Ⅳ矢島・仁賀保の戦い②

 この項は仁賀保兵庫登場前夜から登場までを語ります。

⑩矢島満安、最上義光領を攻める。

 天正6年4月中旬、矢島満安は最上義光殿の領土である金山城を攻めた。相手方の城は堅固で籠城したまま出てこなかった。戦果無く帰った。


 これは『矢島十二頭記』(A)本のみに出てくる項目です。金山城は言い伝えによれば天正9年に築城とされているのでいるので齟齬がありますが、交通の要衝でありますので、それ以前から城があったものでしょう。

 ただ矢島氏が最上地方を攻めるということは、横手の小野寺氏領を通らねばならず、おそらく小野寺氏の意向に沿う…小野寺氏の傘下に入っている…という事を知ることが出来る項目です。また、この項は仁賀保氏ら他の由利衆とは全く関係がありません。これは『矢島十二頭記』(A)本が矢島の遺臣が書いたのでは…と思わせる一項です。

⑪仁賀保兵庫頭の登場まで

 まずは(A)本です。


 天正8年3月10日、仁賀保の百姓共が謀反を起こし矢島殿を手引きしたので、ブナの木もふち迄軍勢を出したが、出陣の門出が悪く矢島に帰られた。

 天正9年年4月に、仁賀保の百姓共が再び矢島殿と通じ手引きしたので仁賀保の城に攻め込み、三ノ木戸まで攻め入ったが、赤尾津道益殿・子吉殿が仁賀保の後詰に出陣されたので矢島に帰った。

 天正10年5月中旬、矢島殿は子吉殿を攻めた。この時矢島殿は仁賀保殿が子吉殿の後詰として出陣したことを聞き、車引という所に兵を引いた。その時、仁賀保殿より歌を詠まれて下部に持たし使わされた。

矢島殿 今朝の姿は百合の花 今は小葦の風に面をむくるや

 矢島殿の返歌

仁賀保殿 手を翳したる小葦原 矢島の風に露や落けり

 天正11年7月6日、仁賀保殿の家来衆が謀反を起こし宮内殿が切腹されたと承った。それを聞いた矢島殿と鮎川殿が申し合わせて仁賀保に攻め込むため出陣されたところ、右の衆が後詰されたと聞き、ブナの木もふちより引き返された。

 同8月中、仁賀保殿の娘へ子吉殿の御子息である八郎殿を婿養子にして、仁賀保家を継がれる事になった。

 同13年2月2日、赤宇津殿より仁賀保殿の家へ養子に入られた。仁賀保兵庫頭殿という。兵庫頭は仁賀保家を継ぐと矢島殿に使者を遣わした。使者曰く「仁賀保家を継いだので安心してください。先祖の古和州の時代より小笠原一家であるので疎遠にならない様にしたい。」と。矢島五郎殿は満足された。その後五郎殿より御挨拶・御祝儀の為の使者を遣わされた。その後は度々懇意にされた。


対して(B)本です。


 仁賀保宮内少輔殿の居城へ矢島五郎殿が天正9年4月中旬に攻め込んだ。五郎殿が急病になり戦闘無くして帰国した。

 同11年7月18日宮内殿切腹。家臣の謀反である。御息女へ子吉八郎殿が婿養子に入るが、同14年10月15日八郎殿は御切腹された。右の衆の謀反であるという。

 同15年正月15日、赤宇津殿より兵庫頭殿が養子に入られた。その時兵庫頭殿より池田庄左衛門を使者として五郎殿に使わせた。使者曰く「和州殿の時代より度々矢島と戦争をしたが、先祖は同じ小笠原一家であり、今後は親睦していきたい。」と。五郎殿も家臣衆も満足した。


 こうしてみると、以下の特徴・差異がある事が分かります。

イ) 天正9年4月に矢島が仁賀保に攻め込んだという記事は同じです。ただし、その前段階の8年の記事が(B)本にはありません。

ロ) (A)本にある天正10年に矢島が子吉を攻めた記事ですが、(B)本では天正19年…次の項になり

ます…にあったことになっています。どちらが正しいのでしょうか。天正18年の秀吉の奥州仕置以

降、私戦は不可能ですので、この項は天正18年以前のものであることは間違いないと考えます。

ハ) 天正11年7月仁賀保宮内少輔が切腹。日付は多少違いますが両者ともこの時期ですな。因みに

林寺の記録では7月6日です。天正10~11年頃は現在の鶴岡の大宝寺義氏が安東愛季と交戦して

おり、仁賀保氏は大宝寺義氏に付いたものと考えられます。大宝寺というよりは…上杉でしょうが。

湊・檜山両家合戦覚書』には「仁賀保をロウシャ…おそらくは浪人のことか…とした。」つまりは仁賀保氏を追放したことが書かれています。無論、これは安東氏側から都合よく後世に書いたもので

すので、?と思う事も満載で、そのまま信用は出来ませんがね。

 もしかしたら仁賀保宮内少輔は安東氏との戦いで討ち死にしたのかもしれませんね。

ニ) 仁賀保八郎の切腹ですが(A)本に記載はありません。矢島側の記録ですので矢島に伝わらなかっ

たのでしょうか。八郎の事跡は矢島に関係なかったからかもしれませんね。(B)本では14年の10月

15日になっています。禅林寺の記録では10月16日になっています。

ホ) 仁賀保兵庫頭の家督相続ですが、(A)本では天正13年2月2日、(B)本では天正15年1月15日に

なっています。これに関しては、天正14年3月11日付で家臣に知行宛行をしていることから、天正14

年の3月の段階で仁賀保家を手中の物にしていると推察され、(B)本は???です。もしかしたら当時

の仁賀保家は2派に分かれて相続争いをしていたのかもしれませんな。