Ⅷ その後
㉒その後の矢島・仁賀保
ここから先の記事が(A)本・(B)本とも、それぞれ分かれます。(A)本は矢島メイン、(B)本は仁賀保と記述が分かれます。
(A)本です。
慶長8年、仁賀保兵庫頭殿は常陸国の内武田に国替を仰せつけられた。由利は最上殿の領地になった。4万2千石は楯岡豊前守殿、1万石は瀧澤殿、矢島3千石は楯岡長門守殿の領地になった。何れも最上殿の家来衆である。
同9年3月、矢島遺臣40人衆の取り計らいで、お藤殿は楯岡長門守殿の奥方様になった。
同17年3月中、豊前守殿が本赤尾津から新赤尾津に御引越しされた。矢島からも人足2,500人遣わされた。由利中の人足が普請にでた。御城が出来た。
同年4月由利、最上殿より検地が入り年貢が改められた。奉行は日野備中守である。新たな年貢では矢島の百姓達全てが生活できないので、田地を差し上げ仙北に移住することにした。同年、新藤但馬守殿が再検地し年貢を改めて変えられた。矢島中3,000石2斗8合にすると仰せられたので、百姓共は矢島に帰った。
慶長19年5月、瀧澤院主の意風が鳥海山の順逆の出入について出羽12郡の領内頭である最上行蔵院に訴状を提出した。矢島領の修験頭である喜楽院が最上行蔵院に行き、開基である役行者や再興した□寶尊師の品々を提出すると、「今までの様に」と仰せつけられた。意風は最上より上方に浪人した。
元和8年、本多上野殿が由利中を領地に貰い下られた。同暮に年貢をとられた。
同9年夏、(本多上野殿が)大澤千石に所替えになられた。
同年10月中、打越左近殿が矢島へ下り3千石の領主になり八森城に住居された。同時に岩城但馬守殿2万石は亀田へ下り、六郷兵庫頭殿は本庄2万石へ御下り、仁賀保兵庫頭殿も由利に下られた。
寛永11年8月7日、打越左近殿が亡くなり家が断絶した。
同年より天領となり、本多勝左衛門殿が寛永15年迄代官をされ、その年からは稲垣忠右衛門殿の支配となった。
(B)本です。
慶長7年、兵庫殿は常陸国の武田に国替えになり、その後には最上義光公の配下の楯岡豊前殿が由利5万8千石を知行された。右の内1万石は瀧澤刑部殿、矢島3千石は楯岡長門守の領地である。豊前殿は赤尾津に居城されて、同15年に本荘城を作られた。
元和8年、最上殿が改易になり由利は本多上野殿の領地になった。更に元和9年12月、兵庫殿、六郷兵庫殿、岩城但馬殿、打越左近殿が由利中を知行された。
仁賀保兵庫殿は寛永元年2月24日に亡くなられ、御子息の蔵人殿に7千石、御次男の内膳殿へ2千石、内記殿に千石、四男次郎殿に8百石。かくのごとく寛永2年に兵庫頭殿の御遺言で分知した。
寛永8年10月8日、蔵人殿が亡くなられ7千石は改易になった。(領地は)酒井左衛門殿に御預けになり、代官として安部竹右衛門殿、寺内八兵衛殿が入られた。
それぞれ、纏めてみましょう。
イ) 仁賀保兵庫頭は常陸武田に転封になりました。(A)本では慶長8年、(B)本では慶長7年に転封になったとされます。…これは慶長7年が正解かと思います。(A)本の日付も鵜呑みはマズイですね。
ロ) 慶長9年3月、矢島満安の娘のお藤(お鶴)は矢島40人衆の取り計らいで、楯岡長門守の奥方になりました。…これは(A)本だけの記載です。
ハ) 楯岡豊前守は居所を本赤尾津から新赤尾津に異動した。慶長17年3月の事としています。これは矢島よりも人夫が多数動員されたので記載があるのでしょうな。(B)本では慶長15年のこととして、名称も本庄の城としています。城は1年で出来た物では無いでしょうから、多少の異同はあるでしょう。
ニ) 慶長17年4月、日野備中守を奉行として矢島に検地が入った事が伝えられています。…厳しい検地だったのでしょうなあ。逃散したことを考えますと。(A)本のみの記述ですね。
ホ) 慶長19年の矢島と滝沢の鳥海山修験霞場の利権争いは、矢島修験が勝ったと記されています。これも(A)本のみですね。
ヘ) 元和8年、最上氏が改易後、本多上野守の領土になった事が両本に触れられています。翌9年夏に本多上野守は更由利郡を取り上げられ、大沢郷1,000石に国替になりました。これは両本ともに触れられています。
ト) 元和9年、岩城、六郷、打越、仁賀保の各氏が由利郡に入部されたことを記しております。これは両本とも共通の記事ですが、(A)本は特に打越氏が矢島3,000石で入部した記事が主となっております。
チ) 寛永元年に仁賀保兵庫が没し、蔵人らに仁賀保領を分知した記事は(B)本のみ、同11年に打越左近が亡くなった記事は(A)本のみですね。
こうしてみると、矢島関連の記事は(A)本に、仁賀保関連の記事は(B)本に纏まっているのがわかります。やはり元々は矢島氏郎党で打越氏、ついで生駒氏に仕えた者が書いた覚書形式のものがあり、(A)本はそれに基づくもので、(B)本はそれを更に仁賀保側からの目線で改変したものだろうと考えるのが自然でしょうなあ。(A)本はえらく修験の話が入ってきていることから修験系の者、(B)本は7,000石家の改易で終わることから鑑みれば7,000石領の誰かの筆によるものでしょうか。