11.仁賀保光誠…その7
慶長5年出羽合戦Ⅰ
Ⅷ、関ヶ原以前の仁賀保光誠の動向
慶長3(1598)年8月18日、豊臣秀吉は身罷りました。
それを追う様にして翌年、五大老前田利家も亡くなり、五奉行の石田三成(というか、反徳川派)と徳川家康の対立は激化の一途をたどります。その過程で徳川家康は仮想の敵である前田利長を屈服させ、遂には天下を狙う所までその勢力を拡大させました。 徳川家康には反徳川勢力を一網打尽にするための口実が必要でした。豊臣政権から反徳川派を一掃する為の仮想の敵ですね。当初は前田利家で利家没後はその子の前田利長だったわけです。前田利長が徳川家康と争う事を避け徳川家に下った為、家康は次のターゲットを探していました。
家康がターゲットを探す中で白羽の矢が立ったのが上杉景勝でした。上杉景勝は5大老の1人として政権内に重きを置いた人物で、秀吉が没する直前に会津120万石に移封され領国経営に奔走しておりました。上杉家にとり会津の前領主蒲生氏郷の居城である会津若松城は手狭であり、新たに会津若松城の北西に神指城を建築を始めておりました。
これを好機と見た徳川家康は、「上杉景勝が謀反を起こすのではないかと疑念を抱いた」として、上杉景勝に上洛を命令いたしました。これは景勝の後に越後に入った堀秀治や、上杉家から出奔した藤田信吉の讒言によるものです。 家康にとってみれば渡りに船ですね。
景勝がこれを拒否すると徳川家康は激怒して(したフリをして?)上杉景勝討伐を決意いたしました。上杉景勝も景勝で、公然と城を修復し直し対抗意識を露にします。無論、上杉景勝に天下を狙う意図があったとは考えられません。恐らく「喧嘩を売られたから買うまでだ。」位なのでしょう。…「花の〇次」だな。ですが秀吉が死んで天下が麻の如く乱れる前兆を、戦国武将の敏感な鼻で感じた事は否めないと思います。旧領である越後の獲得や、自分と敵対して何かと目障りな最上義光や伊達政宗などをこの際に潰してしまえと思っていたかもしれません。奥羽には伊達政宗、最上義光、秋田実季の様に火花を散らす者たちが集結していて、一触即発の状態でした。
慶長5(1600)年5月3日、徳川家康は諸大名に会津討伐を命令しました。当然これは大坂に巣食う反家康勢力を誘い出すという一石二鳥を狙った物と思われますが。何れにしろ徳川家康を筆頭とした7万と号する軍は、東海道を会津にむかって驀進を開始する事になりました。これに先だって徳川家康与党の筆頭の最上義光は仁賀保氏等由利衆に書状を送り、徳川方与同を勧めています。
(史料17)
(前欠)
景勝上洛被申間敷由被申ニ付而、内府様近々御出馬候ハん由、被御触催候、併以前■景勝へ之御使なと被申候いなの圖書と申候人を、為御雇被為指下候、何も此返答次第たる由申候、依樣躰早々人を上進申候へとて、達者なル者を被指添、御下被成候、爰本之御様子ハ、十二九者御出馬可有之躰にて候、乍去此上景勝被罷上候歟、又何とそ侘言をも被申上候而、御陣之無之も不被存義共候、若又御陣ニも候者、雖無申迄候、か樣之隣国ニ御陣なとの御座候事者、内府様御一世中ニ者有之間敷由存条、人数以下之事御身上より過分之躰ニ被成候而、御奉公之義今度ニ御座候由存候、又重而何方ニ御陣なと候共、其時者又随而之御奉公ニも候へ者、遠近之分候而、今度之御奉公一入之由存候、如此申候義も、内府様於御前、各御取合をも何とか申度と存候心中故、申候義共候、今度之義者被入御精候ハん事、不可有御油断候、(中略)何角取紛茂候間、定而懇之義をも申間敷候へ共、別而被懸御意候而可給候、馮入存候、何之御用等も候者可被仰候、定而心疎有之間敷候歟、尚此上替違も候者可申入候間、早々、恐々謹言、
羽出羽守
五月七日 義光(花押影)
仁賀保殿
赤 津 殿
滝 沢 殿
参
最上義光らしい、非常に裏のある文書ですね。彼はこの文書の中で、徳川方に与同すればどれだけ利があるかを説いています。「か樣之隣国」に徳川家康が出陣してくることなど2度と無い事であり、できる限りの兵を出して家康に良い格好を見せる様にと勧めていますね。それは最上義光が家康の御前で、あなた方を何とか取り立てたいからだと言っています。現世利益を見せて家康方に味方に付け、あわよくばそのまま配下に取り込んでしまおうという魂胆ですね。この文書によりこの時点迄仁賀保光誠等由利衆は徳川家康とはまったく面識が無かった事が分かります。
仁賀保光誠等由利衆にとっては徳川家康の出兵は由々しき問題でした。仁賀保光誠が交友を持っていた大名は秋田実季、上杉景勝、大谷吉継などいずれも西軍方で、自家に不利でした。まして最上義光とは本庄繁長と最上の戦いで敵対したままでした。この最上義光の申し出はまさに「渡りに船」という所で、由利衆は一も二もなく東軍に身を投じるのでした。
仁賀保光誠は同じ由利衆の小介川孫次郎と共に徳川家康に使者を出しました。対して家康は小介川孫次郎・仁賀保光誠に返事を返しました。
(史料18)
遠路使被差上祝着候、事多故黒印申候、委細者自江戸可申遣候、猶田中清六可申候之条 令忠略候、恐々謹言、
六月十日 御諱御朱印(御文言ニ者御黒印ニ御座候得共、御朱印ニて御座候)
小介川孫次郎殿
仁賀保兵庫頭殿
この頃の家康の文書は非常に丁寧ですね。天下人ではなかったので豊臣秀頼旗下の一大名である事と、自身に味方に付けなければならないという配慮で一杯です。特に「黒印使うよ~。でもね、これは貴方を格下に見たんじゃないよ~。」という理由付が非常にいじらしいです。黒印は目上が略式に…私信で使うもので礼を欠く様ですね。朱印状も命令文ですが、家康にとっては黒印の方が明らかに格が落ちると認識していたことがわかりますね。 で、文書には「黒印」とありますが、「やっぱ朱印でないとねー」という意思が働き、朱印状になったようですね。
内容的には 仁賀保・小介川の2氏の参陣の申し出に対して、徳川家康が「命令すっから待っててちょ。」という内容ですね。ついで家康の陣立てが決まり、仁賀保光誠等は出羽庄内の押さえとして出兵する事になりました。なお、同時期に(史料18)と同じ内容の文書が(史料19)に記された諸侯に出されています。
(史料19)
一 南部・秋田・横手・六郷・戸沢・本堂ハ最上口へ可出之事
一 赤津・仁加部ハ庄内可為押事
一 北国之人数米沢表へ打出、会津へうち入ニをひてハ、山形出羽守ハ可為先手事
一 南部・秋田・仙北衆ハ米沢之可為押事
一 扶持方之兵糧壹萬石も貳萬石も入次第、山形出羽守ゟかり候て、於米沢扶持方可出之者也、
七月七日
中川市右衛門
津金修理亮
(史料20)
飛脚到来祝著候、仍会津表出陣之儀、来廿一日相定候間、其方事庄内口為押可被罷在候、猶田中清六可申候、恐々謹言、
七月七日 御諱御黒印
仁賀保兵庫頭殿
小介川孫次郎殿
丁寧ですね。さて、天正16年に仁賀保光誠に滅ぼされた矢島満安の遺臣は、幾人かは仁賀保氏に使え、幾人かは矢島氏再興の夢を持ち潜伏していました。その内、矢島氏遺臣で矢島家再興を狙う者達40名は、4月頃より上杉討伐による騒乱を嗅ぎ付け、上杉氏家臣で酒田城主である志田義秀と連絡を取り、矢島家再興の機会を伺っていました。彼らは「大峰入り」の山伏の格好で各地を回り、一揆の準備をしていたそうです。志田義秀にしても最上義光攻撃の為、最上川を遡る為には背後を仁賀保氏等に突かれぬ為、攪乱しておく必要がありました。
それを知らぬ仁賀保光誠と小介川孫次郎は、徳川家康に呼応して別々に軍を率いて庄内に攻め込みます。後の家康の書状から仁賀保光誠は吹浦川を挟んで菅野城の対岸の箕輪舘か野沢舘に陣を引き、小介川孫次郎は庄内と由利の境の三崎山に陣を引いたらしい事がわかります。「矢島十二頭記」によれば滝沢・打越の2氏もこれに従って出陣したようです。
この他にも由利衆の内、相当の氏族が陣借りして加わっていたようです。潟保氏の配下の稲葉勘解由左衛門は、主の潟保氏が戦いに参加したがらないので、無視して滝沢氏に加わっていました。石沢氏も陣借で出陣しました。
上方では徳川家康の上杉討伐の隙を突き、石田三成等が挙兵しました。
「待ってました♡」とばかりに徳川家康が軍を江戸に帰すと、奥羽の諸侯の中には動揺が広がります。そりゃそーですね。昔日の勢いは衰えたとはいえ、上杉謙信時代より武力にかけては天下一品の上杉軍ですから。
山形城に集結した輩…南部・秋田・横手・六郷・戸沢・本堂等ですが…は戦わずして領国に帰国、南部領内では伊達政宗の支援を受けた和賀忠親の一揆が勃発し、南部利直はこれを討伐するのに忙殺されます。所で、7月7日の時点で、小野寺義道が徳川方になっていたのは注目すべき点でしょう。彼は元々は西軍などどうでもよくて、ただ最上義光に奪われた現在の湯沢市近辺を取り戻したい、昔の様に仙北の諸将を傘下に収め、昔日の小野寺氏の栄光を取り戻したい。ただ、その一点だけだったでしょう。ですので、石田勢の挙兵により混乱した8月上旬になり、反最上氏として対立することになるわけです。
この時期、上杉景勝と領土を接する諸将の多くは、上杉氏とも誼を通じていたようです。
(史料21)
追而、勢三方所労之由、無心元存候、無油断御養生専一候、以上、
御便札本望至極ニ存候、白川表弥無事之由、珍重ニ存候、(中略)上方之様子、正宗も聞届候故と存候、又最上口之儀も、南部・仙北衆上総才りやう候て引拂候故、最上無正躰取乱候由申来候、油利ハ庄内一味仕候、小野寺殿も同前ニ候、越後之儀、村溝無御別条候計ニ而も不相済候条、四五日以前堀兵殿を遣申候、定而可相済候、自然停候ハ、仕やう共有之事ニ候、可心安候、一両日中ニ佐竹ゟ使者候由申来候、自然若松へ参候者、御左右可申入候、恐々謹言、
八月十二日 直山
兼続(花押)
岩備殿
御報
「南部・仙北衆上総才りやう候て引拂候故、最上無正躰取乱候由申来候、油利ハ庄内一味仕候、小野寺殿も同前ニ候」という一文から、南部・仙北の諸侯が引き上げて最上義光が孤立し、由利衆や小野寺義道は直江兼続と気脈を通じた事がわかります。ただ、この「油利」というのがもしかしたら矢島遺臣一揆の事かも知れませんし、そもそもプラフなのかもしれませんが。何れ首鼠両端を決めかねて両軍に通謀したのは当たり前の事で、徳川家康はこの様な奥羽の動揺を見て次のような書状を与えています。
(史料22)
遠路使札到来、祝著候、仍庄内口為 押在陣候由、太儀共候、然者就上方鉾楯令上洛候 條、先々有帰陣自是左右迄可有休息候、尚本多彌八郎可申候、恐々謹言、
八月廿一日 家康 御判
仁賀保兵庫頭殿
徳川家康は小介川孫次郎や外の出羽の諸将に対しても同内容の書状を送っています。
この書状を受けとった仁賀保光誠等は庄内より由利郡に兵を引こうとしましたが、その矢先の9月8日、矢島満安の遺臣40名が蜂起、仁賀保領の矢島八森城を襲いました。矢島八森城は矢島郷の中心にあり、山根館と最も連絡を取りやすい場所にあり、仁賀保氏の矢島郷に於ける統治の拠点として最も重要な城です。当時城番衆は城を留守にしており、一揆勢は楽々矢島八森城を奪取、城番衆は八森城に帰る事が出来ずに城下の福王寺に入りました。
しかし一揆勢は福王寺をも攻撃、城番衆三人の内菊池長右衛門は討死、酒井(境)縫殿助は仁賀保へ逃げ帰り、菅原勘之介は笹子より仙北に落ち延びました。
何度も言いますが、矢島遺臣一揆は上杉景勝軍と気脈を通じておりました。よって、これと戦う仁賀保光誠は嫌おう無しに徳川方与同となったわけです。尚、秋田氏側の資料では矢島遺臣一揆は小野寺義道と通謀したものだとしていますが、8月上旬まで小野寺氏は東軍についており無理がありますね。後述しますがこれは秋田実季の行動を正統化する為の物ですね。
仁賀保光誠はこれを聞くな否や小介川孫次郎・打越孫太郎・滝沢氏らと共に領内の一揆討伐に庄内から取って返し、これを討伐しに出陣しました。仁賀保軍の進撃に八森城は脆くも落城、一揆勢は酒田より会津に逃れようと考えましたが、仁賀保光誠の追撃は鋭く、逃れ難く思った一揆勢は親妻子等と共に笹子(由利本荘市鳥海町上笹子)の赤舘に籠城しました。
仁賀保光誠は川内より瀬目ヶ峠を通って峰伝いに新道を造り、赤舘に直に攻め寄せました。小介川孫次郎と打越孫太郎は直根より「かまちひら」へ登って赤舘を眼下にして攻め、9月13日の夕方迄に攻め落としました。矢島遺臣一揆の親妻子等は矢島若しくは仙北に逃げたそうです。
(史料23)
矢島事従荒澤地根子迯重々申来候条、是非共御口江指懸■安危之由存候處、不知行方罷成候由、自百宅口注進候、先以大慶候、偏各被相伝故ニ候、此上之儀も御口之事可持置、可得貴意之由存候、如何様重々■頼入候、委細御使任口上候、恐々謹言、
九月十六日 義■
瀧澤中務少輔殿
この文書で「義■」となっているのを先人は大宝寺義氏の事としているようですが、内容からすると慶長5年の矢島・笹子一揆の事で「義■」は最上義光の事ではないでしょうか。ところで滝澤中務少輔って誰でしょうね??。滝澤又五郎の家臣か…もしかしたら滝沢氏の一族で仁賀保氏に仕えた一派ですかね??。
さて此の矢島遺臣一揆討伐には秋田実季も出陣している事が知られています。後に秋田実季は西軍与同の疑いを掛けられた時、矢島遺臣一揆討伐と仙北大森城攻めの2つを根拠に反論しています。
しかし仙北大森城攻めは関ヶ原の戦の後で、東軍に参加していたという証拠にはなりません。必然的に矢島遺臣一揆討伐が秋田実季東軍であるという証拠になるわけです。ですが秋田実季の行動を「秋田実季会津陣扶持方算用状」から見ると、仁賀保光誠等により矢島遺臣一揆が鎮圧された後の9月16日に兵2,000で出陣し、26日には帰って来ています。先人も言われておりますが、この秋田実季の行動は一揆討伐に託けた由利郡併合作戦だったのでは無いでしょうか。秋田実季は思いの外早く一揆が討伐された為、仕方なく帰ったのではないでしょうか。
この秋田実季の行動に前田利長は疑念を抱き、9月18日付の実季宛の前田利長書状にて「貴殿義も御出勢ノ御覚悟専一候」と出陣を催促しています。
(史料24)
態令啓候
一 米沢ヨリ最上表へ被相働所々被行候、今の分ニてハ山形も可為落居候哉、然共政宗無異儀候ハゝ
別條有ましきと存候、
一 仙北小野寺孫十郎会津一味ニて最上分少々行候、戸沢己下小孫ニ同心ニて候、六郷事無ニ羽出羽
方と一味ニて候へ共小身ニ候間可有如何候哉、
一 我等式事最前申筋目聊無相違候間、只今事新不及申候、油利之衆何も無ニ内府様へ御奉公可仕と
の覚悟ニて我等と申談事候、何も小身之衆ニ候間庄内境近候へハ別而機遣之事候、
一 南部方事、政宗さへ無異儀候者、定別條ハ候ましく候、只今迄ハ何方へも働なと仕躰無之候、
一 去廿二日之御報当十日ニ令参着候、同十一日ニ、南部内ニ堅人留候て令帰参候、さ候へハ諸方不
通之事、此者ハ若と存指越申候、もはや此後ハ有無ニ不通申候、右之段可然様ニ御披露可給候、
恐々、
九月廿七日
有 中 様
榊式太様
佐淡州様
これは秋田実季が徳川家康軍の首脳部に出した文書です。文書中の「今の分ニてハ山形も可為落居候」という一行が当時の奥羽の諸将の実感だったのかは不明ですが、「政宗無異儀候ハゝ別條有ましきと存候」という一文は、秋田実季が最上義光に対して直接の援軍を出さない理由付に過ぎませんね。とにかく伊達政宗の動向は奥羽の諸将の注目の的だったようです。伊達政宗の動向如何によれば奥羽の東軍有利の戦局は逆転する可能性が多大に有った訳です。それとも秋田実季には伊達政宗が会津上杉景勝と与同したのならば徳川家康には負けないという腹があったのでしょうか。
しかし、この文書が出された頃の最上軍対上杉軍の戦況は、最上領は北は酒田城主志田義秀が村山郡に進出、西は六十里峠を越えて尾浦城主下吉忠が寒河江・白岩・谷地の城々を攻略、南からは直江兼続が畑谷城を落し、最上領は山形城を中心に半径十㎞の地点迄蚕食されていました。これでどうして大丈夫だと言えるのでしょうか。
いずれ9月に入ってからの直江兼続と最上義光の戦の最中、秋田実季の動向は富に忙しさを増し、その行動は特に他氏領への侵略、どさくさ紛れの火事場泥棒的な行動が目に付くようになります。
(史料25)
態申入候、仍其元御堅固之由尤存候、隨而由利中之面々と申談、近日庄内へ急度可相働候間、志給人数定而可引返候哉、其御心得ニテ尤存候、か様之行米沢より行在之刻より雖令相談候、南部信濃覚悟不見届候故令延引候へ共、莵角無二内府様へ御奉公可申上覚悟ニ候間、諸方ニ無構、近日可令出陣候、拙者と戸沢境目淀川と申地ニ城を構在候事候、南部双方之通路被相留候故内府様へ及使者候へ共、早々令帰参候、我等事無二御奉公可申覚悟ニ候間、其元其段被仰上可有候、此方よりハ不通之躰候まゝ不及是非候、恐々謹言、
九月廿七日
羽々別当
人々中
これも秋田実季が最上義光に出した文書です。秋田実季は、自称「東軍」として行動しますが、その行動原理は他氏の領土の征服でした。ここまでに戸沢氏領や由利郡を征服できなかった秋田実季は、最上義光に加勢するという大義名文の元に庄内に兵を送る事を宣言しました。これは志田義秀が最上義光攻めに出た所を狙っての空巣的な色合いが濃い行動です。無論由利衆もこの誘いに乗って出兵を決意したと思われます。
この書状を見て驚いたのは最上義光でした。最上義光は天正11年より16年迄庄内を領し、本庄繁長に敗れてその領土を失ってからは庄内領の回復こそ義光の悲願でした。その庄内を領する上杉氏が反徳川方にまわった今こそ庄内の回復の好機、それを横から掠め取ろうとする秋田実季や由利衆の行動が、直江兼続と死闘を繰返し劣勢に追込まれている最上義光の不興を買いました。しかしながらこの後戦局は大きく急変するのです。