Ⅵ石沢氏・下村氏・玉米氏

1.石沢氏

 石沢氏・下村氏・玉米氏は、いずれも石沢川(高瀬川)の流域に領地を持つ国人領主です。河口側から石沢、下村、玉米と領土が並んでいました。一番河口に近い石沢氏は、現在の由利本荘市館字石沢館のあたりに居館を持ち、居住していたと考えられます。

 石沢氏の由来は定かではありませんが、由利本荘市湯沢の大蔵寺は、石沢孫四郎を開基に建てられた真言宗の寺であると伝えられます。つまり確証はありませんが応永元(1394)年頃には石沢氏…孫四郎と伝わる…は石沢郷を領していたと考えられるわけです。

 石沢氏は系図では永井氏の流れであるとされますが、家紋である三頭巴紋と位置的に由利…滝沢氏と密接な関係があることから考えると、もしかすれば出自は滝沢氏と深い関係があるのやも知れません。永禄3(1560)年に矢島氏が滝沢氏を攻めた時、石沢氏が滝沢氏に加勢した事も知られています。

 天正中頃からの領主は石沢二郎で、矢島満安を討ち滅ぼした天正16年11月下旬の仁賀保軍の一角として、小介川、打越、潟保、滝沢氏らと共に名前が挙がっています。

 矢島氏を攻め滅ぼした後、石沢氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、知行宛行状の交付を受けています。


出羽国油利郡内石沢村参百九拾八石五斗事、令扶助訖、全可領知候也

  天正十八

     十二月廿四日

       石沢二郎とのへ


 こうして石沢二郎は秀吉より領主の座を確保したわけですが、文禄4年に潟保、下村氏らと共に秀吉より改易にあったと伝えられます。

 しかし石沢氏らは完全に潰された訳ではありません。領主の座は失っても、依然国人として領土に君臨していたものと考えられます。慶長5年の上杉景勝との戦い…いわゆる関ヶ原の戦いですね…にも石沢氏は参戦している事が知られています。恐らく滝沢氏の与力になったんじゃないかなあ。

 関ヶ原の戦いを経て由利郡は最上義光の領土ととなりますが、石沢二郎の子と考えられる石沢左近之助が200石3斗を領して最上義光に仕えております。

 いずれ最上氏が改易の折には由利を去らざるを得なかったと考えられます。

2.下村氏

 下村氏の由来も定かではありませんが、仁賀保氏らと同じく信州大井氏の流れを汲むものと考えられます。

 下村氏は応仁2(1468)年に蔵立寺を建立したと伝えられます。領内には諏訪神社などもあり信州との繋がりが強いように感じられます。

 玉米氏の家督相続争いの折には、玉米信濃守の子供を預かるなど、隣の領主である玉米氏との関係も強かった様です。

 いずれ仁賀保氏とは複数の領主に挟まれ、直接利害関係もなく関係は希薄だった様です。天正時代末には下村彦次郎という人物が領主で、秀吉の小田原攻めに参陣し170石の知行を賜っています。


出羽国油利郡内下村百七拾五石事、令扶助訖、全可領知候也

      天正十八

         十二月廿四日

           下村彦次郎とのへ


 あまりにもミニマムな領主でしたので、先に記した様に文禄4年に他氏の配下に入ったと考えられます。誰の与力になったものでしょうかねぇ。ま、順当に考えると滝沢氏でしょうかねぇ。

 関ヶ原の戦い以後、最上義光が由利を領すると、やはり他の氏と同様に最上義光に仕えたと考えられます。系図では下村彦次郎の子の長秀は幼くして秋田に行き佐竹氏に仕えたことになっていますが、佐竹氏が由利を領した時点で21歳、これは誤伝ですね。最上家には「下村主税助」という人物が221石1斗で仕えておりますが、この人物ではないでしょうか?。

3.玉米氏

 玉米氏は由利郡でも一番小野寺氏の勢力範囲に近い箇所に領地を持っていました。領地名を取って玉米氏と言いますが血筋から小笠原を名乗ったりしたようです。

 一部の「矢島十二頭記」によると天文年間末頃の領主を義満と言い、家督相続のもつれから仙北小野寺氏の一族である山田氏と戦になり討死いたしました。その跡を継いだ嫡子義次は、再び攻めてきた山田氏を破りました。この後小野寺氏と玉米氏は和議を結んだと伝えられます。

 玉米義次は元亀元(1570)年9月下旬には矢島を攻めました。一説には矢島が玉米を攻めたとも伝えられます。これは玉米氏が仙北の小野寺氏とは和議を結んだとはいえ敵対関係にあり、小野寺氏と同盟関係にあった矢島氏とは、仲が悪かったという事でしょう。

 ですので、天正3年に仁賀保氏が矢島に攻め込むと、玉米義次は仁賀保挙久と矢島氏を挟撃する算段をしたようです。これは成功いたしませんでしたが。

 天正末の小野寺義道に玉米半三郎という人物がおり、それが玉米氏の事だとされる場合があるようですが、これは小野寺氏領の「到米」の領主でしょう。到米は由利の玉米の上流で、混交されたものだと考えます。

 玉米氏の知行宛行状は現在確認されておりませんが、玉米義次も秀吉に知行を安堵されたものと推察されます。しかし下村氏同様玉米氏も時代を経るにしたがって他氏の傘下に入ったと考えられます。

 玉米氏は領主の地位を失った後も、そのまま由利に住み続けたものと思いますが、最上義光の分限帳には名前が見当たらず、もしかしたら最上氏が入国した折に江戸に上ったのかもしれません。

 いずれ、小野寺義道にとっては非常に気になる存在だったようで、仁賀保光誠が死んだときには滝沢氏と並んで「どうなった?」とその行く末を心配されています。

 …もしかしたら一時、仁賀保氏の元にいたんですかね????。