Ⅶ矢島40人の者たち②

⑳慶長5年矢島一揆

 さて、前項に続き慶長5年の慶長出羽合戦が始まります。

 この頃、仁賀保兵庫は徳川方についておりましたが、石田三成挙兵との報を受け、一時仁賀保に帰還していました。 それを含み置いての(A)本です。

 慶長5年9月8日、矢島八森城の城番衆が在郷(木在?)に行き、城が手薄になった所に、矢島遺臣40人衆が攻め寄せ八森城を乗っ取った。城番衆は在郷より帰ってきたが八森城へは入れず隣の福王寺に入った。しかし更にそれを矢島遺臣40人衆が襲い、城番の菊池長右衛門は討死、境縫殿助は仁賀保へ逃げ、馬上・徒歩含めて15人が討死した。菅原勘之介は笹子より仙北へ逃げた。

  仁賀保兵庫頭殿はこれを聞くや否や打越左近殿・赤尾津殿を引き連れて八森に攻め込んだ。矢島遺臣40人衆は八森城を落とされ、酒田より会津に逃げようとしたが出来ず、笹子の赤館に籠城することとした。赤尾津殿・打越殿は直根口より攻め、兵庫頭殿は川内より攻め込んだ。瀬目ヶ峠より峰筋に新道を切り開いて赤館に直に攻め寄せてきた。打越殿・赤尾津殿は直根口よりかまち平に登り、目の下に城を見下ろして攻めた。

 同月13日の昼より暮れまで戦い、城中からは鉄砲を討ち15人撃ち殺した。籠城した者たちの内、相場市右衛門・金子民部は討ち死にした。城中の討ち死にはこの2人である。午後6時頃、城は落城した。城に火を放ち焼きつくし矢島遺臣40人衆は親妻子共に矢島に逃げたものもあり、また、仙北に逃げた者もあった。

 9月7日の晩には西馬音内の三右衛門が、御藤殿を仁賀保の根城より助け出して西馬音内に逃げ落ちた。八森城に兵庫殿が帰られてから御藤殿を取調べしようとしたが既にいなかった。

続いて(B)本です。

 9月8日の未明、(矢島40人衆は)城番の菊池長右衛門・境縫殿助・菅原勘介上下50人が籠る八森城へ押し掛けようとしたが、菊池長右衛門は福王寺に祈念に行っていた。それでも40人衆は宵より福王寺に攻め込み、長右衛門の家来である土田大学、巴兵部らを討ち取り、菊池は後の山より仁賀保へ逃げた。菅原勘介は笹子に用があり出て居なく、境縫殿助は討ち死にした。

 それより志駄殿に飛脚で矢島八森城を攻め取った事を伝えたようとしたが、志駄修理殿は落城して米沢に向かわれているとのことで、兵庫殿・滝沢殿・赤尾津殿・打越殿が酒田の陣より帰られ、近々矢島退治の出陣があるとお触れが回ってきた。

 矢島40人衆はこうなればどうしようもない。笹子に赤館を築き館を枕にして討ち死にしようと考えた。八森には小貳坊と堀内孫市を残し置いた所、仁賀保氏ら4大将が前杉に向かう事を知り、(小貳坊と堀内孫市に)早々に赤館に帰るべく含み置いた。しかし孫市は何かあるのか、民部らに敵の歩兵4、5五人が鑓を持って登ってきた所を、只一人走り向って槍で突いたが、敵が避け、敵の前へつんのめって転がり首を取られた。小貳坊・柴田が見て赤館に帰り来て知らせた。

 この頃、小介川摂津は赤尾津孫次郎の従弟であり、矢島氏滅亡後孫次郎殿の元に浪人していたが、「矢島遺臣40人衆が籠城したのは不届、由利11頭と言えども今は4頭しかなく、この4頭に矢島遺臣40人衆が戦を仕掛けるなど、もってのほかである。頼むから思い止まって降参し、末永く矢島に居住し続ける事こそ本意だろう」と、家来を遣わして伝えた。矢島遺臣40人衆は赤館で軍議を交わすが、「この戦の前に我々は先祖を討たれている。その上、このような戦をし降参できるわけがない。赤館を枕に討ち死にする外はない」と使者を返した。

 赤館をしつらい、瀬目か峠は難所なので、柵を回して大石を積み置き、佐藤越前、(中略)高橋備中が配置された。4頭の内兵庫殿、滝沢殿は豊川内口を攻める為、瀬目か峠に向かい、打越殿、赤尾津殿は直根口から攻める為、滝に陣取って控えられた。

 12日の未明に瀬目峠の先手が100人ほど徒歩で攻め登る。今野治助は鉄砲が上手く、3人討ち殺すと敵はどよめいた。その時大石を転がし落とすと、人にあたる事は稀であるが登り難くいる所に槍の先を揃えて打って出れば、先陣は混乱して本陣に引いた。其日は川内口の戦は止まった。

 直根口より赤館に取り付くが、道は長沼伝いに1騎しか通れない細道で両側とも深い谷であり、転ぶと人馬ともただでは済まない所である。足軽10人20人切って 出たが、竃地山より鉄砲で近づくものを討ったため1人も近寄れない。そうしている内に兵庫殿が言われるには「瀬目か峠は難所で少数の兵で落としづらい。 椿の方より家の森に夜中に道を作って攻め上ろう。直根口の1隊は、かんじきつらに新しい道を作り人馬を通し、赤館の西大手より攻めるように。」と命令を下 し、夜中に道を大勢にて作った。赤館では、今日の戦に勝ったと喜んでいた。

 13日の朝、方々より新しい道を仁賀保勢が作っていると聞いた所に、早くも直根口の敵は、かん志きつらへまで来て、大手口に向っている最中と報告が来た。 兵庫殿も家の森まで辿りつき、瀬目ヶ峠には人影がなかった。滝沢殿を家の森の攻撃軍にすえ大手口に回られた。打越殿・赤尾津殿・兵庫殿の3頭が攻めたが、 大手も守りが固く鉄砲弓にて防ぎ、大石等を転がして、大木を切ったものを転がしておいたので攻め上ることも難しい。

 家の森では、滝沢殿が向うと遠くから弓鉄砲が放たれ近寄ることが出来ない。

 14日は睨み合ったままで、15日になり付近の百姓共に案内させて足場が良い場所から徒歩で赤館の四方より攻め寄せた。それを見た竃地・家の森に遣わした者たちが赤館に籠り、四方からの敵を防ごうとする。赤館は稲や萱で塀を固め、本丸付近は板塀であった為、外側に敵陣が火を放つと外塀は丸焼けになった。鉄砲が上手いものが代わる代わる敵を討って怯ませたが、四方より敵が攻め寄せ15日の午後4時ころには味方が逃げて10人程になってしまった。その中で鈴木與介は鉄砲に当り死んだ。相庭又四郎も鉄砲に当って倒れたが、金子民部が走り寄って引きずって本丸に連れ戻そうとしたが、四方より敵が迫り、又四郎を捨て置いて戦ったが討ち死にした。

相庭、金子が討死したと知った一揆軍は、残らず逃走して赤館は落城した。40人の内5人討死、負傷者は15人。攻撃軍の死人は20人、負傷者は15人であったと知られる。


 この項は、両者とも大筋はそれほど違いません。…細かい所はだいぶ違いますが。

イ) 慶長5年9月8日に矢島遺臣40人衆が八森城を攻めた。…これは両本ともほぼ同一です。

ロ) 仁賀保兵庫はそれを聞くと(A)本では打越・赤尾津と、(B)本では打越・赤尾津・滝沢を引き連れて八森城を攻め、奪還した。

ハ) 9月13日、赤館攻め。(A)本ではその日の内に落城、(B)本では15日に落城したとされています。…(B)本では八森城落城後、赤館を築城した事になっていますが、たった5日では無理ですね。筆が滑りましたか…。

㉑慶長5年の矢島40人の者共の動向

 まずは(A)本になります。

 この乱の企ては6月頃よりの話で、矢島遺臣40人衆と大河原別当とが申し合わせ、大峰入と名付て行動していた。兵庫殿は上洛したが、西軍挙兵の報を聞き出羽に戻った。しかし治部少輔殿は関ヶ原にて討ち死に、上杉景勝殿は無事であったが酒田9万石を江戸に献上された。信太殿は城を渡して米沢に移った。矢島遺臣40人衆は矢島・赤舘とも落城候し、仙北に引いたのである。

 (40人衆の1人)普賢坊は同9月18日に仁賀保殿に大峰入のお札を差し上げた所、御料理を下された。御酒を飲んでいた所、正左衛門が初太刀で20人程討ち殺した。供の大貳坊は玄関で切られ、小貳坊と俗供の新蔵の両人は、普賢坊の金作の太刀を持って逃げた。冬師の四郎兵衛方に駆け込み、食べ物を貰ったが、四郎兵衛が山の中まで追いかけて小貳坊を殺し、金作の太刀を取った。俗供の新蔵は逃げて矢島に帰った。

 慶長6年7月下旬、仁賀保殿が仙北の大森城を攻められた時、矢島よりも人夫が出た。

続いて(B)本です。

 同年6月中、普賢坊に矢島遺臣40人衆が、江戸に登り大江五郎満安殿の御息女お鶴殿を取立て矢島家の再興を申し立てに江戸に行くことを頼んだ。首尾よく江戸に行き、そこから熊野に参詣して、兵庫殿の御祈念をした。

 9月25日、仁賀保殿へ御札守を差し上げた所、御料理を下された。しかし馳走になっていた最中、仁賀保庄左衛門が普賢坊を襲った。普賢坊は大立ち回りをしたが大勢に囲まれて討ち死にした。普賢坊の供大貳坊も討ち死にし小貳坊と俗供の新蔵は逃げた。彼らは冬師四郎兵衛の屋敷に逃込み、食べ物を貰おうとした。小貳坊は天目に水を貰おうとしてその水を庭の柴垣の付近に溢し、新蔵と2人矢島に向かおうとすると、四郎兵衛も途中まで送るといい、普賢坊の小金作太刀を小貳坊が持っているのを見て、檜渡川の川岸で小貳坊を殺した。新蔵1人矢島に逃げ帰り、其後水を溢した所に柳もたせが生え、それを四郎兵衛が取って食い、死んで子孫が絶えた。

 どうやら矢島氏の遺臣たちは、矢島氏再興をいろいろ画策していたと考えられます。

 (A)本では石田三成とコンタクトを取ろうとしていた様だし、(B)本では徳川家康とコンタクトを取ろうとしていたとされています。しかし、上杉景勝旗下の志駄義秀と同心して矢島で挙兵したのですから、実際の所、徳川家康に…という(B)本の書き方には無理があると思います。

 しかし何故、普賢坊は仁賀保兵庫頭にお札を献上しに来たのでしょうか?。もしかして、「40人衆は上洛していて一揆には関係ないよ。」というアリバイ作りだったのでしょうか?。

 仁賀保兵庫頭の方が一枚上手で、禍根の種はすべて取り除く方針で、矢島遺臣衆を皆殺しにする方針だったと思われます。

 なお、(A)本では仁賀保兵庫の大森城攻めにも動員されたと伝えられています。