Ⅵ仁賀保甲斐守



仁賀保誠成

 仁賀保甲斐守こと仁賀保誠成は、長い歴史の中で仁賀保家の分家的な存在になった長谷川家出身の人物です。

 長谷川氏の先祖は『寛政譜』によれば美濃の斎藤氏に仕えていた一族で、長谷川重成の時に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主を変えてうまく生き残ったようです。その孫にあたる重辰は妻の実家である仁賀保氏より養子を貰い長谷川家を継がせました。長谷川重賢といいます。以後、長谷川氏は仁賀保氏の分家的な扱いとされ、仁賀保家に後継ぎが無い時、長谷川家より養子として仁賀保家を継ぐ者が続出することになります。

 なお、長谷川重賢の三男の次郎兵衛松平次郎左衛門清親に養子に赴き当初、松平治郎兵衛を名乗りました。この松平家は形原松平家の分家であり武蔵国多摩郡の内に1,200石を知行していました。

 元禄8(1695)年7月25日に徳川綱吉に拝謁、同9年11月19日に御近習番となり廩米300俵を賜りました。更に同10年2月9日に御次番に転じ23日に小納戸役、5月29日には御小姓となりました。後、徳川綱吉の「血脈の家名に改めるべし」との仰せにより仁賀保を称し松平家より独立、別家となりました。

 元禄12(1699)年12月11日、從5位下甲斐守に任ぜられ7,000石を拝領しますが、同13年綱吉の勘気に触れ柳沢吉保に預けられ、川越に蟄居させられました。

 彼の墓は川越の広済寺にあるようです。墓に書かれた彼の戒名は「秋窓院殿前甲州太守心月匡円居士」、更に「宝永元甲申(1704)年七月二十日」「源氏仁賀保甲斐守誠成公」と記載されております。

 おや?。換気をこうむって蟄居させられたわりには、えらく手厚いなあ。