Ⅵ矢島40人の者たち①
⑱仁賀保兵庫頭のだまし討ち
矢島満安が滅び、矢島が仁賀保領になり、逃げていた矢島満安の旧臣がボチボチ戻ってきた事に対する記事です。
(A)本です。
文録2年頃には、矢島へ(矢島氏旧臣の)40人の者達は大体帰ってきた。 仁賀保殿はこれを知り、8月中旬に兵庫頭殿より矢島遺臣40人衆を召し出され御馳走をふるまわれた。しかし彼らが酔っぱらったのを見計らい、残らず討ち取ろうとしたことが露見し、彼らは逃走した。このうち相場は老人であり山中で討ち死にした。40人衆は矢島にて浪人になった。
以下、(B)本です。
大江五郎大夫満安殿が切腹された後、五郎殿の家来共は矢島に帰り兵庫殿から領地を給わろうとしたが、兵庫殿は謀略を使い無実の罪を着せて討ち取った。
中でも文録2年9月中旬に矢島遺臣40人衆に料理を下さるといい仁賀保根城に赴いた所、大門に向かったあたりで斎藤甚五郎、大沢(式)部が大軍にて攻めかかった。40人衆は乾坤一擲の戦いで囲いを破り逃げた。その中でも小番河内、豊島右馬の2名の内、豊島は老人であり武者1人組留め刺し違えて死に、小番河内は敵2人と組合、敵と共に刺し違えて死んだ。相庭市右衛門は屋布(現在の屋敷集落)の方へ逃げ、これを4、5人が追いかけたが敵1人を討ってから死んだ。その外、又家来ともに22人討死した。(□□)は仙北へ逃げ隠れて住居した。
(B)本は(A)本を参考に話を膨らませているのですが、仁賀保兵庫が矢島氏旧臣40人衆を討った場所は(A)本では記載されていませんが、(B)本では仁賀保の山根館だった事になっています。
おそらく(B)本は矢島氏に忠義を尽くす「矢島氏遺臣40人衆」の話を書きたかったのでしょう。天正16年に矢島氏が滅びた後、5年間、忠臣達が逃げているのは具合が悪いですからね。矢島氏が文禄2年に滅びた事にし、その直後に矢島氏の遺臣を仁賀保氏が討伐したことにしたかったのでしょう。
でも通常考えれば40年間戦って来た敵ですよ。満安が滅びたとて、のこのこすぐさま敵の主の元に出頭するわけありません。やはり、ここは5年間ホトボリを覚まして戻ってきたが、仁賀保氏が…の方が辻褄が合います。
続きます。
⑲矢島遺臣40人衆と上杉軍
(A)本です。
(慶長5年)米沢の上杉景勝殿の出城である出羽酒田9万石の城代志駄修理殿より、矢島遺臣40人衆に極秘の手紙が来た。それには「関ヶ原の石田治部少輔殿が関東に攻め下った時、上杉景勝殿は関東に攻め上ることになっている。我等は酒田より仁賀保に攻め入ることになっているので、矢島遺臣40人衆は仁賀保を背後から挟み撃ちにしてもらいたい」との事。亡き主の敵であるので、志駄殿に味方することを40人衆は決定した。
続いて (B)本です。
慶長5年8月25日、酒田の城主である志駄修理殿より、「浅野権之丞を軍大将として9月10日に由利に遣わして、由利中の城主を攻め潰すことにした。ついては矢島遺臣40人衆は矢島に兵庫頭殿が附け置いた八森城番を討ち城を乗っ取り、権之丞から命令があり次第仁賀保に攻め込んでもらいたい。大江五郎殿の支配されていた知行所は40人衆に分け与える」と、阿部與四郎から大江三右衛門方に仰せられ志駄田殿の判物を渡された。それより相庭又四郎、(中略)大江三右衛門ら7人が様々議論した。「旧主の敵であるだけではなく、親兄弟まで故無く討ち殺され領土を失った。口惜しい。この上は一味同心して、良くも悪くも旧主の敵に一矢報いるべきだ。」と相談した。
(志駄の)使者の與四郎は矢島に留め置いて、五郎殿の旧臣たちに廻文を廻した所、高橋靭負、(中略)今野下野、都合40騎が、相庭又四郎、(中略)大江三右衛門ら7人衆の命令を受けて命を懸けて戦うと一揆を形成して、志駄殿の命令次第、動くことを阿部與四郎に申し含め、百宅から山越えをして酒田に送った。
なんつーか(B)本の特徴は、「●●と▲▲が忠臣だよー。」というプロパガンダに満ちた感じがしますね。(中略)した所には、一揆衆の名前がずらっと名前が記載されています。
矢島の敵は由利衆だけではなく、そのバックに最上義光がいるとし、「それに負けなかった矢島氏の配下のボク。すごいでしょ。」が目的なんでしょうなあ。慶長5年の出羽合戦は9月8日がゴングなので、(B)本の8月25日、無くは無いです。
(A)本の肉付けをしたのが(B)本っていう感が分かる項目です。