔に泥をぬり、最上義光は切歯扼腕して悔しがるが後の祭りでした。