01.仁賀保氏への道

Ⅰ.前文

 仁賀保氏の出自は清和源氏であり、その中でも信州の小笠原氏の分家である大井氏の流れを汲みます。由利郡には仁賀保氏のみならず多くの大井氏の流れを汲む国人領主が点在していました。

 そもそも秋田県の由利郡とは何処でしょうか。由利郡とは現在の秋田県の南西部であり、現在のにかほ市と由利本荘市の全域と秋田市の一部を指します。

 この遠方の地に、どうして清和源氏小笠原流大井氏がいるのでしょうか。

Ⅱ.仁賀保氏の出自

 由利地方の歴史の転換点は建歴3年(1213)です。この年、鎌倉では北条義時の度重なる挑発に痺れを切らした和田義盛が挙兵、北条氏との間に戦が起こりました。和田合戦です。

 当時の由利郡の領主は由利氏で、当主は由利維久(これひさ)と言いました。維久は弓の名手であった様ですが、和田方与同の嫌疑を掛けられて本領の由利郡を北条義時に没収されてしまいます。

 没収された由利郡は、この後清和源氏加賀美遠光(かがみとおみつ)の娘の大弍局(だいにのつぼね)に与えられました。加賀美遠光は八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の孫に当たります。大弐局は源頼家・実朝の養育係として重きを成しており、その縁で領地を拝領したものでしょう。

 この加賀美遠光という人物、相当な智将ではなかったか…と推察いたします。平家の世では平氏に接近し、平家討伐中に(おそらくもし平家が勝った時の保険として?)て長男の秋山光朝には平重盛の娘(平清盛の孫にあたる)を嫁にとり…平家の一門として源頼朝と戦う際の名分ともなりえる様にし、次男の小笠原長清には頼朝の紹介により上総広常の娘を娶り源頼朝とも昵懇になる、娘の大弐局を頼朝に近侍させる…などなど、名は武田信義安田義定上総広常らに隠れて見えませんが、うまく源平争乱時を生き延びました。…というか敢えて表に出ない様にしたのかもしれません。出る杭は打たれますから。血筋の上では新羅三郎流の源氏の名門であり、頼朝に討伐されずに重用されたというのは、彼のすごいところだと思います。

 話は元に戻りますが、女性で跡継ぎのいない大弍局は、跡継ぎとして兄小笠原長清の子大井朝光(ともみつ)に自分の領土を相伝させました。こうして由利郡は大井氏の領土になりました。

 大井朝光の本願の地は信濃国佐久郡大井庄であり、領地名を取って大井氏を名乗っていました。彼は大弐局より出羽由利郡を相続することにより、信州大井庄と出羽国由利郡の2箇所の地頭となったわけです。

 無論、大井氏は御家人として鎌倉にいたと思われます。遠方の由利郡の支配には一族より地頭代を任命して支配していたと考えられます。まあ、てっとり早く言うと分家を派遣して土地を管理させるということです。この地頭代の流れを汲むと考えられるのが本稿仁賀保氏を初めとする由利郡の大井一族です。彼らは鎌倉時代から室町時代中期までは本拠地の信州大井庄と行き来をしていた様ですが、大井本家が滅亡するに至り由利郡にて自立いたしました。

 大井朝光についてもうちょっと詳しく語りましょう。大井氏の系図は下記のとおりとなります。