Ⅱ打越氏

 打越氏は「内越」とも書かれ、現在の由利本荘市の中央部…芋川下流域を支配した国人領主です。打越氏の出自は先人の研究や野史等には楠木氏の出自であるとも言われますが、実際は信州大井氏の分派である事は間違いないでしょう。

 打越氏は大宝寺氏と仁賀保氏の対立の最中に、小介川氏による家督の相続があったもの…と推察される文書が残っています。もしかするとその時に大井氏の血統になったものでしょうか。打越氏自身の系図によれば、仁賀保氏の祖の大井光長に祖を求めております。打越氏関係の史料は仁賀保氏よりも少なく、天正期の関連文書は数通といったところでしょうか。

 打越氏の特徴は仁賀保氏・小介川氏側にずっと立って行動していた事です。天正16年2月25日付の吉高上野守宛内越光安書状では、「出羽庄内で戦が起きたので、仁賀保・子吉・小介川氏が最上義光に加勢を求められた」事が記載されております。彼らが打越氏も含めて血縁関係にあったという点が注目されますね。 

 さて、この打越光安という人物ですが、当時の当主であるかはちょっと不明であると言わざるを得ません。何故ならばこの2年後、天正18年に秀吉より知行宛行を受けたのは打越宮内少輔という人物だからです。…同一人物である可能性もありますが…。

打越氏も系図が錯綜しております。

寛永譜上、打越氏の系図は

光重(宮内少輔、天正19年没)―光隆(左近、慶長14年没)―光久(左近、寛永11年没)

であるとされています。この内、打越光重は天正19(1591)年に肥前名護屋で没した事になっていますが、天正19年に肥前名護屋にはなーんにもありません。名護屋城が出来るのは文禄元(1592)年3月ですので、「天正19年5月4日に、肥前名護屋で没した」というのは誤伝だと考えます。

とはいえ彼が肥前名護屋で亡くなったのは事実でしょう。文書上、文禄5(1596)年7月には打越孫太郎に代替わりしている様です。…同年、秀吉政権から打越宮内少輔宛の書状も出されていますが、代替わりを知らない可能性もあります。文禄元~4年頃に亡くなったと考えるべきか…と思います。

つまり、打越氏の系図は

打越宮内少輔(光重文禄元~4年没)―打越孫太郎(光隆、慶長14年没)―打越孫太郎(左近光久、寛永11年没)かと考えられます。 内越光安という人物が冒頭に出ておりますが、天正16年と文禄という年代を考えますと、内越光安と打越光重は同一人物ですかね?。

打越氏は推測でありますが、仁賀保氏の旗下に入りながら戦国時代を生き延びたと考えられ、奥州仕置の後は豊臣秀吉に領主として認められました。石高は1257.9石、半物成として2,500石あまりの知行地であったと推察されます。 由利5人衆の一人として朝鮮出兵や伏見作事用の木材運上などに従事いたしました。

関ヶ原の戦いの時は、仁賀保氏の旗下に入り 庄内へ転戦している様です。その結果、慶長7年5月に領地替えを言い渡され、常陸国行方郡に赴きました。由利衆の内転封を言い渡されたのは仁賀保光誠と打越光隆の2名のみでした。

思えらく、打越氏は仁賀保氏の旗下にあり、仁賀保光誠は常陸の領土を打越氏へ分け与えたのかも知れません。打越氏の領土は仁賀保氏と隣接する新宮3,000石でした。これ、仁賀保氏と併せると8,000石、慶長7年時点での出羽での仁賀保氏領が7,400石(貢租高)であった事を考えると、この3,000石は仁賀保光誠が打越氏に分け与えた可能性も捨てきれないのでは…と考えます。

打越氏も仁賀保氏と同様に小大名として各種の軍役に参加しております。慶長19年末に起こった大阪の冬陣の折りには仁賀保光誠と共に「御跡備」として出陣しました。しかし大坂夏の陣の時の行動はわかりません。

元和5年の西国の国替えの折には打越氏は駿河田中(現在の藤枝市)を守ったようです。ちょっと妙なのは打越孫太郎を称している点です。もしかしたら打越氏はこの近辺に代替わりをしたのかもしれません。

元和9年11月には打越光久は矢島の領主として由利郡に復帰いたしました。

打越光隆は矢島に入府後、菩提寺の創建に取り掛かりました。旧領である由利郡内越の菩提寺は恵林寺であったと考えられますが、常陸に国替えになった時、常陸行方郡の長國寺即殿棼廣大和尚と親しくなったそうです。菩提寺の開山にはこの即殿棼廣大和尚を勧進し、その法嗣である白峰廣椿大和尚により矢島に金嶺山龍源寺を開創し菩提寺としました。打越光隆は更に法華堂も建て、これが後に寿慶寺となったそうです。

打越氏はこの頃、仁賀保氏の下知にあったのかなあ…と考えられる点が何点かあります。

まず、

①打越氏の先代である光隆が仁賀保領内…小砂川と伝えられますが…に隠居しているらしい事

②寛永7年7月1日に仁賀保良俊が佐竹義宣邸訪ねた時に打越左近を引き連れて行った事

③仁賀保領と打越領を併せると、旧仁賀保氏領となる事などです。 常陸でも同様に旧仁賀保氏領の石高(貢租高)7,400石が、常陸の仁賀保氏領+打越氏領8,000石と近似している事。

偶然にしてはどうでしょうか。

何れにしろ、豊臣秀吉からの打越氏宛知行宛行状を仁賀保氏が持っている事など、仁賀保氏が打越氏の本家扱いされていたことは間違いないようです。

さて、余談ですがこの打越氏の一派は津軽藩に仕えた者たちもいた様です。津軽側の記録によると、津軽信枚に打越佐吉なる人物が召し抱えられ、『梅津政景日記』に登場するそうです。召し抱えられたのは時期からすると関ヶ原の戦いの直後なんでしょうかね。

彼は恐らく打越孫太郎(光隆)の弟ではないでしょうか。元和年間には津軽家臣として「700石 打越孫九郎」・「400石 打越主殿」・「400石 打越城左衛門」などが散在している様です。結構な大身の家臣になっていますね。

更にこの津軽家からは青木兵左衛門なる人物の子供が、打越光久のもとへ遺わされています。 

どうも打越氏と津軽家は何らかの因縁があるらしく、津軽家の主である信枚を暗殺しようとして出奔した奥寺右馬丞という人物は、由利のかやか沢(由利本荘市赤田萱稼沢)に逃げていました。ここは打越氏の旧領ですね。もしかしたら打越佐吉…何か関係しているのかもしれません。