13.仁賀保光誠…その9


Ⅹ、仁賀保氏の帰趨

 慶長7年5月、由利郡は最上義光領となる事となり、仁賀保光誠等は領地替えを言い渡されました。由利衆5人の内転封を言い渡されたのは仁賀保光誠と打越光隆の2名のみで、岩屋、滝沢の両氏は最上義光の家臣となって由利郡に止まる事となりました。

 もしかすると、打越氏は仁賀保光誠が領地を割き与えていたのかもしれません。秀吉の打越氏宛の知行宛行状が何故仁賀保氏が持っていたか…常陸に転封以降、打越氏は仁賀保氏の隣の領地となります。

  仁賀保光誠は常陸武田5000石(現行方郡北浦村)、打越光隆は同国新宮3000石(同麻生町)を拝領しました。もしかしたらこの高は貢租高なのかもしれません。

 両者とも小大名的な物としてあつかわれており、仁賀保光誠が常陸武田郷で支配した村は長野江村、穴瀬村、金上村、帆津倉村、成田村、小貫村、次木村、山田村、中根村、繁昌村、吉川村、内宿村、南高岡村などで、打越光隆の領土は天掛村、籠田村、新宮村の3ヶ村のようです

 何れ現在の行方市の辺りの一部に領土を貰ったわけです。

 関ヶ原の戦の後啀み合った岩屋と滝沢の両氏は、由利郡にて滝沢又五郎は陪臣ながら滝沢1万石、岩屋朝繁は岩屋2,360石で、両氏共最上義光に優遇されたといえますね。

 ただ、両者の最上家内での扱いは差があった様で、滝沢氏は1万石で陪臣ながら城持ちの大名、その滝沢又五郎といざこざを起こした岩屋氏はただの由利の一領主として最上氏に格付けされている様です。…分限帳にも出てこない所を見ると、岩屋朝繁は単なる客将扱いだったのでしょうかね。…色々考えましたが、城主格でない事は確かな様です。最上氏は名門でありながら意外に譜代の家臣が少なく、さらに関ヶ原の戦の後に領地が倍増したため人材不足となり、滝沢氏・岩屋氏を起用したようです。由利衆、若しくはその家臣筋でこの時最上義光の被官になった者は非常に多いです。

 さて由利5人衆の内で帰趨が問題なのは小介川氏です。一説に拠れば、常陸の谷田部(鹿島郡、茨城郡、下妻市、筑波郡いずれの谷田部か不明)に転封されて、慶長18年に勘気を被って改易されたといわれます。ですが由利衆の内常陸に転封された仁賀保氏と打越氏がいずれも行方郡に封ぜられ、しかも隣接してその領地を貰っていることから考えれば小介川氏のみ離れた所に領土を貰ったとは考えづらいですね。

 結論から言えば、小介川氏は関ヶ原の戦いの後、…慶長6年末から同7年5月迄の間に何らかの理由で改易、若しくは断絶したものと考えられます。最上氏側の資料によると、慶長7年、由利郡が最上義光領となると、最上義光は仁賀保の山根館神保五郎左衛門中沢新右衛門を、小介川氏の荒沢館には藤田丹波等を城代として派遣しましたが、由利郡全土に大規模な反最上の国人一揆が勃発して、城代以下肝煎迄討死したと伝えられます。一部の小介川氏関係の系図では「…楯岡豊前守満重、与彼相戦及数回、然不得勝利、一家皆流浪…」とあります。もしかしたら小介川氏は転封に反対で、改易若しくは蟄居の状態で起死回生の一揆を勃発させて最上氏の臣楯岡満茂に討たれたものでしょうか。

 江戸時代中期の宝暦年間、廃寺になっていた小介川氏の菩提寺の真覚山光禅寺を再興する時の記録に拠れば、小介川氏は「天正年中一族皆亡ヒ名跡共ニ断絶仕候」という状態だったようです。いずれも伝説・伝承・推測の域を出ず、小介川氏の帰趨は不明ですが、「最上義光分限帳」を見ると「小介川与兵衛」「小介川肥前」といった様な小介川一族であろうと考えられる者が最上義光に使えている事が分かります。平和裏に最上家に吸収された感があります。何れにしろ諸系譜に「赤宇曾離散」と伝えられる様な一族郎党の離散があった事は確かでしょう。

 小介川氏は歴史の中から姿を消し、変わって最上義光の重臣楯岡豊前守満茂(湯沢、赤尾津、本城などの姓を称し、時には由利豊前などとも呼ばれるがいずれも同一人物です)が赤尾津に入り赤尾津豊前守を称し、由利郡の大半の4万5千石を領しました。個人的に、想像ですが、小介川氏の家督を楯岡満茂が継いだために小介川氏は消滅したのではないでしょうかと考えていたりして。

 さて、仁賀保光誠は表高3,716石から5千石への転封でしたが、以前に考察した如く仁賀保氏領は1万2千石以上はあったであろうと考えられますので、現実には減封でした。とはいえ、拒否もできないでしょうしねぇ。

 仁賀保光誠が仁賀保郷を去る事になりますと、仁賀保氏の家臣団は2つに割れました。仁賀保光誠と共に常陸武田に移住した者と、仁賀保郷に残り帰農もしくは新領主に使えた者です。仁賀保郷残留組は大抵領土を持った従属国人領主達でした。例えば元々は独立領主で後に滝沢氏の与力か仁賀保氏の被官となったらしい潟保氏は、そのまま潟保郷に残り新領主の楯岡満茂に使えました。前述の「最上義光分限帳」には潟保出雲が200石取の武将として出てきます。また、同時期に潟保紀伊守という者が潟保郷の肝煎である事が確認されます。恐らく、潟保氏は武士系と農業系の2氏系統に別れたのでは…と思います。彼等は最上氏が滅びると帰農します。

 同じく元々は国人領主で後に仁賀保氏の郎党になった根井氏は、仁賀保氏が常陸へ去ると帰農します。また仁賀保氏の旗本衆の一人で矢島八森城の城代であった境(酒井)縫殿助は楯岡満茂に仕えて矢島村と木在村を宛行われており、芹田伊予池田豊後等も楯岡満茂に取り立てられた様です。彼等はいずれも最上氏滅亡後は帰農しています。

 また、由利衆の多くはこの期に最上義光に仕えました。石沢左近は200石で最上義光に召し抱えられ、最上氏が滅びると由利郡を去ります。

 仁賀保光誠は領土は常陸武田にあり、恐らく江戸と常陸の2重生活であったでしょう。特に江戸には旧領仁賀保の菩提寺禅林寺より和尚を勧進して寺をつくりました。これは正山寺というお寺でして、今も現存しております。