12.仁賀保光誠…その8

 慶長5年出羽合戦Ⅱ

Ⅸ、関ヶ原東軍勝利後の由利の情勢

 慶長5年9月30日、山形城に程近く迫った直江兼続の元に、関ヶ原の戦で徳川家康が大勝した事が伝わりました。直江兼続の軍は波を引く如く最上領内から撤退、最上義光はまさに死中活を拾った形となります。間髪入れずに最上義光留守政景の軍は直江兼続軍の追撃に移りました。

 こう成った今、最上義光にとって悲願の庄内奪取は最早時間の問題です。後はいかに秋田実季より先に庄内占領の既成事実を作り上げるかでした。最上義光は10月8日付で秋田実季に書状を送り、湯沢・増田の最上勢を助けて大森城か西馬音内城を攻めるようにいっています。無論(史料193)には「拙者と戸沢境目淀川と申地ニ城を構」て戸沢政盛が秋田実季を通さず、秋田実季が小野寺義道を攻める事が難しいのを承知の上で小野寺氏の支城の大森城・西馬音内城を攻めるようにいっているのです。これは最上義光の時間稼ぎですね。


(史料26)

御状披見申候、仍我等其方へ及行之由申儀ニ付、御機遣之段候条、度々以書状申入候、殊最前赤孫次仁兵庫我等以連判様子申入候、小孫十内府様ニ慮外之始末ニ候条、各申談相働事候、旁其方ハ境近ニ候条、早々可有御出勢之由度々雖申候無御承引、内府様へ御別心不及是非候、小孫十及事理候ハ数日已前之事候条、早々六郷へ可有出勢処ニ、今迄之御延引剰今度行無御同心儀御分別違ニ候、天下へ無御如在之由被顕紙面候、右之仕合ニ候へハ先以偽ニ候、内府様ハ偏ニ秀頼様被成御守立候儀にて無御存候哉、去とてハ程近之儀ニ候条早々御出勢尤候、御領内被相塞候故、赤宇曾を廻、小野寺領へ相働申事候、恐々謹言、

  十月十三日

     戸九郎五郎殿

          返趣

猶以此時ニ候条、内府様へ無二御奉公尤候、聊我等へ不可有御機遣候、以上、


 これは秋田実季が戸沢政盛に宛てた書状です。秋田実季は最上義光の要請によって小野寺義道を攻めることにした。当然ながら戸沢政盛は警戒して領内の通過を許さず、結果的に秋田実季は由利郡を回って小介川孫次郎の領内から仙北大森城を攻める事にしたのでした。「赤孫次」は小介川孫次郎、「仁兵庫」は仁賀保光誠の事ですね。 


(史料27)

直江殿へ之飛力候て可給候、今日玉米迄罷越候様ニと申候、

(中略)

 一、伊達より人数壹万計、最上へ助勢候由申候、但其程ニハ候ましく候哉、鉄砲千、鑓三百、

  弓三百、馬上三百入候由申、是必定之由候、はせんたう取へし候と申左右候、暮々無心元存候、

  藤太郎子不知躰候間、何共笑止候、乍去覚語前候間、不驚事候、恐々謹言、

  十月廿四日     義道(花押)


(史料28)

返々大森之陣被揚候事、先以本望候、取紛候間有増申候、

書中披見候、大森、昨日、由利衆へ無事ニ仕陣を罷上候事、先々かたひま明候、祝着候、

(中略)

一 杉宮・大土・床舞之事候、兼々床舞山田へ被揚候へと申候つれ共、いまにあかり候ハす候

  由候、今分ニ候て、由利衆上候ハゝ、大土・杉宮ハ可居申候、幾度もあかり候へと申候へ共、

  ここもとニて手はしく申つけ候さへ、あかりかたく候間、暮々笑止之事、

(後略)


 由利衆は秋田実季と共に赤尾津領、岩屋領を経て大森城へ迫りました。大森城の城主は小野寺義道の弟の大森康道。この時の大森城攻めは熾烈を極めたようです。城は落城しませんでしたが、大森康道は城を明け渡して横手に退散したと伝えられます。

 由利衆は10月23日に大森城の囲みを解き24日には帰路へ就いています。大森城が敵の手に渡った小野寺義道は、文書にて万が一にも由利衆が西馬音内に攻め込む可能性が無いとは言えないので注意を促しています。


(史料29)

(前略)

一、由利より其口へこし候事ハ、はや有間敷候哉、乍去又々世間も相違候ハヽ不知候間、心用心いたされへく候、

(中略)

    十月廿四日     義道(花押影)


 さて大森城攻めでは小介川孫次郎が抜群の働きを見せたようです。この由利衆の小野寺氏攻めに関しては次の感状が伝わっています。


(史料30)

注進状之趣披見候、何千福孫十郎会津就令味方彼表より相働、敵多数被討捕之由感悦、弥於被忠節可為候、猶本多中務大輔可申候、

  十二月十四日      家康 御判

   赤尾津孫二郎殿


 この感状中の人物「千福孫十郎」ですが、「千福」は「仙北」の事で小野寺義道の事ですね。小野寺義道は由利衆や秋田実季等と戦いつつ、一方では田中清六を介して最上義光に降伏を申込み、身の安全を計っています。さて、この大森城攻めでも秋田氏側の記録では秋田実季が大森城攻めをした事になっていますが、攻められた小野寺氏側の文書には一切秋田実季の名が出てきません。小野寺氏の書状によれば攻めてきたのは由利衆であるとしてます。秋田実季は大森城攻めには唯兵を貸しただけなのでしょうか。

 恐らく…ですが、小野寺義道と最上義光はこの後、和睦したと思われます。

 こうして仙北が一段落した後、由利衆の目は今度は出羽庄内へ向きました。庄内では石田三成の敗北後、最上義光の巻き返しがあり、鮭延秀綱等最上騎下の猛将が破竹の勢いで侵攻していました。

 ですが志田義秀が立て籠もる酒田東禅寺城の守りは堅く、落とす事が出来ません。そこに触手を延ばしてきたのは堀秀治でした。堀秀治もあわよくば庄内を我が手にと野望を抱き、利益の追突する最上義光とは手を結ばず、庄内の北に位置する由利衆の内、小介川氏と岩屋氏に接近し、庄内を挟撃する算段を纏めようとしたようです。この頃、小介川氏と岩屋氏が堀秀治としきりに手紙を取交わしています。


(史料31)

以上

御状本望之至候、仍孫次郎殿此地為御見廻之越令満足候、就其段貴所青毛馬壱疋給候心付之段快然此事候、将亦於其許相調候付而高田弥右衛門付置候処ニ其方被入御精之旨令祝着候、若於出来者御馳走頼入候、猶期後音之節候、恐々謹言、

               羽久太

  十月廿六日           秀治(花押)

    小介川信濃守殿


(史料32)

以上

今度孫次郎殿此地之儀別而令満足候指義無之候へ共、其許為御見廻以後札中入候、随而貴所へ鉄砲弐丁進之候、書音之給迄候猶使者申含候間不就巨細候 恐々謹言、

           羽久太

  十一月二日      秀治(花押)

   小介川信濃守殿


(史料33)

以上

態令啓候、仍南部表一揆蜂起之由、内府様被及聞召、拙者事相働、可致成敗旨依被仰出より、朔日庄内到大浦城参着候、就其一揆悉退散之旨、先手衆より申来候間、我等事庄内ニ有之て、爰許仕置等申付候、其地相替候ハヽ、御知進可被存候、猶期後音之時候、恐〃 謹言、

   (慶長五年)      羽久太

       拾月三日      秀治(花押)

      岩屋右兵衛殿(朝繁)


 (史料31、32)の小介川信濃守がいかなる人物で、当時の小介川氏の当主である小介川孫次郎とどの様な関係にある人物なのかは判別できません。ただ、当主である孫次郎と非常に近い人物で小介川氏内の相当の実力者と思われます。他の史料に出てくる仁賀保信濃守と同一人物かとも考えられます。同じ「大井文書」の中に所蔵されているのでその可能性は否定できないでしょう。

 想像ですが、もしかしたら当時の小介川氏の当主の孫次郎は、信濃守の子なのかな??。とも思います。

 堀秀治は以上の如く出羽庄内を欲していたと思われますが、それを知った徳川家康は堀秀治に(史料33)にある通り南部一揆討伐に当たらせました。つまり庄内は最上義光の切り取り放題にされる事が決まり、これが徳川家康の最上義光に対する恩賞と成った訳です。この後、出羽は雪の季節に成ったので一時兵を引き、来春を待って庄内に総攻撃をかける事になりました。

 秋田実季と由利衆は、大森城攻撃などで最早徳川家康に自分は東軍だと申し訳を建てたつもりだったようです。しかし最上義光はそうは思いませんでした。最上義光は出羽の諸将の非協力的な態度を11月8日付の伊達政宗宛ての書状の中で詰っています。「由利秋田よりまかり出候も、そこそこはひとつニ談合候て、出たる体之由申候て、中々ばかけ成事ニ候」と人々は言っていると愚痴を零しています。最上義光はこの直後出羽の秋田実季の関ヶ原の戦時の不穏な行動を西軍に通じていたとして徳川家康に通報するのでした。

 さて、仁賀保光誠・小介川孫次郎・岩屋朝繁の三人は出羽の役が一段落ついた所で次の天下人徳川家康に早速使いをしています。


(史料34)

為遠路見廻使者祝著候、計爰元平均仕置候條、可心安候、其表之儀爾被入精尤候、猶本多中務大輔可申候也、

   十二月廿五日      御朱印

    仁賀保兵庫頭殿


(史料35)

切ゝ使者殊大鷹一到来、祝著候、将又其表之儀万事被入精之由尤候、猶本多中務大輔可申候也、

   十二月廿五日      御朱印

    赤尾津孫次郎殿


(史料36)

遠路使者殊大鷹一到来祝著候、将又其表之儀、万事被入精之由尤候、猶本多中務太輔可申候也、

   十二月廿五日      御朱印

     岩屋右兵衛殿


 本多中務太輔とは本多忠勝のことですね。赤尾津(小介川)孫次郎は徳川家康のみならず秀忠にも使いし、若大鷹を贈っています。無論、関ヶ原の戦の祝賀でもあったでしょう。

 それに対して出羽の騒乱鎮定に力を注ぐようにとの命令を家康は下したのでした。家康の手紙が、関ヶ原の戦い前に比べ、「恐々謹言」などの丁寧な言葉が無くなっている所に注目すると面白いですね。

 この3者とは対照的に滝沢又五郎は最上義光に使いし、自家の存続を図っています。


(史料37)

態與令啓上候、仍今度横手為御仕置、御下向之由、御太儀存候、然者東禅寺之儀、今に相支候に附而、近日御陣立之儀被仰附候、雖留守中候、定而、承合候而、無如在可遂参陣候、自然此方御方之子細御座候者、可被仰附候、毛頭不可存如在候、猶期後音之砌候、恐々謹言、

(慶長六年)

  三月十三日     滝沢主水正惟仲

   鮭延典膳様

   志村伊豆様


 滝沢惟仲は滝沢又五郎の重臣でしょうか。「様」が「樣」なのか「様」なのか原文の確認が出来ないので家格の上下がわかりませんが、「様」付である事など、彼のおかれた立場…滝沢氏の立場…が見えますね。この頃より滝沢氏は最上義光に接近し出し、由利郡が最上領になるに及び、そのまま最上氏の被官となります。滝沢又五郎が最上義光に接近したのは、どうやら岩屋朝繁との確執が原因であった様です。

 仁賀保光誠も同様の手紙を志村伊豆光安ですね…に書いています。それによると滝沢又五郎と小介川孫二郎も最上義光の関心を得ようと必死になっている姿が見受けられます。


(史料38)

其表為御仕置と御下向之由■■伝聞仕候間、急度飛札に及候、路次中御太儀難申尽候、兼日は参上仕候処に種々御懇切忝存候、然者■之無事の儀、志駄我儘申候間、田清■いろいろ申間敷之儀、被申払候、此上は山形之人々下候、御■之由具に申上候間、何式■■山形江得御意候而、一々■其■候由、従田中清六被申越候、翌日、当六日山形江以早速注進候間貴殿へ申■■■扨又、従此表滝沢赤尾津為御見舞■■下り候間、吾等事も可罷登由存候へとも、■■■曖相切候故延引仕候、到此一両日前東舟を揃様かましき由申来候、吾々領中境近候間、一入無由断(一行不明)此上は是非共可有御出勢候哉、御様子委此御地に奉待上候、追々以(一行不明)猶期砌候、恐惶謹言、

 (慶長六年、月日欠)

               仁兵庫頭

                 光誠(花押)

   志村伊豆守様

       参人々御中


 仁賀保光誠も同様です。最上義光…というよりは天下人となった徳川家康を後に見ての手紙であることは一目瞭然ですね。年月日は不明ですが「志駄我儘申候」という一文から見て、慶長6年3~4月頃でしょうか。いずれ東北の東軍の要として戦った最上義光の元には色々な媚びが各地より舞い込んだであろう事は想像に難くありません。それが「中々ばかけ成事ニ候」と最上義光が侮蔑する一因となるのですね。また、仁賀保光誠の「」の存在も気にかかるところです。

 翌慶長6年4月、最上義光は庄内攻めを再開、仁賀保光誠もこれに呼応して庄内へ攻め込みました。仁賀保光誠は仁賀保領から三崎山の天嶮を越えて上杉景勝騎下の武将の立て籠もる菅野城に取り掛かり、これを攻め落としました。

 次の文書は仁賀保光誠の働きを聞いた徳川家康が仁賀保光誠に与えた感状です。


(史料39)

注進状到来披見候、仍庄内表江相働、始菅野城之責崩、敵多数討捕、殊被疵、竭粉骨段、誠感思召候、尚本多彌八郎可申候也、

 五月三日        御朱印

   仁賀保兵庫頭殿


 本多彌八郎とは本多正信の事ですね。

「注進状、見たぜ!。庄内に攻め込んで菅野城を攻め落としたのを始め、敵を多数打ち取ったり捕虜にしたらしいじゃん。ケガまでしてさー、チョー頑張ったのカンドーした!。」って感じでしょうか。この時の最上義光軍の庄内攻めの総大将は、義光の重臣の鮭延秀綱です。「覚書(仁賀保家にて「古来の覚書」として伝わる)」によれば仁賀保光誠が菅野城を攻める時、最上義光は心元なく思い鮭延秀綱を遣わしたのですが、出る幕はなかったといいます。仁賀保光誠とその余党の軍(「覚書」によれば上下3000の兵)は庄内勢との戦いで目覚ましい活躍をしました。潟保出雲の家臣の稲葉勘解由左衛門潟保出雲自身、石沢孫次郎などの活躍が顕著で、また仁賀保光誠重臣菊地氏が討死し、自身が傷を被る程の奮戦をした事が知られています。鮭延秀綱は仁賀保光誠の菅野城攻め、この後の酒田東禅寺城攻めを見て感じ入ったと伝えられます。そしてこの時の働きが後に仁賀保光誠の運命を変える事となるのです。

 こうして鮭延秀綱や由利衆の働きにより庄内は全て東軍に制圧されました。特に庄内の遊佐郷を制圧したのは由利衆(特に仁賀保氏)と推察されますが、由利の諸氏はこの動乱に託つけて各々自家の勢力の拡大を狙って行動を開始するのでした。


(史料40)

卯月廿九日之御状一昨廿二日ニ於勢州桑名拝見申候、然者酒田表へ御働被成候由尤ニ存候、被入御精故早速相語、近頃御手柄共申候、随而滝沢又五郎貴殿之代官所茂上殿頼入御訴訟被申候とて、御迷惑之由蒙仰候、尤無御余儀候、我等も勢州桑名へ用共御座候而罷在事候間様子一切不存候、本佐州・出羽殿へも相尋ニ人を進候間、定而何とそ可申来候様子、追而従是可申入候、恐〃謹言

  (慶長六年)       本多中務

     五月廿四日        忠勝(花押)

      岩屋右兵様(朝繁)

          御報


 滝沢又五郎岩屋朝繁の間に何の確執があったかは定かではありませんが、滝沢又五郎は最上義光の威を借り岩屋朝繁を訴えました。既に由利衆は一揆としての結束はなく、互いに威を張り合い、天下の勢力の前にその存在は風前の灯といえました。この頃すでに小野寺義道も改易されて無く、関ヶ原の戦の仕置で残った西軍の武将は会津の上杉景勝のみでした。徳川家康はその武力に今だ気を許せなかったのか、景勝の会津移封に関しては次の文書の様な厳重な警戒をしています。


(史料41)

一番  南部信濃守   五千人

 二々 戸沢九郎五郎  弐千五百人

   本堂源七郎    四百人 

   六郷兵庫頭    三百人

三々 秋田藤太郎    六百五拾人

   赤尾津孫次郎  弐百五拾人

    丹加保兵庫   百八拾五人

   滝沢刑部少輔  六拾人

   打越源太郎   六拾人

 四番 最上修理大夫  六千六百人 

右之外出羽守之召連候分ハ最前被仰出候、

(中略)

 都合弐万六千五拾人

慶長六年八月廿四日   家康朱印

右是ハ景勝国替之時寂上出羽守ニ被下候書付、


 当然ながら上杉景勝方に付いた小野寺義道の名はありません。岩屋朝繁の名が無いのは先の滝沢又五郎との訴訟騒動が関係しているのでしょうか。石高に対して秋田実季の動員数が少ないのが気になります。戸沢政盛が2,500人に対して650人。つまり、この動員数は石高が反映されたものではないということでしょうか。


(史料42

尚以御鷹侍屋之儀、七月十日ニ被為上候由、被入御念候通御父子様へ可申上候、以上、

寄思召御懇札忝拝見仕、仍春中御上洛被成、於伏見御仕合能御座候而、御満足被成候由目出度奉存候、然共御国御在所ニ火事出来申ニ付而、御下向被成御普請等被仰付候由、大納言様へ披露仕候処ニ、尤此地へ之儀者不苦候間、伏見少々可被任御指図ニ之旨、御意候如蒙仰候、御国替付而御知音之各当地へ御越被成候条、是ニ而申談儀共候、委曲令期後音候、恐惶謹言、

  (慶長六年)    本多佐渡守

    九月五日        正信(花押)

     岩屋右兵衛様(朝繁)

          御報


 岩屋朝繁は持前の外交力により、本多正信、本多忠勝、榊原康政等と誼を通じ、後に最上義光家臣としてですが由利郡にその身を残しました。それに比べて秋田実季、仁賀保光誠、打越左近、赤尾津孫次郎等は上杉方与同の嫌疑が掛りました。

 最上義光はこれ以前、秋田実季の動向を嫌疑の目で見ていましたが、上杉家の移封後、本多正信と組み秋田実季を上杉方であるとして告発してきました。本当はこの告発は上杉景勝や小野寺義道に対する仕置以前でしたが、上杉景勝移封迄は波風が立たない様な政治的配慮が成されていました。ですので上杉景勝移封後は再び秋田実季西軍与同の問題はクローズアップされる事になったのです。

 無論、当時の書状をみるに秋田実季が徳川方である事は明白です。しかしその動向は自家中心的で、山形城の手前まで攻め込まれて危急存亡の秋に陥った最上義光には、のらりくらりと出兵しないでいる秋田実季を敵であると信じて疑いませんでした。 

 さて、秋田実季は江戸表の大久保忠隣邸にて老中や最上義光相手に反論することになっていましたが、徳川家康は忍へ鷹狩に行き、それ所か肝心の最上義光も現れず、家臣の坂紀伊守が代理としてやって来ました。実は最上義光はこの時徳川家康と共に鷹狩りに行っていて、この対決は幕府老中と坂紀伊守による尋問その物でした。この時仁賀保光誠・赤尾津孫次郎・打越左近榊原康政により出廷を命ぜられます。最上義光の臣坂紀伊守はその場で仁賀保光誠を西軍と通じていたのではないかと指摘します。仁賀保光誠はこれに返答をしませんでしたので、秋田実季には西軍与同の嫌疑が掛りましたが、秋田実季がうまく取り繕った為その場は取り敢えず収まりました。秋田氏側からの資料ですので、現実はどうですかね。

 仁賀保光誠等は確かに血を流して戦いましたが秋田実季はのらりくらりとして居ただけです。 …ま、兵は貸したのでしょうがね。結果として、彼らの嫌疑は晴れましたが、秋田実季・仁賀保光誠・打越左近の3名は先祖伝来の地から常陸の地に移封される事になりました。これは懲罰的なものではなく、佐竹氏の移封と最上氏への領土割譲の余波を受けたものですね。特に仁賀保・打越の両名に関しては、この後、小大名として色々な幕府方の役職についている事からして、普通の転封だったのでしょう。

 こうして由利衆の関ヶ原の戦いは終りを告げました。