Ⅰ小介川(赤尾津)氏

 仁賀保氏の家臣や血縁関係を語る時、どうしても小介川氏を抜く事は出来ません。

 小介川氏は現在の由利本荘の亀田近辺を領していた一族の様です。戦国時代後期には新沢(由利本荘市新沢)を本拠地としていたと考えられます。戦国時代には赤尾津郷をも領しましたので、往々にして赤尾津氏を名乗る場合がありました。…っていうか赤尾津氏という名の方が有名な感じです。

 この一族は氏は清和源氏、本姓は小笠原大井氏、自称は小介川、他称が赤尾津氏であるとザックリ解釈していただければ…と思います。無論、そうでない場合もありますがね。

 小介川氏の系図は諸説有り詳しく確かめる事が出来ませんが、仁賀保氏と同じ清和源氏小笠原流の流れを汲む事だけは間違いないと思います。「源 光定」という署名もありますし。

 小介川氏は謎が多い一族です。まず苗字の由来が不明です。由利郡内の他の氏族は、凡そ領地の郷名ないし村名を苗字としております。仁賀保氏は仁賀保郷打越氏は打越郷などですね。矢島氏に関しては、信州時代に矢島村を領しており、入植した由利郡津雲出郷が姓にちなんで矢島郷に代わったものと考えられます。

 先人の論ずるところによれば、小介川氏の本拠地の前の川…小関川…が昔、小介川と言ったのでは…という事から、新沢郷は昔小介川郷と言ったか、小介川郷が新沢郷合併して郷名が消えたなどと考えることが出来るわけですが…。うーん。なんとも言えませんね。魅力ある説ですが。地名だけだったら、鮎川の支流に「御助川」という地名があります。いずれにしろ、小介川郷・小介川村それに類する類の名称が新沢郷には皆無なのが気になります。むしろ…信州に姓のルーツがあったりするかも知れません。

 …とした所、「布施村図」(佐久市布施の明治18年10月作成の絵図)に「小助川」地名を発見。布施村は仁賀保氏の重臣とされる布施氏の出身地か…と思われる場所です。おそらく小介川氏の出身地はここでしょう。

 彼らが初めて史料に登場した宝徳2(1450)年、小介川氏の当主と思われる小介川立貞は赤尾津郷の領有を巡って醍醐寺三宝院門跡と争っております。彼らが領していたのは「赤尾津」であり「小介川」ではないんですね。この時小介川立貞は相当昔から赤尾津郷を領していたことを仄めかしております。小介川氏は後に赤尾津郷を横領した様ですが、それ以前に住んでいた場所が「小介川」だという事なのでしょう。

 いずれ、小介川氏は醍醐寺三宝院領を横領して赤尾津氏をも名乗ります。この赤尾津郷を室町時代に実質的に支配してきたのが小介川氏でした。…モノの本には立貞という名前、となっているけど、「立貞」という名前、本当ですかね?。「光貞」の間違いじゃないんですかね?…。

 赤尾津郷を横領されて年貢を送られてこなくなった三宝院義賢は、細川勝元に「年貢送らせてちょ。」と訴え、細川勝元が「竹松殿」に命令しますが、現実に小介川氏と折衝したのは小野寺家道でした。

 しかし頭ごなしに「払えよ」と言われた小介川立貞はムッとして「先祖代々昔っから三宝院門跡の領土だっていうけどさー、年貢なんか送った事ねーよ。今更何言ってんだよ。」とつっぱねます。仲介の労を無にされた小野寺家道は、小介川立貞は「不肖人」であるから仲介は出来ないと伝えております。細川勝元や京都御扶持衆である小野寺氏の意向を無視するなんて…小介川立貞、怖い物知らずすぎ。

 余談ですがこの小野寺家道小野寺氏の系図上には出て来ません。南北朝時代には小野寺氏は「稲庭」と「川連」の2系統があったようです。恐らくそのどっちかの当主なのでしょう。これは由利衆も同様で、当初は同様に惣領制による同族連合であったと考えられます。

 閑話休題です。さてさて、この後、醍醐寺三宝院門跡は奥州探題である大崎氏や出羽守大宝寺氏を頼る事になります。結果は判りませんが、当時の醍醐寺三宝院って言ったら恐るべき権力を持っていたハズ。年貢納めたんじゃないかな。

 ここで奇妙なのは、小介川氏に影響を与える人物として羽州探題最上氏の名が挙がらない事です。宝徳元年8月に管領の細川勝元から命令を受けた「竹松」が最上氏だとすれば、もしかしたら当時の最上氏は幼少で、当てにならなかったという事でしょうか。

 小介川立貞後の小介川氏の系譜はハッキリいたしません。関ヶ原の戦い後、領主の座から転落した事が影響しているのでしょう。菩提寺であると伝えられる光前寺も小介川氏の庇護が無くなってから一時荒廃した様ですし。幾つか系譜が残っていますが、管見の範囲内では…ん~…というのが多いですね。

 何れ宝徳2(1450)年に「5代も10代も前から」赤尾津郷を手に入れた小介川氏は、鎌倉時代には出羽由利郡に本拠を構えていたと考えられます。戦国時代の中期まで小介川氏は小野寺氏の下知に従っていた様です。雄物川の河口を領地としていましたので、内陸の諸将にとっては物流の要を握られている状態であったでしょう。

 しかし、戦国時代が進むにつれ…というか安東愛季が湊安東氏を併呑すると…、小介川氏は安東氏方に鞍替えした様です。更に永禄年間から天正初頭にかけて仁賀保氏と大宝寺氏が争うと、小介川氏は大宝寺義氏と修好しました。上杉謙信の影が影響していたのでしょうかねぇ。

 永禄から天正期の小介川氏の当主は小介川治部少輔です。秋田市の新屋日吉神社旧御神体には「大檀那 大井治部少輔源光長」とあるそうで、小介川光長というのが本名でしょう。『矢島十二頭記』には「赤宇津道益」という名で登場いたします。「道益」という名は法名です。小介川治部少輔は天正10~11年大宝寺義氏の由利侵攻に際し大宝寺義氏と戦います。この時期、仁賀保氏は勢力が衰退し、安東愛季と共に大宝寺義氏を撃退した小介川治部少輔(光長?)が実質的な由利衆のリーダーとなっていたと考えられます。

 確証は有りませんが仁賀保氏と小介川氏は濃い血縁があったようです。仁賀保光誠が小介川氏から養子に入ったのは、血縁と小介川氏の当時の勢いの結果でしょう。但し仁賀保家を継いだ光誠は、どう見ても小介川氏…その背後の安東氏…の考え通りには行動していませんが。

 因みに仁賀保光誠は永禄4(1561)年生まれでして小介川治部少輔の弟ではないかと考えられます。天正4(1576)年12月晦日に「小介川総八郎光定」という人物が元服している様ですが、年から考えますと仁賀保光誠本人か、そのすぐ下の弟であろうと考えられます。更に「湊檜山両家合戦覚書」では羽根川氏の当主である新助小介川治部少輔(光長?)の弟であると伝えられます。

 小介川治部少輔は天正18年の奥州仕置にも生き残り4,000石程度の領土を支配していました。その領土は、現在の由利本荘市岩城地区と秋田市の雄物川南岸域だったと推察されます。恐らく実際は12,000石程度はあったのではないでしょうか。小介川氏は安東愛季との関係もあり、戸沢氏とは険悪だったようです。小介川氏は安東実季に取って南の要だったのでしょう。

 小介川治部少輔(光長?)は恐らく文禄5年の前半には没したか隠居したかと考えられます。文禄5年7月6日付の文書では小介川孫次郎に代替わりしているからです。ま、慶長2年の秀吉の朱印状に「赤宇曽治部少輔」が出てきますが、秀吉政権首脳が代替わりを知る由もありませんしねェ。

 この小介川氏で面白いのが小介川信濃守という人物です。この人物は関ヶ原の戦いの時に小介川氏の外交面で活躍する人物なのですが、もしかしたら天正17年の秋田湊合戦時に仁賀保信濃守として登場する人物と同一人物かも知れません。

 さて小介川孫次郎ですが、関ヶ原の戦いの折には仁賀保光誠と共に東軍として出陣いたしました。慶長5年9月に矢島氏の残党が蜂起した時には仁賀保光誠と共にこれを攻め落としています。更に12月、仙北大森城攻で抜群の働きをし、家康より下記の感状を拝領いたしました。

 

注進状之趣遂披見候、何千福孫十郎会津就令味方彼表江相働、敵数多被討取捕之由感悦、弥於被抽忠節可為祝着候、猶本多中務大輔可申候也、

  十二月十四日       家康 御判

   赤尾津孫二郎殿


 翌年、小介川孫次郎は上杉氏の移封に兵を出した記録を最後にその姿を消します。

 慶長7年5月より由利郡は全て最上領になり、小介川氏の城であった高舘に最上義光の重臣の楯岡満茂が入りました。後に楯岡満茂は赤尾津豊前守を名乗り、慶長9年頃より由利郡の領主となりました。 

 さて、小介川孫次郎はどうなったのでしょうか。一説に拠れば常陸国「矢田部」に移封になったと言われております。現在神栖市になってる「矢田部」でしょうかね??。又、別の言い伝えでは跡継ぎがないため改易になったともいわれます。または楯岡満茂等と戦って一族離散したとも伝えられます。

 が、江戸初期の史料である「最上義光分限帳」の中に

高七百石 一騎 鉄砲三挺 弓一張 鑓七本 小介川与兵衛

高弐百六十石 一騎鑓三本 小介川肥前

と有り、小介川氏は楯岡氏と戦ったというよりは、むしろ穏便に最上氏の騎下に入った様な感があります。小介川氏は戦って滅びたのではなく、平和裏に赤尾津を退去したとみるべきです。

 この小介川孫次郎と楯岡満茂の関係については、あくまで私の独断と偏見ですが、楯岡満茂が小介川氏を庇護する形で名跡を継ぎ、小介川孫次郎は隠居したものであろうと考えたいです。

 何れ、小介川一族はかき消すように領主の座から消えました。現在、小介川(小助川)を名乗る人たちは仁賀保など以外では 旧大内町の及位集落を中心とした地区に多いようですね。一族そろって移住でもしたんですかね。


 なお、『本朝武家諸姓文脈系図』(国立国会図書館蔵)に、出典が不明でありますが、「仁賀保家系図」の中に光誠の出自として「越前国福井藩赤尾津家」と出ております。この系図の内容はかなりおかしいので、利用に関しては注意を要するものでありますが…。最上騒動の後、最上家を離れ福井藩士になったものも確認され(栃屋半右衛門)、最上家改易後の小介川氏の本宗は福井藩に仕えたものでしょうか。