24.仁賀保氏と宗教

神社

 仁賀保氏が信奉していた寺院として、まず上がるのは院内の七高神社でしょう。

 当時の旧七高神社は山根館の北隣の尾根上に同程度の比高の場所にありました。七高という名から推察できますが、修験系の神社でした。無論、鳥海山信仰との連動があったものでしょう。当時は非常に信仰されていたようで、由利氏と鳥海氏との諍いなどの逸話が伝わっております。

 また、山根館本丸東隣には通称「八幡屋敷」という土地があり、八幡神社があったと伝えられております。明治・大正以降採油事業の資材置き場になり、郭の形以外は遺構は破壊されておりますが、現在の馬場集落に、ここより勧進したという八幡神社(個人有)があります。源氏でありますので八幡神社を氏神として祭ったものでしょう。領内には多数の八幡神社が散在しております。

 仁賀保氏は稲荷神社も崇敬していました。芹田の稲荷は仁賀保氏と共に下ってきたという言い伝えがあるようです。仁賀保氏累代殊の外大事にしていた様で、仁賀保2000石家・1000石家の陣屋にも稲荷神社が祭られておりました。

 仁賀保神社

 現在、仁賀保家の2000石家・1000石家陣屋跡に仁賀保神社があります。仁賀保家の祖・大井友挙及び中興の祖と言われる仁賀保挙誠(光誠)が祭神として祭られています。これは明治になってから領民の発議による創建の神社でありますが、関連のものとして挙げておきます。

寺院

 大井氏は信州より仁賀保に赴き、仁賀保にて自立した際、土地の有力寺院を自らの菩提寺にしています。それが現在、仁賀保郷の院内集落・山根館の入口にある曹洞宗寺院の賀祥山禅林寺です。禅林寺は元々は真言宗の古刹で、後の世に曹洞宗の高僧である直翁呈機和尚により、曹洞宗に改宗した寺院です。直翁呈機は道元徹通義介瑩山紹瑾明峰素哲玄路統玄宝山宗珍直翁呈機と続く明峰派の流れを汲みます。

 直翁呈機の開いた禅林寺は仁賀保氏の庇護の下、寺勢が強く、矢島氏領を併呑すると矢島に、江戸幕府が出来ると江戸に末寺を開くなど、江戸時代の草創期までは相当、勢いがあったようです。しかしながら仁賀保家が3分割し、本家筋の7000石家が途絶え、仁賀保郷に六郷氏・生駒氏の領土が入り組むようになると寺勢が衰えるようになりました。