Ⅰ仁賀保2,000石家


 仁賀保蔵人…良俊…晴誠などと呼ばれる人物が領した仁賀保7,000石家、仁賀保主馬700石家が寛永年間に跡継ぎなしで改易になった後、残った仁賀保家の1つです。

初代 仁賀保誠政

 慶長6年(1601)生まれ。幼名を寅之助・淀吉といい、元服当初は内膳光政と名乗りました。後に誠政に名を変えます。将軍家光を憚っての事でしょう。また幼名である「寅之助」は恐らく加藤清正にあやかられたものでしょう。…淀吉も淀城がらみでしょうかね?。系図では蔵人・誠政・誠次の3人とも北条氏直配下の田村掃部の娘が母である事になっていますが、実際は蔵人と誠政・誠次の2人とは母が違うことが分かっています。

 彼は寛永3年に仁賀保光誠の遺領の内、主に平沢・院内2,000石を引き継ぎました。

 誠政は元服後、元和2(1616)年より、世継ぎ時代の家光に仕え、そのまま家光の中奥奉公になりました。その後、稲葉正勝が頭を務める書院番一番組となり、その後晩年まで小姓組を勤めました。一時、松平忠直の改易に絡み、寛永17年と慶安元年の2度、使者として赴いています。

 彼の奥さんは桑山貞晴…通称「小傳次」と言われる武将であり茶人ですね…の娘です。

 承応2年(1653)10月20日、53歳で没し、青松寺に葬られました。格臾全逸居士

2代 仁賀保誠尚

 寛永元(1624)年生まれ。孫九郎を称します。最初、小普請でしたが、父の家督を継いだ翌年の承応3年に父が没する間際まで勤めていた小姓六番組へ入りました。彼も没するまで小姓組に居ました。彼の奥さんは母の兄桑山貞寄の娘です。従妹ですね。

 寛文10(1670)年11月4日、47歳で没して青松寺に葬られました。霜コウ(竹かんむりに正)院寒渓普徹居士

3代 仁賀保誠信

 明暦2(1656)年生まれ。始小十郎、後に孫九郎を称します。父が没した時…元服していたのかな?。何れ将軍に初御目見したのが天和元(1681)年に徳川綱吉に会ったのが最初ですね。

 恐らく父が没した時、彼は元服しておらず、父の小姓組の地位を引き継げなかったのではないかと推察します。よって当初は小普請組に編入され、元禄9(1696)年7月5日になって、やっと小姓組一番に入ることが出来ました。

 その後は順調で、元禄10年に森衆利18万6,500石が改易になると、美作国津山に目付として赴き、翌元禄11年には火事場目付、元禄16(1703)年には小姓組五番与頭になり、布衣を仰せつけられています。徳川家宣の時代にも小姓組与頭を勤めました。その後病にかかり宝暦7(1710)年5月4日に母方の従弟の子を養子とし、5月15日に55歳で没しました。墓所は青松寺、緑峯院機山玄頓居士

彼の妻は稲垣重氏の娘です。

4代 仁賀保誠依

 元禄元(1688)年生まれ。2代誠尚の妻の姉妹の孫に当たります。誠尚の妻の兄弟は旗本都筑為常に嫁し、その孫の都筑又四郎が仁賀保家の養子になりました。つまりは先代の誠信から見れば従弟の子ですね。ちなみに父は都筑為昌です。

 宝永7(1710)年閏8月21日に徳川家宣に家督相続の御礼をしています。当初は小普請でしたが享保9(1724)年に小姓組二番に入りました。

 しかし、間もなく病気になり享保10(1725)年8月1日に38歳で没しました。墓所は青松寺、登仙院華嶽禅桂居士

 彼の先妻は桑山元稠の娘で、名を「くま」と言いました。後妻も同じく桑山元稠の娘です。桑山元稠は2代誠尚の妻の兄弟ですので、「くま」から見れば従弟の子と結婚したことになります。因みに誠依の跡を継いだ長吉は桑山元稠の孫であり、非常に近親で縁組をくり返していたことが分かります。

5代 仁賀保政春

 正徳元(1711)年生まれ。名を長吉といいます。旗本桑山元武の三男です。仁賀保家を継いだ享保10年の12月7日に徳川吉宗にお目見えしました。当初彼も小普請組で、翌11(1726)年6月7日に徳川家重小姓になりました。

 しかし政春は享保14(1729)年には体調を崩し、5月4日には桑山元武の兄、桑山孝晴の子…つまり父の従弟…である誠胤を養子に取り、19歳で5月16日に没しました。墓所は青松寺、紫雲院徳応浄感居士。妻はいません。

6代 仁賀保誠胤

 正徳2(1712)年生まれ。名を鉄三郎といいます。また帯刀と名乗りました。享保14(1729)年に仁賀保家の家督を継ぎ、小普請組に入りました。

 しかし享保19(1734)年には病身となり、同年11月9日に遠縁の山五郎を養子に取り、その日の内に23歳で無くなりました。墓所は青松寺、隆泰院好山了頓居士。妻はいません。

7代 仁賀保誠陳(誠庸)

 享保2(1717)年2月7日生まれ。名を山五郎と称しました。彼は先代誠胤の曾祖母の兄弟である河野道宗の曾孫になります。つまりは二従弟の子同志という事になります。…血縁といえども遠いですな。おそらく末期養子だったのでしよう。

 彼は享保19(1734)に家督を継いで小普請組に入りました。翌享保20年3月19日に徳川吉宗に拝謁、元文5(1740)年11月22日に至り小姓組四番に入ることになりました。徳川家重の時代の延享2(1745)年6月には大阪目付代として大阪へ赴きました。翌3年3月18日に帰京、その後、小姓組に再び入ることになりました。徳川家治の明和7(1770)年に至り、誠陳は小普請入りを申請して小普請となりました。翌8年8月8日隠居、19日には剃髪して旧山と名乗りました。

 その後安永3(1774)年に58歳で無くなりました。墓所は青松寺、旧山学月居士。妻はいません。養女として先代誠胤の弟、桑山延晴の孫「くま」を養女として、同族である仁賀保1,000石家から養子を取り跡継ぎとしました。

8代 仁賀保誠肫

 延享4(1747)年9月23日生まれ。名を孫九郎といいます。また斧馬内膳と名乗りました。

 彼は宝暦13(1763)年10月7日に誠陳の婿養子になり、明和8(1771)年に家督を継ぎました。彼の父は仁賀保1000石家の誠之で、仁賀保光誠の血筋を伝えております。

 彼は当初、小普請組に入り、翌明和9年に徳川家治に謁見後、安永3(1774)年8月4日に小姓組六組へ入りました。寛政7(1795)年1月11日、家治の御前にて御使番を命じられ同年12月17日には布衣、同11(1799)年6月6日には大阪御目付代を仰せつけられ大阪へ赴き、9月18日に帰京しています。更に文化4(1807)年12月23日には先手鉄砲組頭を命ぜられ、文化14(1817)年7月21日には西丸御持筒組頭を仰せつけられております。…71歳だぜ。流石に老齢ですよね。しかし同年11月20日には西丸御番を仰せつけられ、徳川家慶にも謁見しています。

 彼の時代の仁賀保家は和泉屋(食野家か?)に1,416両(文化8年)、そのほかを含めると2,000両を超える借財があり、財政再建に努めていたようですが、様々な幕府の用向きにより領内の賦課金がなければ破綻する状態であったようです。

 誠肫は文政4(1821)年5月29日、75歳で没しました。墓所は青松寺、感得院修因成練居士。まあ、晩年までよく働いたものです。

 彼の妻「くま」は後に「」「」と言い、文化7(1810)年3月5日、55歳で無くなっています。

9代 仁賀保誠昭

 天明4(1784)年10月25日生まれ。名を斧三郎といいます。長じて内膳孫九郎を称したようです。先代誠肫と正妻くまとの間には仁賀保誠歆(1782~1803)という子が在りましたが、22歳で没しており誠肫と家女である琴との間にできた子の斧三郎が跡を継ぐことになりました。

 文化元(1804)年12月22日に徳川家斉に初謁見し、文化6年12月12日に結婚、文政4(1821)年に父の誠肫の跡を継ぎ西丸御番となり、その後小普請組に入りました。翌5(1822)年8月23日には西丸御小姓組一番組入隊を仰せつけられ、更に文政13(1830)年6月4日に至り大阪御目付代として天保3(1832)年9月28日に帰京しました。翌天保3年1月11日には御使番を仰せつけられ、12月16日には布衣となりました。しかし、彼は天保7(1836)年には病がちとなり、9月28日に御役御免を受理され寄合になりました。

 彼の時代で特筆すべき事は、天保3(1832)年に鼠小僧治郎吉に盗みに入られ、80両(蕎麦の値段を参考にすると、幕末の1両は20万円前後。よって、この頃はインフレではないと仮定して1両10万円前後とすると、800万円)盗まれました。

 更に天保11(1840)年12月24日には病気を理由として隠居、天保14(1843)年2月7日59歳で死去しました。墓所は青松寺、得性院成安見道居士。彼の妻は酒井忠貞の妻で「銈」といいます。彼女は文久元(1861)年8月に亡くなったようです。

 跡は長男の斧太郎が継ぎます。ちなみに誠昭の次男は愛之助といいますが、天保13年に菅沼定敬(海老菅沼3,000石)の養子になります。

10代 仁賀保誠明

文政2(1819)年(月不明)月30日生まれ、名を斧太郎といいます。長じて主税を称しました。天保4(1833)、部屋住みの身分の時に徳川家斉に謁見、天保5(1834)年7月29日に最初の婚姻をしました。

父が隠居後、小普請組に入り天保14(1843)年12月22日に書院番となります。弘化3(1847)年閏5月16日に名乗りを「主税」に変更しました。続いて嘉永元(1848)年には御進物番となりますが、安政6(1859)年には病気がちとなり役職御免を願い出、3月19日に受理されました。その後8月18日に小普請となり、万延元(1860)年8月29日45歳で死去しました。この生年も没年も役所の日記から確実なんですが…しかし何故か彼の位牌は安政5(1858)年12月13日づけになっているんですね。…不思議だ。

 誠明の代の事件で忘れちゃならないのが火事です。嘉永3(1850)年2月5日、隣屋敷の一柳家より出火して、屋敷がペロッと焼けてしまいました。享保16(1731)年4月15日に火事で炎上してから125年ぶりだったようです。マサに着の身着のままで焼け出された状態で、まずは妻の実家である赤坂の遠山直輝(500石)の屋敷に避難しました。手狭の為、誠明だけ久留十左衛門の屋敷に移りました。

 その後、屋敷は再建されたようですが、万延元(1860)年の7月21日に愛宕下藪小路の屋敷を幕府に召し上げられ、改めて8月21日に三田3丁目に屋敷を給わり引越ししました。現在、この屋敷の一部は港区三田図書館になっています。ま、直後に亡くなるわけですが…。

 墓所は青松寺、智徳院心性霊源居士。彼は最初の妻である川勝廣業の娘とは離別、2番目の妻である遠山直輝の娘とは死別、3番目の妻である鍋嶋直正の娘は誠明が亡くなった時、相当若かった様で、誠明死後の万延元(1860)年6月に実家の甥である鍋嶋直影の元に帰っています。…ちょいとここの記述が辻褄合わないんですね。。。何故だろう? 。

 誠明には男子が2人いましたが早くして亡くなり、女子2人がおりました。一人は間部詮論の妻…「寿」という名で文久(1861)元年8月に結婚しましたが翌2年8月1日、亡くなりました…、そしてもう一人が婿養子を菅沼定陳より取り、家を継ぐことになります。

11代 仁賀保誠成

 弘化3(1846)年4月26日生まれ。始め順之助兵庫輔を名乗り、長じて孫九郎を称しました。

彼は菅沼定陳の次男として生まれ、万延元(1860)年8月27日に婿養子として仁賀保家を継ぎました。彼の父である菅沼定陳は先々代仁賀保誠昭の次男であり、菅沼定敬(海老菅沼3,000石)の養子となった人物です。文久2(1862)年4月3日に兵庫輔へ改名

 当初小普請組となりましたが文久3(1863)年12月6日には小姓組に入り、即日将軍徳川家茂の上洛に御供し、家茂と共に大坂城から伏見へと警護をしながら同行いたします。文久4(1864)年1月に「孫九郎」に改名。

元治元(1864)年5月13日には「御所向其外御警衛」を言い渡され、着任。同年6月6日に用済みの為、江戸にもどりました。

江戸に帰京後、慶応元(1865)年には陸奥棚倉城引渡の使者として使わされ、慶長2年7月24日には御使番を拝命、9月には長州征伐の御伴を命ぜられますがこれは沙汰なしという事になり、12月18日には布衣を拝命、29日には寄合となりました。

 慶応3(1867)年徳川慶喜が大政奉還すると、仁賀保誠成は領地である仁賀保に帰還し、自立…大名復帰?…を考えました。そこで同族の1000石家の仁賀保誠中と語らい、明治元(1868)年3月17日の朝5つ(現在の8時)に品川港から一族郎党引き連れて船に乗り、20日出航しました。太平洋廻りで秋田を目指したようですが、船は遅々として進まなかったようです。20日は神奈川沖で大風雨に会い相模の三崎に停泊。21日には北風に押されて伊豆大島の波浮港へ入港、26日まで足止めを食う。

 28日には奥津(千葉県勝浦市興津か)に入り4月1日出航。この後、鹿島神宮沖を通るにあたり、鹿島灘は女人禁制で女性が乗っていると海が荒れるとの言い伝えがある為、女性には全員荷札を付けて窓を閉めて無言で、荷物のふりをして通り過ぎることにしました。

 4月5日には伊達領沖に至り、6日なると波が穏やかになり安眠ができるようになりました。この時、海上から見た風景は絶景だったようです。この日の午後に鍬ヶ崎(岩手県宮古市)に入港しました。

 ここで、これより北は海・陸共に通行が難しいとの風説が流れたそうです。仁賀保誠成らはここで海運班と陸上班に分かれて仁賀保を目指すことにしました。

 海運班は15日に出帆、陸上班は17日に出発しました。17日、山田(岩手県山田町)泊。18日大槌(岩手県大槌町)泊。19日大槌と遠野の間にある和山を越えて遠野泊。20日土沢(岩手県花巻市東和町土沢)泊。21日(同市鉛)に至り温泉宿に泊る。22日若畑(岩手県西和賀町沢内若畑)泊。23日新町(同町新町)泊、24日横手泊、25日には八沢木(横手市大森)泊、26日には石脇(由利本荘市)、そして27日に仁賀保の平沢陣屋に到着しました。

 仁賀保誠成は1000石家の誠中と共に新政府方に着くことを決め、佐竹義尭に新政府軍に参加させてほしいと使者を出しますが、当初は受け入れられませんでした。…この時佐竹氏は本気で庄内藩と戦う気がなかったから、戦う気を持つ者が邪魔だったんですね。また旧幕臣であり、仁賀保家に対して疑念があったのもその理由でしょう。仁賀保両家が新政府方に加わることができたのは6月20日になってからでした。

 ところが、7月には庄内軍が秋田侵攻を開始、瞬く間に湯沢・横手城を落としました。仁賀保隊・秋田藩の渋江隊らは羽州浜街道沿いに展開し、浜沿いに北上する庄内軍を討つ役目でしたが、8月には庄内軍の奇襲に逢えなく矢嶋は占領され、仁賀保郷は敵の懐に取り残されることになりました。

これを知った新政府軍の監軍山本登雲介は恐れを無して撤退、取り残されたのは佐賀藩・松江藩そして仁賀保隊。特に仁賀保両家にとっては自分の領土ですので、是が非でも守りたいという所でした。

 8月3日に妻子・老幼病人等は秋田へ送り、4日に白雪川にて庄内軍と戦う事になりました。佐賀藩と庄内藩は白雪川を挟んで戦いましたが、庄内藩の伏兵が背後から佐賀藩を囲む行動を起こしたため、撤退することになりました。仁賀保隊はわずか40人ほどで長磯山(現在の平沢小学校?)に陣を引き防戦しましたが、雲霞の如く押し寄せる敵軍に囲まれ、これを突破するという事を繰り返し、夜には本荘に撤退するという事になりました。

 7日には更に秋田に総撤退、仁賀保隊もこれに倣います。秋田に赴いた仁賀保隊は秋田藩渋江内膳隊と共に雄物川河畔の左手子村(秋田市融和左手子)にて陣を構え、庄内藩の北上を阻止する役に当たりました。庄内藩は対岸に陣を構え、互いに砲撃しあい損害を出しております。仁賀保隊らは9月まで足止めしておりましたが、横手城を落とした庄内藩の1、2番隊が大曲から秋田を目指して仁賀保隊に迫りました。仁賀保隊は撤退し、椿台…現在の秋田空港周辺…にて総力戦を行うことに決定いたしました。

 仁賀保隊は秋田維新隊と合流し椿台を守りますが、10日頃から戦になりました。11日には本格的に戦が始まり、糠塚山に本陣を置いて激しく戦いました。仁賀保誠成はこの時、一計を案じ、家臣の伊藤晋に20名ほどを預け、敵の横腹をつくという奇襲をしました。こうして接近戦をしたあと逃げ、縦横無尽に旗を押し立てて混乱させ回りました。こうして居るうちに秋田の渋江内膳隊が到着、雲霞の如く砲撃を加え庄内軍を敗走させました。仁賀保誠成は「自分の策が見事に当たりとても愉快だった」と感想を残しています。

 この頃になりますと、秋田には続々と新政府軍が加わり庄内藩を物量で圧倒していき、ついには庄内軍を駆逐することに成功いたしました。伊藤晋の一隊は敗走する庄内兵から数多くの戦利品を得、その中に庄内軍の動静が分かる機密文書を発見し、総督府に差し上げたそうです。

 仁賀保誠成は9月23日に旧領へ帰還。すぐさま庄内藩の酒田占領軍の一員として酒田に赴き、10月9日に平沢に帰りました。

 戊辰戦争で仁賀保両家の家は251軒焼かれました

 戦後、仁賀保誠成は上京し、領地を守るべく奔走します。11月には佐竹義尭と共に上京いたします。上京した後は仁賀保誠成は佐竹家の下屋敷を借りて暮らしていました。12月20日、明治政府より2,080石の領地を安堵され、仁賀保誠成らは出羽の仁賀保家の陣屋に屋敷を構えて住み着こうと考えた様です。更に明治2年6月2日、仁賀保誠成に1,000石を「戦功永世下賜」されました。

 仁賀保誠成は計3,000石となったわけですが、どうも東京に住み始めたら、そっちの方が好くなったようです。元の東京三田3丁目の屋敷…1400坪ありました…は無くなっていたらしく、東京府より神田小川町に新たに屋敷…1800坪ありました…を貰い、ここに住むことになりました。

 誠成にしてみれば、領地を確保し以前の旗本生活の様に東京に住み、領地は代官支配…と考えていた様ですが、12月3日に明治政府より通達があり、知行地を返し家禄105石を貰うことになりました。2080石が105石に…。いわゆる版籍奉還ですね。しかし他と比べてかなり遅い時期まで知行していたんですなあ…。

 仁賀保誠成にとっては寝耳に水、冗談じゃないと考えたんでしょうね。「どうせ政府の土地にされるのなら秋田藩にしてよ。んで、俺、やっぱ仁賀保に住むわ。だって俺んち400年も仁賀保を領土にしてんだぜ。」と東京府に嘆願書を出しました。

 結果は一度却下されますが、仁賀保が酒田県になった後、一転認められ、仁賀保誠成と1000石家の仁賀保誠愨2名は仁賀保に住むことになりました。明治3(1869)年10月11日、平沢に到着しました。仁賀保誠成は平沢陣屋、仁賀保誠愨は領地である小国の陽山寺を居所としたようです。

 この間、仁賀保郷は酒田県から山形県になり明治5年4月に秋田県に編入になりました。

 明治6(1873)年8月になり、仁賀保誠成は上京することになりました。明治8年8月まで3年間の予定です。留守中は1000石家の仁賀保誠愨に任せることになりました。学業修行の為との事ですが、家族を連れての移住でした。当初は神田新銀町(丸ノ内線淡路町駅東側)の貸家に入り、下谷上車坂町37(上野駅東隣)を購入し、そこへ住むことになりました。

 どうも誠成はお金に困ったようで、明治8年には家禄を明治政府に返し、代わりに家禄6年分のお金を貰う事にしました。2,575円です。…米価から推察すると2,860万円程度でしょうか。困ったことに翌明治9年には戊辰戦争の功績でもらった賞典禄も取りやめになりました。

 明治9年には浅草今戸町12番地(現在の台東リバーサイドスポーツセンター陸上競技場の一部)に移っており、おそらく仁賀保に帰る意思は無くなったものと推察されます。

 明治24年10月2日には隠居して明治31年には神田小川町23(…現在の石井スポーツのあたり…)に居を構えた様です。

 こうして仁賀保家は仁賀保郷と縁が切れることになりました。

 明治34年10月21日、仁賀保誠成は没しました。誠光院心月玲照居士。誠政の妻は戊辰戦争で秋田に逃げた後、そのまま秋田に留まったようです。長く病床に伏していた様で明治2年4月21日に秋田にて亡くなりました。26歳であったそうです。