17.仁賀保氏の家臣達


Ⅰ、仁賀保氏の家臣について

 仁賀保氏には譜代の家臣と従属国人領主、そして一門衆などがいました。その支配は強固なものではなく、各自ともかなりの自由があったとみられます。

 まず仁賀保氏の譜代の家臣といえば、まず菊地布施土門小松の4氏が挙げられます。これら4氏は仁賀保氏の祖の大井友挙について信濃国から下向してきたと伝えられます。いわゆる譜代の家臣ですね。

 まずその中の菊地氏ですが、伝説通り恐らく信州よりの移住組と思われます。伝説の類でありますが、菊池氏は南北朝の騒乱の折り、宗良親王と共に陸奥国府を目指しますが、途中で挫折し、紆余曲折を経て佐久地方に住み着いた…とされます(信州菊池の会HPより)。現在の佐久郡小海町近辺に入ったそうです。

 仁賀保氏家臣筋の菊地氏に伝わる言い伝えでは、鎌倉時代末期には仁賀保郷に住み着いたことになっており、信州菊池氏の伝説とは齟齬をきたしております。が、分家が文亀年間以降でありますので、おそらく地頭代と共に早い段階で移住してきた者も、友挙と共に信州から下向してきた者もいたのではないでしょうか。と、想像でしか言えませんが。

 菊地氏の中で史料に登場する人物が何人かいます。慶長年間に登場するのが菊地吉三と言う人物です。彼は仁賀保氏の木材献上の奉行をしています。また恐らくこの菊地氏の一族でしょうが、関ヶ原の戦いの時に庄内戦で討死した者もいます。更に菊地薩摩という人物が仁賀保良俊の7,000石家の家老職にありました。この7000石家の家老であった菊地氏は、7,000石家改易の後、帰農した者と庄内酒井氏の家臣になった者が居るようです。帰農した菊地家は現在も仁賀保郷に住み続けています。

 尚、この菊地薩摩と共に寛永3年に家臣として名前が挙がっているのが梶山六左衛門という人物で7000石家の家臣の一人として検地などを行っていたと、元禄期の検地帳に記載されているのが『象潟町史』により指摘されております。

 布施という名字を名乗る一族は現在見当たりません。仁賀保氏の歴史の中でも出てくるのは大井友挙の下向時に付き添ってきたという時のみです。なのでむしろ、事実なのかなと考えます。そういえば、佐久市に「布施」という地名がありますな。隣が「矢嶋」です。布施氏もここが本貫の地なのかしれません。なお、『長野懸町村誌』第2巻では布施氏は大井氏の従士か…と推察されております。

 土門、小松ですが、仁賀保郷の隣の遊佐郷宮田の土門氏はやはり信州下向組と伝えられます。ま、土門姓は出羽庄内に多いので、実はそちらの出身かとも考えますが意外に…。

 小松も信州に多いそうですが、清和源氏逸見氏庶流に小松氏がおります。この流れをくむものではないでしょうか。現在、布施」には小松姓も多いです。

 また、諸本によると関集落の須田氏も信濃国よりの下向組であるといいます。

 係累は不詳でありますが、遠田一族も中世以来の仁賀保氏の家臣であると伝えられております。現在、金浦にある浄光寺の縁起によると、浄土宗を信奉していた遠田平四郎という人物が仁賀保家に仕えている様子が伺われます。

 譜代の家臣ではないと思われますが、仁賀保7,000石の家臣として登場するのが小番大学という人物です。小番という苗字からすると元は矢島満安の家臣の流れを汲む者でしょうか?。彼も仁賀保7,000石が改易になると帰農したそうです。菊地氏と同じく奉行をしている伊津氏(伊津藤右衛門)も、矢島氏の旧臣と思われます。伊津・小番両氏とも矢島氏の領土であった地区に多い氏名です。恐らく元々は矢島氏の家臣で、後に仁賀保氏に使えた一族でしょう。

 その外文書等に見える成田氏(成田茂助)や、島田氏(島田正右衛門清吉)なども仁賀保氏の旗本衆や直臣衆だと考えられます。

 いずれこれら仁賀保氏譜代の家臣衆は仁賀保家の寛永元年から3年にかけての御家騒動、及び家督を継承した7,000石家の改易と共に姿を消します。その多くは諸国に散ったか帰農したものと考えられます。

 仁賀保氏の祖の大井友挙が仁賀保郷に入部した後、大井友挙はそれまで仁賀保郷やそれ以外の地に割拠していた国人領主達を従属させ、自らの家臣団の中に組み込んでいった様です。

 従属国人領主とでもいいますか。仁賀保氏家臣団の中に散在する集落名を姓に持った者達がこれに当たります。彼らは非常に独自性の強く、自主的行動にて自家の利益になるので仁賀保氏に付いていました。ですので仁賀保氏家臣と呼ばずに、敢えて従属国人領主と私は呼んでいます。これらの氏族の多くは、関ヶ原の戦いの後仁賀保光誠が常陸武田に移封になった折にも、仁賀保郷から動かず新領主に仕える…若しくは帰農するといった、極めて在地性の強い者達でした。

 彼らの代表的な者としては、まず重臣的な地位に居たらしい芹田氏(芹田伊予守)や、馬場(もしかしたら豊島氏で馬場…今の冬師…に住んでいたので馬場氏を名乗ったのかもしれません)氏(馬場四郎兵衛)を筆頭にして、赤石氏(赤石与兵衛)黒川氏、塩越池田氏等がいた様です。

 例えば芹田氏は言い伝えによれば仁賀保郷に古くから居た国人領主ですが、仁賀保氏が仁賀保郷に入部するとそれに従属したようです。仁賀保光誠が常陸武田に転封になると仁賀保光誠には従わず、仁賀保郷に残って最上義光の家臣になりました。芹田氏は当主として永禄から天正にかけて芹田伊予守という人物が存在し、その子の右馬助(渡辺姓)が最上義光の家臣になった様です。渡辺右馬助は100石を宛行われています。また彼は最上氏改易後に帰農しています。なお、芹田氏にも本家・分家があったと見え、芹田氏の一派は最上氏改易後、佐竹氏の下に赴き、家臣になっています。

 彼等従属国人領主層の特徴は、江戸時代になると同じ家で武士と在地(地主百姓)に分かれる事です。

 また、仁賀保氏の家臣で矢島八森城の城代であった境(酒井)縫殿助楯岡満茂に仕えて矢島村と木在村を宛行われており、池田豊後等も楯岡満茂に取り立てられた様です。また、院内村の有力国人の佐藤氏も帰農しています。赤石氏は佐竹氏に仕えた様です。

 さらに仁賀保氏に仕えた国人領主の中には、元々は矢島郷の国人領主で、矢島満安の滅亡後、仁賀保光誠に仕えた者達がいます。この者達は仁賀保郷の国人領主達より更に独自性が強く、ほとんどが矢島郷に残り帰農した様です。

 同じく由利衆の一員の根井氏は、矢島満安滅亡後仁賀保光誠に属しました。「仁賀保家文書」の中に根井氏宛の豊臣秀吉知行宛行状がある所をみると、根井氏は仁賀保氏の騎下だったことは間違いないでしょう。その根井氏は仁賀保光誠が常陸に移封になった時に帰農します。 

 同じパターンであるとすると、打越氏も仁賀保氏の旗下にあったと解釈するべきでしょう。何故、常陸に移った時、隣り合わせの領土になったのか。仁賀保氏が旧領仁賀保へ転封になった時、打越氏もセットで動いたのか。また、その時の打越領と仁賀保領を併せると、豊臣時代の仁賀保氏領とほぼ同じ領土になるのかなど、考えるべきことが多いと思います。…もしかしたら仁賀保光誠は打越氏に自分の領土を切り裂いて渡していたのかもしれません。

 また、仁賀保氏の家臣団には、中世末期から近世初頭にて領地を失った者達が寄食していた形跡があります。院内村の三浦氏は初代を三浦与惣兵衛といい、相模の三浦氏の一族であるといわれます。仁賀保氏の客分として山根館に住み、慶長7年に仁賀保氏が常陸武田に移封になったおり、院内村に居を移したと伝えられます。そういえば光誠の妻も後北条氏の家臣筋だっていうし…。

 他にも滝沢氏の一族も仁賀保氏の元に寄食していたきらいがあります。寛永2年2月13日付の小野寺義道の書状には「猶々油利仁賀保相果候、其あとをハたれ人のとられ候や返事ニ承度候、玉舞瀧澤又五郎などハ何と成り候哉」という一節もあり、両者は最上家退伝後、仁賀保家に寄食していたものでしょう。

 この文書が出された前年の2月24日に仁賀保光誠が没し、この文書が出された当時は仁賀保家では長男の良俊と次男・三男の誠政・誠次との間で家督相続に絡む御家騒動が起きていました。参考までにですが諸系図などによれば、滝沢氏の当主が最上家改易後江戸に上っていた事や、玉米氏の子孫が改易後上京した事が知られています。江戸の活動拠点は仁賀保家の屋敷だったのでしょうかね。滝沢氏に至っては後に平沢で50石の捨扶持を仁賀保光誠に貰っていたと「系図」は伝えます。これらの諸氏は7,000石家の改易の後に本荘藩に仕えたものでしょうか。

 その外さらに仁賀保氏の家臣には一門衆がいました。文書等により仁賀保信濃守仁賀保宮内少輔(仁賀保家五代目の宮内少輔重挙とは別人)、仁賀保伯耆守(仁賀保家初代の伯耆守友挙とは別人)等が確認され、子吉氏や芹田氏も近い親類と思われます。

 天正17年5月23日付仁賀保信濃守宛安東実季書状によれば、彼等は個人で動かせる兵をかなり多く持っていたようです。仁賀保氏に於いては、天正末期にても今だ「惣領制」が機能していたと思われる節があります。それは多くの東国の戦国大名と同様に、正18年の太閤検地・刀狩・城割による国人の中世的村支配の否定迄続いたと私は考えます。仁賀保氏はこの秀吉の奥州仕置以降強制的に近世大名に脱皮したと思われます。